わたしが高校生の頃、担任の教師から宿題を出された。『豊かさとは何か』暉峻淑子(1989年 岩波書店)を読んで感想を書いてくるようにと。それは、薄曇りの秋の日、午後3時のことで、17歳だったわたしは、素直に帰り道は本屋へ寄り道をした。もちろんお目当ての赤い表紙をきちんと買ったのだが、一緒に山田詠美の『ひざまづいて足をお舐め』(1991年 新潮社)を購入したため、それは後回しにされ、無視され、忘れたフリをされたまま四半世紀が過ぎた。宿題なんか提出しなかった。一層の腐れに読みもせず、読んだふりもしなかった。
ただそのまま卒業し43歳になった今でも(若い頃のように首の後ろがズーンと重くなるような憂鬱を伴うことはないにしろ)その本を読んでいないことを気にしている。それならいっそ読めばいいのに、今日もまだ読んでいない。買ってすらいない。あの日の帰り道に購入した本は、当然ながらもう手元にはない。
しかし、そのタイトルがいつも、いつでも問いかけてくる「豊かさとは何か? なあ、何だと思う?」わたしは答える。貧しさなら分かる。貧しさなら玄人なのだ。貧しさについてなら少しは話せる。
いつの日もわたしは貧しさとはごく親しい友だちだった。わたしと貧しさは、双子のように結ばれて、ある時は愛しくてたまらなく、ある時は顔をみるだけでむしゃくしゃして、ある時は抱きしめて眠り、ある時は布団をはぎ取る。それでも気がつけばいつも隣にいる。隠したくもあり、いっそ誇らしくもあり、見せびらかしたい気さえある。追い払う気もなければ、縁を切る気にもならない。
ただ生まれた時から身体の一部のような彼女と切り離される痛みは、想像するだに恐ろしい。
彼女は(貧しさは女性だ。男性では断じてないし、かといってジェンダーフリーというわけにはいかない。はっきりと女なのだ)わたしがひとりでいるとき、誰もいない夜道を星や自販機を眺めつつ鼻歌混じりに歩いている時、ふと現れる。用もないのに大きな広いホテルのロビーで、ゆったりとソファに腰掛けて周りを見渡す気楽な午後に、彼女は目配せをする。冷凍庫から出した塩鮭が、とぷんとスープに浸かるのを見つめるあの瞬間に。
わたしが初めて彼女を見たとき、彼女は小さな子どもの手を引いていた。彼女が数年前に産んだこの子どもは、非常に可愛がられていた。2人がスーパーにいるのが見える。
それは寒い日で、子どもは狭い家に閉じ込められているのに飽いたのか、どうにも機嫌が悪い。しかし、寒空の下、頰を真っ赤にして遊ぶ子どもをじっとベンチで見ていると身体が芯から冷えてしまうだろう。
夫の給料日まであと14日。財布の中味はほとんど空。頼りない1000円札が3枚きり。通帳は空。常に空。空にしないと思いがけないものを引き落としされてしまうから。まだ猶予のある今月の水道代とか、いつだったか契約したちょっとしたなにかとか。
それでカフェにいくというわけにもいかず、気晴らしにスーパーへ来た彼女。スーパーなら暖房も効いているし、誰がこんなに買えるのかと不思議に思うほどとりどりの商品を並べた広い売り場がある。なかを散歩するのは、夜店を回るようでワクワクするではないか。
子どもには何も買わないことを言い聞かせてある。彼女はゆっくり、のんびり、清潔な売り場の空気を楽しみながら歩いていく。パイナップル、ドラゴンフルーツ、マスカット。ミント、バジル、コリアンダー。ロマネスコ、レッドルビー、プリンセスパプリカ。サーモン、いくら、ホタテ貝。砂ずり、スペアリブ、国産牛のヒレ肉。
美しい食べ物たちにうっとりしていると、足元から子どもが問う。
「今日はなにも買わないね? なんにも買わないお約束だね? お肉もお魚も高いからね?」
子どもの声は、誰からも否定されたことのないもののみに持つことを許された、よく響く大きさでのびのびと放射し、広がっていく。
「このお肉も高そうだね? 買えないね? ね? ママ、ね?」
彼女は子どもを抱きあげ、焦って買い物かごを取る。要りもしないハブラシ、台所洗剤、アルミホイルをカゴに入れレジに向かう。
子どもはそんな彼女の横顔に、自分の鼻をくっつけ甘える。
「チューチューキャンディ、高いよね? ママ? チューチューキャンディ高いもんね?」
顔から火の出る思いで子ども用のキャンディもカゴに放り込む。
家に帰り、陰気な部屋で彼女は子どもをなじるだろうか? きっと。少なくともそうしたいとは思っているはずだ。そうする代わりに、キャンディを取り上げて「これはまた明日にしましょう」と制限を与え、うさを晴らすかもしれない。
『豊かさとは何か』推測するに社会全体が幸福になること、隅っこにくらすすべての人に光を当て、隅っこに居なくていいと暖かく迎えることが重要であるときっとその本には書かれているのだろう。当たり前の本ならば、それが良識というものだ。貧しさは彼ら自身の責任ではなく、我々はすべからく愛され、救われ、認められるべきだと。
貧しさとは何かを問われ、手練のわたしはこう答える。隅っこにいて、世の中から切り離された場所で、誰の言いなりにもならず、誰の価値観にも染まらず幸せを感じている自分を恥じることだと。恥じることで、心に嵐を起こし、家族に、自分に辱めを加える動機を常に生み出すことだ。逃れるには恥じるのを止める以外にないのに、しがみついて留まることだ。
誰が彼女を知っているだろうか?
