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くたばれ

諸屋超子

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第18回 月落ちて烏鳴く

     マンダラチャートの馬鹿馬鹿しさは、曼荼羅の肝である俯瞰という概念が丸ごと抜け落ちている点にある。

     ブッダが菩提樹の下で悟りを開いたのは、マンダラチャートを地道に塗りつぶしてきたからでは決してない。

     そのことは、ていねいな暮らしをしている人が昔はブラック企業の優秀社員だったと聞いても驚かない人や、人当たりの良いみんなに分け隔てなく接する人気者と独裁者の笑顔がまるきり同じであることに納得する人には理解できるが、そうでない人にはちんぷんかんぷんであろう。

     しかし、ちんぷんかんぷんである人を馬鹿にするわけにはいかない。彼らは総じて幸福で、凡で善良な気の良い奴らなのだから。

     私の友人の朝永広夢は、会う度に庭で採れたハーブや最近オススメの美味しい焼き菓子などを持参してくれ、ごく控えめで、私の悩みには親身になってアドバイスをくれる優しい男だ。彼は年末年始は必ず田舎へ帰省して、たっぷりの泥のついたままのネギを新聞紙でくるんで持参し、ほんの2〜3分玄関口で立ち話をしたら「風邪をひかせてはいけないから」とさらりと立ち去る。

     彼のことを悪く言う人を私は見たことがないし、誰に会わせてもみんなが彼を気に入る。

     先日彼が我が家に遊びに来た時に、私が難治性の病気にかかっていることを報告すると、こんな風に励ましてくれた。

    「大丈夫、そんなの乗り越えていけるよ。前に首相をしていたAさんも、注射を打ちながら公務をこなしていたしさ」

     私は正直なところAの行った政治なんてろくなものではなかったと今でも感じているので、その言葉が励ましであると気がつくまでに3秒の間が空いてしまった。

    「まあ、人間万事塞翁が馬だね」

    「明けない夜はないよ」

     朝永広夢は、分かったような分からないような返事をした。ガサツな私の家には飲み口の欠けたマグカップしかないが、彼は器用に欠けを避けながら楽しそうに紅茶を飲み、クッキーをひとくち齧るごとにうまい、うまいと喜んでくれる。彼は、悪意というものに一度も触れずにここまで生きてきたみたいな顔で爽やかに笑う。

     目の前の相手を大切にし、礼儀正しく誠実な彼が、Aの裏金問題やカルト教団との癒着についての報道を見なかったわけでもあるまいに、どういう気持ちで「Aさん」なんて親しげに呼ぶのか私には少しも理解できずにいた。

     しかし、彼がおもむろに鞄から取り出した茶色い丈夫な革製のリングノートを開いた時、ハッとさせられた。彼は、毎日の感謝をメモして、あの馬鹿馬鹿しいマンダラチャートに色を塗って1年経過したと嬉しそうに話してくれた。

    「僕は今年で今の会社に就職してちょうど20年になるんだ。去年の僕は、大きな節目を前にして少し悩んでいた。今の僕にあって、20年前の僕にはなかったことってなんだろう? 一体どうやってこの20年をすごしてきたんだろうって」

     私はうなずきながら、彼の鼻毛の先に心細く揺れる小さな白いティッシュペーパーの破片を見つめていた。

    「それで本屋に走ってね、探したんだ。闇雲に。何を探しているのかも分からないままね。どこかの棚に、僕にピッタリの、なにか通知表みたいな、インジケーターみたいなものがきっとあるはずだって」

     目を輝かせ、鼻息を荒くした彼は、健気で可愛らしい白い妖精が、優しくさよならを告げて飛び去ったことには少しも気が付かないみたいだった。

    「で、僕は運良く宝探しに成功して、この習慣をはじめてみたわけだ」

     青い鳥は家にいたんだし、宝の地図を宝としてしまえば宝探しはぐっと楽しい。

    「飽き性の僕にしては珍しく、1年ちゃんと続いたんだよ。自分でもビックリ」

    「へえ!」

     なんと彼は、自分がルーティンを崩さないタイプだと気がついていないらしい。これはこれは驚いた。

    「まあ、あくまで僕の場合であって、きみに押し付けるつもりはないんだけどね、すごくいい習慣だなって感じたよ。今年もやってみるつもり」

     そう言って鼻をかく彼。そうだよ。さっきまではそばにいたのに、今はもういないんだ。

    「それをやってなにか変わった?」

     私はさみしさを打ち消すように、わざと明るく大きな声を出す。

    「そうだね、実は僕、去年ポジティビストの資格を取得したんだ」

     ポジティビストとは、目の前の人や大切な存在を励まし、明るくしてあげられるように専門の訓練を受けたものに与えられる資格で、6ヶ月間の座学と、1週間の合宿講座を修了し、ペーパーテストと面接形式の試験にパスすることでやっと取得できるらしい。遼東の豕。

