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くたばれ

諸屋超子

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第7回 扁桃体ララバイ

     偉大な指揮者に敬意を込めてマエストロと呼ぶことがあるが、イタリア語またはスペイン語のマエストロの語源はラテン語のmagister(主人)でより偉大な人という意味のmagisから派生している。

     イタリア語で指揮者はdirettoreで語源がdi(離れて)rect(支配する)前方上段もしくは天上がイメージされるその立ち位置がそもそも神めいたというのか、偉大さを感じる配置だ。一方英語ではconductorであり語源はcon(=com 一緒に)duct(導く)ものなので、その立ち位置は隣あるいは、せいぜい列の先頭のイメージで身近さや親しみを感じてしまう。

     だからこそ英語圏でも威厳を持たせるためにマエストロという表現がしばしば使われるのかもしれないが、さて、世界に指揮者がいるとして、我々と「一緒に」いるのだろうか、「離れて」いるのだろうか?

     世界の指揮者とは、宗教で言うところの神だろうが、それはあるものには大自然そのもので、ある者には大国の長のことかもしれない。またあるものには勤務先の経営者、否、直属の上司かもしれない。

     つまり我々は普段、世界という言葉に共通認識を持っている気になっているが、その実、イメージされる範囲はそれぞれ異なり、千差万別でなのである。

     さらに、上司を神とする者が世界は広く神との距離をdi(離れて)いると感じ、宇宙全体を世界とし一神教を信仰するものにとって世界は狭く神はcom(一緒に)いると感じているという可能性も考えられる。日当たりのいい窓辺に置かれたいすの上で、母親に抱かれた赤ん坊が世界をどう感じているか想像したときと同じで、本当はどうなのか、外から見ても全く分からない。

     さて、世界の指揮者a.k.a神。その前に置かれた楽譜にはどんな発想記号が書かれているのだろうか?

     鈴木武の部屋が見えてきた。彼の部屋はマンションの13階、角部屋。今は昼間だというのに会社にも行かずYouTubeを見ている。武は神の楽譜にはきっとCapriccioso(きまぐれに)と書いてあるに違いないという考える人物だ。

     画面には、所帯じみた市営住宅のキッチンで中年夫婦が夕飯の準備をしている動画が映し出されている。

     といっても、夫はカメラを回して

    「ママー、今夜の夕飯はなあに?」

     と子どもじみた二重表現で問いかけているだけで、妻だけがいそいそと業務用スーパーで買ってきた冷凍食品を揚げたり、焼いたりしているのだ。

     その間、夫婦の(というよりはほとんど妻の)おしゃべりは止まらず、食事が完成した際に彼女が

    「お片づけして」

     と呼びかけたことで、この夫婦に幼い息子がいたことに気づかされる。

     何本も何本もアップロードされたその同じような動画を、武は次々と開いては飽きることなく見ている。

     もし、この家族にとってこの狭苦しい市営住宅の一室が世界なら、神はdi(離れ)ているのかcom(一緒に)いるのか? 半年は美容室に行っていないような髪をヘアクリップで無理矢理ひねり上げたこの女こそがもしかしたらその人なのか。

     女が腰からぶら下げたタオルに目を奪われつつ武はなぜ自分がこんな動画を見ているのか、自分は一体何を見ているのか考え続けていた。

     質問コーナーというタイトルの動画を見つけて開いてみる。そこでは、女がこのチャンネルが獲得した5万人もの登録者を、彼女に〈興味を抱き〉〈夢中になり〉〈憧れている〉人々と前提して語りかけていた。彼女は広場にそびえ立つ独裁者の像のように堂々としている。

     一方、それを見ている武はというと、先日遠い国で始まった戦争のニュースを受けて怖くなり、今朝、会社を休んだのだ。

     毎朝、指揮者a.k.a神が武の鼻先に指揮棒をつきつけて言う。

    「都心の駅構内にはテロの危険性がある」

    「出張を言い渡されればさらなる危険地帯である空港へ向かうことになるぞ」

    「中東なんて遠いかね? ここ日本には関係ないかい?」

    「さあ、どうする? どうする? 会社員という仮の姿が君の本質にすり替わって命を投げ捨てるのが見えるようだ」

     指揮棒に呼ばれたように焦燥感が押し寄せる。それでも昨日までは怯えつつも電車に乗っていつも通りに会社へいっていたのだ。とても肩が凝った。緊張をほぐしたいと、飲めもしないのに飲み屋に立ち寄り、酒をあおってトイレに駆け込んだ。そして今朝、靴を履こうと掴んだ靴ベラを下駄箱にぶつけて折ってしまい、なんだかもう頑張れないような気になって、ついに会社を休んでしまったのだ。

     こんな気持ちでいることは、誰にも話せていない。今回の戦争の経緯をきちんと把握している自信すらないのに、こんな風に追い込まれるなんて滑稽だと感じていた。

     もちろんインターネットで調べたり、新聞に目を通したりして、把握できることは把握しておきたいと頑張ってみたが、知れば知るほど自分が分かっていないということがわかるばかりで、なにも分からないという気持ちだけが強まった。そして、分からないものはとても怖かった。ただ、無関係には済まされないような感じがして、怖くてたまらなかった。

     しかし、市営住宅の彼女は違う。彼女は世界のすべてを知り、余裕しゃくしゃくで語りかけてくる。

    「このスーパーのプライベートブランドは値上げしない」

    「自然の中に居たいからフェイクグリーンを沢山飾ってます」

    「群馬が海なし県って嘘だよ」

     海をも動かすことのできる彼女は、きっと遠い国の戦争に怯えるなんて愚かなことはしないだろう。

     彼女は何一つ知らないことがなく、彼女は何にも屈さない。トレンドなど一つも取り入れていないヘアスタイルを堂々と解説し(彼女の髪は美容室ではなく彼女の手によって切られていた)使用しているシャンプーを打ち明け、夫とのなれそめを語る。武は、何一つ知りたいと思っていなかったのに、彼女の何もかもを知ることになった。

     そうしているうちに、不可解なことに武は、彼女の立つ広場に5万人の同志たちと集まりたくなった。集まって、彼女に導かれたくなった。

     彼女はどんな些細なコメントにも目を通し。少しでも彼女を批判したり、間違いを指摘したコメントを見つけると、その者がどれほどものを知らず、どれほど間違っているかについて必ず言及した。

     彼女はdi(離れて)いるようで、com(一緒に)いるようだった。武は彼女 a.k.a 神との距離が測れなくなり、世界は伸び縮みした。そして混沌のなか、武は不思議なことに平安を手にし始めていた。

     彼女は絶対に間違えない。彼女こそはマエストロだ。さらに彼女が今指揮している楽譜にはRigoroso(厳格に)と書いてあるに違いない。きっと作曲者も彼女だ。

     画面から目を離すと、外はすっかり暗くなっていた。窓に反射する自分の部屋がやけによそよそしくて心細くなった武は鼻歌混じりに腕を振ってマエストロを気取ってみた。それに飽きると、朝が早く来るように祈りながら明日のネクタイとワイシャツを丁寧に選び始めた。

     

     

    [© Choko Moroya]

     

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