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くたばれ

諸屋超子

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第19回 さよならアートマン

     ユヴァル・ノア・ハラリは人類は昔から情報に踊らされてきたと語り、小坂井敏晶は人とは外因の沈殿物だと言う。デカルトの「我思うゆえに我あり」の我はことごとく否定され、上座仏教は諸法無我を説く。

     しかし、マドンナは「Express yourself」と歌うし、レディ・ガガは「Born this way」、ファッション雑誌は推しカラーコーデを提案する現代で、強い自分なしで私たちは立ち向かえるのだろうか?

     酒元潮美は花粉飛び交う春の朝、こぢんまりとした分譲マンション4階の角部屋で鼻づまりの苦しさに目を覚ます。

    「最悪に不幸せ」

     潮美は白い羽毛枕に蹴りを入れてから自室を出る。リビングではナット・キング・コールが甘い声で忘れられないとナタリー・コールに歌いかけている。

    「ママ! ママ! アレルギーの薬どこ?!」

     大声で怒鳴りつけると潮美は洗面所へ向かう。

     キリッと冷たい水道水は、潮美の情熱的な鼻に温められてだらしないぬるま湯として落ちていく。潮美は苛立ち紛れにタオルで顔を強く擦る。

     リビングへ行くと、母はフォションのアップルティーを並々と注いだノリタケの隣に、ウォーカーのクッキーを3つ並べながらハミングしている。食卓の真ん中には、しかしきちんと毒々しい紫のパッケージが置いてあり、潮美はむしり取るようにその箱を摑んで食器棚へ向かう。

     愛用のぽってりしたミッフィーのマグカップにウォーターサーバーから水を注ぎ乱暴に箱を破る潮美に、母はほんの一瞬眉をしかめたが、すぐに口角を上げる。

    「朝からご機嫌麗しいのね」

     潮美は母を睨みつけたが、母が気にも留めず紅茶を啜りだしたので、大袈裟にヨタヨタと窓辺に歩み寄り、冷たい窓ガラスにおでこをつけながら大きくため息をついた。

    「見える……見える……黄色い風が」

     潮美は不幸せの中に身を沈めた。苦しく熱を持った鼻、痒みで今にも飛び出しそうな眼球、顔を洗った時にうっかり濡らしてしまったスリッパのつま先、冷酷な母と予定のない1日。

    「今日、お掃除は潮美ちゃんの番だからよろしくね」

     突如降りかかる清掃作業。

    「ママ、お昼は山村さんたちと出掛けてくるわ」

    「何食べるの?!」

     潮美は勢いよく振り返る。

    「去年できた隣町のイタリアン。住宅街の中にあって素敵らしいの」

     隠れ家的レストランに出掛ける冷酷な母に置いていかれた娘は孤独の中で納豆トーストを牛乳で流し込むだろう。

     潮美は自分の不幸が絶頂に達したのを感じ深く深くためいきをついた。

    「いってらっしゃい、たのしんで」

     できるだけ恨めしげに響くように首を傾げて力なく手を振った。

    「まだ行きませんけどねー」

     母は鼻歌混じりに婦人雑誌をめくる。婦人雑誌のツルツルしてしっかり丈夫な紙は幸せそのもので、潮美はそれに打ちのめされる。

    「せめて今日が雨ならよかったのに」

    「まあ! 嫌な子ねぇ」

     ひんやりとした窓ガラスに寄りかかった潮美に母がクッキーの赤い小袋を投げつける。

     潮美は素早い動きでそれを受け取ると、肩を落として俯きながら袋を開ける。口元からクッキーの欠片がごぼれ落ち、潮美はこれを掃除するのは自分なんだと考えて憂鬱になった。

     部屋に戻りベッドに横になると、潮美の頭の中は掃除をやりたくない気持ちで満杯になってしまった。

     潮美が渋々リビングの床に掃除機をかけると、掃除機の遠心力でクッキーは砂糖と小麦とバターに分かれた。それはダストボックスの壁にへばりついて小さな塊となり、見たこともない小さな虫がそこにやって来て卵を産み付ける。ベタベタの塊の上に1つ1つ立ち上がった小さな卵たちは、みるみるうちに細胞分裂を始めて殻を食い破り、ベタベタで栄養豊富な塊を食べ始めて……。

     潮美は健やかな寝息を立てる鼻先が柔らかな光でくすぐられるのを感じて目を覚ました。静かになったリビングが母の不在を告げている。潮美は恐る恐る時計に目をやる。

    「ああ、大切な時間は砂のようにこぼれ落ちていく」

     こんな日に納豆トーストじゃ自分があまりに惨めだから、潮美はマンションの1階に入っているカフェ レッドバロンに行くことを決意した。

     柔らかなペールピンクのセーターに白いスカートを合わせよう。足元は同じく白のアンクルブーツで、そばかすが浮き出るくらい薄くファンデーションを塗ったら、色つきリップでナチュラルに仕上げよう。