スーツを着て、髪にパーマを当て、近所の小さなうどん屋へはいる。穏やかに微笑み、幼稚園の制服を着た子どもに念を押す。
「さっき言った通りよ。今日はママの頼んだもの以外欲しがっちゃダメよ」
子どもは素直に頷く。
店員を呼び、肉うどんときつねうどんを頼んでいると子どもが息を吸い込むのが聞こえる。彼女は早口に注文を終えようとするが、子どもは無邪気で容赦がない。
「ママの好きなおいなりさんあるよ。ママ、気がついてる? おいなりさん、わけっこしようか?」
仕事に就いた彼女は、働くための出費の存在を知り落ち込んでいた。見た目に立派になった彼女だが、財布の中は相変らずの3千円。通帳は少し色づき13,000円で、お給料日まではあと14日。
彼女は子どもの誘いを断れたか? 否。これを断るのは、彼女にとって友人に預金残高を打ち明けるがごとく。スーツが張りぼてであることを、きっと知られてしまう。店員が去った後、さっと怖い顔をして子どもに言う。
「あなたには、ママが言ったことがわからないのかしらね」
こんな幼い子に八つ当たりしたところでなんになる? 彼女にだって分かっている。しかし、子どもの教育費の為に働いているのだ。働きに行かなければ、スーツもカバンも要らなかったのに。ハイヒールの靴擦れも、まつ毛エクステも、手のちぎれるほど重いパソコンを持ち歩いて作るまめの出来た手につけるネイルも。何も要らなかったのに。
彼女は必要なお金と自分の見栄を混同している? そうなのか? 世間から見たらそうかもしれない。しかし彼女は貧しいのだ。どうしたら、働く仲間に認められる身だしなみを整えられるのかが分からない。分からないが、認められている人は着飾り、認められていない人は夕飯のために捌いた魚の匂いが染み付いた手で事務所のドアを開けるのだ。
会社から蹴り出されれば稼ぐ場所はない、稼ぎに出るために作ったクレジットカードは支払額がうなぎのぼり。昨日は、カード会社にリボルビング払いに切り替える手続きの電話をしながら風呂掃除をした。
怖い顔の彼女は、子どもを救いたいのだ。なにから? 自分を苦しめる貧困から。送り出したいのだ。彼女が見えなくなるくらい明るい場所へ。
自分の人生を悔やみながら、子どもに別の道を示すのが貧しさだ。別ならば、きっと明るいはずと無邪気に信じて、子どもか泣こうとわめこうと、そちらへ行けと背中を押すのだ。ライオンが崖から子どもをつき落とすように。落とした先にあるという、美しい世界に心を奪われたまま。
富の再分配と聞いて、あげるもんかと思うのが貧しさなら、誰もくれるもんかと信じ込むのも貧しさだ。福祉の援助を受ける人を怠け者と罵倒するのが貧しさなら、福祉の援助を受けるため、役所に出向く休みが取れないのも貧しさだ。友人に誘いの電話をもらうたび、財布の金を数えて友人を呪いながら出かけて行くのが貧しさなら、友人の手土産に返すものがなく俯くのも貧しさだ。時間と労力をかけてセール品を探し求めるのが貧しさなら、お得な5キロの米を買う金がなく、割高でも今日は千円も払わなくていい1キロの米を買うのも貧困だ。金持ちを偉い人と思いこんで、揉み手するのが貧しさなら、話題の中心にいながら、政治も経済もわたしに関係のない国の出来事と思うのも貧しさだ。
彼女はどこから来てどこへ行くのか? 子どもはいつか性別を持つのだろうか?
彼女にとって、朝は昨日を引きずっていて、昼は媚びへつらった笑みを浮かべ、夜は酔いと嫉みが生み出す暴力が牙を剝くものだった。春は寄る辺なく、夏は退屈で、秋は空元気、冬は鬱々とのしかかるもの。幼少期は邪魔にされ、思春期は貶され、青年期は裸足で駆け出し、中年期は自ら檻に入り眠るもの。食卓は恐怖、風呂場は脅し、トイレには猥褻が棲むものだ。
貧しさから見えるすべての景色は、歌の中でだけいのちを持つ。踊り、踏み鳴らし、手拍子して、黙らせられたものにしか出せない唸り声を上げる。
彼女が踊り狂うのを、わたしは両手を広げて歓迎する。踊れ、叫べ力の限り。子どもの顔が見えるまで。
[© Choko Moroya]
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