    「達成感がひしひしと感じられるよ」

    「すごい!」

     普段ネガティブな表現に使われがちな副詞を、彼はすかさずポジティブに使った。

    「今年は何を達成したいの?」

     私はやる気に満ちた彼の輝く笑顔を見るのが好きだ。この世が美しい場所であると疑わない彼の、輝く笑顔以外の表情を、実はほとんど見た事はないのだけれど。

    「次はもっと生活に役立たせられるように、ファイナンシャル・プランナーがいいかなと思ってるよ」

    「お金のことは誰の人生にも関わることだもんね」

    「そうだね、貯金や積立は大事だと、この前吉田さんの紹介で行ったセミナーで実感したから、ますますね」

     おそらく、吉田は朝永広夢に積立NISAか何かを勧めたくてそのセミナーとやらに呼んだのだろう。朝永広夢は吉田のお勧めの商品を契約して、セミナーへ誘ってくれたことを感謝日記に記録したはずだ。朝永広夢。なんて良い奴なんだろう。友人が得しようとしていると思っただけで毛嫌いする輩の多い中、吉田のようなセールスパーソンにとっては、朝永広夢は理想的な友人だろう。セールスパーソンへの職業差別もないし、さらに感謝を少しのてらいもなく表してくれる。

     吉田はさっぱりしているやつで、私もそんなに嫌いじゃない。私には金がないので、吉田は私をセミナーに誘っても来ないが。

    「たしか前に、結婚したいって話していたけど、婚活は目標にしないの?」

     朝永広夢は少し遠い目をして、静かにテーブルに置いた手を組んだ。

    「実はね、やってみたんだよ。婚活」

    「え? いつ?」

    「去年1年間。マンダラチャートにも書き起こした」

    「で? 結果は?」

    「僕って本末転倒なタイプなのかも。マンダラチャートが塗りつぶせないことにつまらなさを感じてしまって婚活をやめたんだ」

     木に縁りて魚を求む。

    「でも、結婚したいんでしょ?」

    「……分からなくなっちゃった」

    「そうか。分からないなら、しなくてもいいよね」

    「うん、分からないのに頑張れないから」

     私には、朝永広夢の気持ちが、やっぱり少しもわからなかった。でも、きっと説明することも出来ないんだろうから、分からないまま。私はこのまま、この分からないを持って生きて行く。

     外はポカポカ日が照っていて、ちっとも冬らしくないから、私はちょっと悲しくなった。冷たくて白くてあたたかい雪の放つ光が、今年もあったら良かったのにな。白い世界に閉じ込められて、逃げ込むベッドに猫が載る。甘やかな重さに押し潰される幸せが、私にとっての冬なのに。

    「猫でも飼えば?」

     私が言うと

    「生命はそんなに軽々しく飼えないよ」

     朝永広夢はふふふと笑う。

     一昨年の雪の日、野良猫が雪の中で凍えていて、朝永広夢は手に持っていたあたたかいココアをそっと猫の近くに撒いて、猫の頭を撫でていた。野良猫は翌朝凍え死んでいたのを近所の人が見つけてお庭に埋めたそうだ。朝永広夢には、何も聞かれなかったから、何も言わなかった。

     たぶん、裏金もカルト教団も、朝永広夢にとってはココアで囲まれたあの猫なんだ。目の前に現れれば自分の大好きなココアを犠牲にしてでも「助けて」あげるけど、目の前から消えた瞬間いなくなる。朝永広夢の大好きなココアは、もちろん猫にも良いもので、嫌な思いをさせることなんて絶対にないと信じて疑わない。

     あなたが朝永広夢を軽蔑するのは自由だが、私にはとても難しい。朝永広夢は優しくて、心底善良で、友情にも厚い。朝永広夢がもの事を俯瞰して見ることが苦手なことは罪ではない。罪には問えないだろう。誰にも裁けるはずなどない。

     ただ、それだからこそ、私たちは今日、鳴り物入りでやってきた第三次世界大戦を追い返せずにいる。

     朝永広夢が大嫌いだと言える自分ならいいのに。嫌いだと言われて、開き直る朝永広夢ならいいのに。せめて朝永広夢が裁かれて罰せられれば安心するのに。

     私たちは、ずっと続くはずの平和に包まれて、闘うことすら忘れてしまった。平和ボケだと罵られ、慌てて悪そうな顔のヤツを探して叩く。叩いたらそれは天使みたいな赤ん坊で、石に漱ぎ流れに枕す。

     ずっとそばに居るって言ったのに、さよならも言わず飛び去った白い鳩。月さえ見えない闇夜に独り。世界中の眠れない人々が、今や遅しと朝を待つ。

     正義の味方は僕らの敵か? 悪の艦隊運んだパンは、海の藻屑と消えていく。

     正義ってなんだっけ? 正義ってなんだっけ?

     朝永広夢のまぶしい笑顔に、私はパンチをかましたい。そして肩を貸して、一緒に進みたい。

     いつか来るはずの朝を迎えに。

     

     

     

     

     

    [© Choko Moroya]

     

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