     少しだけ強くなった日差しに再び目を覚ました潮美は、慌てて起き上がり着替える。

     ちょっと気を抜くと眠ってしまう自分はなんて不幸なのか。不幸な自分にピッタリなできるだけ古びて薄っぺらい詩集を本棚から取り出してカバンに入れた。

     レッドバロンのマスターは60代半ばの物静かな男性で、整えられた髭と清潔な白いYシャツが素敵だと潮美は考えていた。

    「潮美ちゃん、いらっしゃい」

     マスターはいつも柔らかなほほえみで迎えてくれるので、潮美は思い切り不幸を滲ませたため息をつける。

    「あたたかい紅茶をください」

     そう言ってまた小さくため息をつくと、窓際のお気に入りの席に座って、茶色く日に焼けた文庫本を取り出して、出来るだけ物憂げに見えるようゆっくりと開く。

    「いらっしゃいませ」

     しかし今日はいつもと違った。潮美を出迎えたのは30代半ばのスラリと背の高い男性で、目元をほころばせながら見つめられたので、潮美はうっかりカウンターに座ってしまった。潮美は人見知りで上がり屋な自分を呪った。

     近くで見る彼は滑らかな肌に浮かぶ笑いジワがセクシーだと潮美は思った。ちょうど昨夜読んだ雑誌の男性俳優のインタビュー記事にそんな文言を目にしたところだったのだ。

    「お決まりになりましたら、お声掛けください」

     茶色い表紙のメニューを手渡され、潮美はていねいに隅から隅まで目を通し、そっと指先で紅茶の文字をなぞりながら言う。

    「じゃあ、このあたたかい紅茶をください」

     足のつかない高いカウンターチェアは、潮美の心を落ち着かなくさせる。

     こんなことなら、つるりとした表紙の300ページくらいの女性作家の作品の文庫本を持ってくるべきだった。せめてリルケだったらまだ良かったんだけど。どうして今日に限ってランボオの『地獄の季節』なんだもんなぁ。

     変わり者が普通に見られたがる例に漏れず、潮美もまた、普通に見られるよう気をつけていた。それはもちろん潮美が考える普通なので、往々にして一般的とは言えない普通なのだが。

     しかし、本を取り出さなければ、手持ち無沙汰で卓上の塩やタバスコのラベルをじっくり読み込むことを始めてしまいそうなので、潮美は表紙を隠すようにランボオを取り出した。

    「お砂糖やミルクはいかがなさいますか?」

    「じゃあ、お砂糖を2杯お願いします」

     男は一瞬驚いたように動きを止めたが、何事も無かったかのように白い陶器から砂糖を2杯紅茶へ入れて、金のスプーンで軽くかき混ぜてから潮美に紅茶を差し出した。

    「ごゆっくり」

     薄く華奢なティーカップは白地に薄いピンクのバラがいくつも散りばめられていて、ソーサーのぐるりにも薄ピンクが引いてあり、そこに親指姫の真珠のような小さな白い玉が等間隔で散りばめられていた。

    「センスがいいんですね」

     潮美はそこにある種のサインを受け取っていた。ペールピンクのセーター、白いスカートにバラのような可憐な唇。

    「ああ、そのティーセットいいですよね。好きなんです、僕」

     なんて大胆さ! これが控えめで遠回しな愛の告白である可能性を誰が否定はできようか? と潮美は目を白黒させた。

     しかし、さっき出会ったばかりの彼のことを何一つ知らないので、その告白に応えることができず潮美は曖昧にはにかむのだった。

     やがて彼はカウンターの中の丸椅子に腰掛けそこに置いてあった『ユリイカ』のペドロ・アルモドバル特集号を読み始めた。

     なんて押しの強い男性なんだろう。潮美はドギマギして思わず表紙の見えるのも忘れて詩集で顔を隠した。浮かれたつま先が彼のサブカル男子アピールに揺れている。

     それから30分ほどは、レッドバロンに静かな時間が流れた。辻村樹は店内の空気が少しもったりとしてきたのを感じ、カウンターの中で伸びをした。妻が父の誕生日を祝いたいと言うので、有休を取って店番を買って出た樹だったが、ランチ時を過ぎた喫茶店は閑散としていて居眠りしてしまいそうだ。

     たった一人の女性客が迷わずカウンターに座ったところを見るとおそらく常連客なのだろうが、ずっと本を読んでいるから話しかける訳にもいかない。義父の店の常連層は60-70代が多いと聞いていたが、彼女はそれより少し若そうだ。昨今の「昭和レトロ」ブームで若い客も増えたと聞くが、彼女はそういう層でもなさそうだし、中年の常連客と義父は普段どんな話をしているのか。

     考えてみても仕方がないと樹は立ち上がり、店内の空気を入れ替えるためにドアを開け放った。

    「わ! 可愛いお店! すみません、ここってクリームソーダとかありますか?」

     大学生らしい女の子3人組が樹に声を掛けてきた。

    「ええ、ありますよ。7色ご用意があります」

     助かった! わいわいと賑やかな彼女たちが入ってくると、店内の空気はたちまち循環し始めた。樹は窓際の席へ彼女たちを案内すると、パウチされたメニューを取りに行く。去年、妻が義父と話し合って、SNSに投稿してもらえるよう7色のクリームソーダをメニューに加えた。これはその時に、妻が作ったイラスト入りメニューだ。サンセット、バイオレット、桜、メロン、レモン、オレンジ、マリン。妻の柔らかなイラストに大学生たちは歓声をあげる。

    「私はバイオレット」

    「えーじゃあ私レモン」

    「私はマリン」

     若い彼女たちは沢山あって迷ってしまうなどと騒いでいた割に、テキパキと注文を決めた。樹はメモをとると、カウンターの中へ戻る。

    「大変ですね。色んなメニューがあって」

     カラーシロップを並べているところにカウンターの女が声を掛けたので、樹はギクッとした。そういえば、この女性にはクリームソーダのメニューを出さなかった。

    「今、こういう昔ながらの喫茶店が流行ってるみたいで」

     ごまかすように笑いながらメニューを差し出した樹を、女はじとっと見つめてきた。

    「まあステキ」

     潮美は挑んでいた。私もサインを返します。若い人たちとは違う私たちだけのテレパシー、大人の色香。伝われ、伝われ。

     樹はこの女の視線に少しイラついた。そんなにジロジロ見ながら嫌味言わなくたっていいだろ。メニューを出し忘れたのは俺だけど、ちょっと面倒くさそうな女。

    「お客様もおひとついかがですか?」

     樹はイラつきを隠すように勧めてみた。

    「そうね、では桜をひとつください」

     思いがけずこの女もするっと注文したので樹はホッとして笑顔になった。

     潮美は愛されていることを知り、逃げ出したくなった。不幸せだった自分が、今、唐突に幸福の渦へと巻き込まれそうになっている。耐えられる自信がない。でも、いっそ死ぬ気で飛び込んでみたくもある。

     樹はさっきの苛立ちなどすっかり忘れて、4色のクリームソーダ作りに夢中になっていた。それにしても、と樹は考える。

     それにしても、女性たちはいとも簡単に自分の欲しい色が分かるんだな。誰も定番のメロンソーダには見向きもしない。

     奇妙な具合にクリームソーダを飲む女性客100パーセントになったレッドバロンに、招かれざる客が近付いていた。佐渡裕二67歳。彼は毎日午後3時半にレッドバロンを訪れ、コーヒーを飲みながらその日の新聞にざっと目を通し、ひとしきり喋って帰っていく。その間に妻から「豆腐」や「食パン」などと書いてあるメールが携帯電話に届くので、帰りにスーパーで買って帰るのが佐渡の習慣のようになっていた。

    「まいど」

     佐渡は店内に色とりどりのクリームソーダを前にした色とりどりの衣装の女性たちを見て目を細める。

    「いやぁ、実に華やか春爛漫!」

     ね! と潮美に笑いかけると、2つ席を開けて佐渡はカウンター席に腰掛けた。

     窓際で紫色のクリームソーダを食べていた田川万葉は、相澤かりんと野口まことが老人の言葉に愛想笑いをしたことにムッとしていた。

    「ああいうのって女をバカにしてると思う」

     かりんとまことは急に口元を引き締め頷く。

    「たしかにたしかに」

    「セクハラー」

     3人は小声で笑い合う。

    「ちょっとお手洗い」

     万葉がトイレに入ったのを見届けてまことが口を開く。

    「万葉ってなんかこだわり強い系?」

    「どうかな? なんで?」

    「だってさ、あのくらい別に良くない? おじいちゃんなりのリップサービスじゃん」

    「うん……」

     かりんは、佐渡の頓狂な声が面白いと思っていたところに、まことが笑ったのでつられて笑っただけだったのだが、万葉からバカにされてると言われてみると佐渡がちょっと嫌なおじいちゃんに見えたし、そんな風にはっきり主張できる万葉がかっこよく思えた。でも今、まことにこだわり強い系だと言われてみると、なんだか万葉がちょっとダサく思えてしまって、かりんは自分の流されやすさに嫌気がさしてしまった。

     ここでまことに同調すると陰口みたいだし、万葉を庇うほどの意気地もないから何となく笑って見せたが、まことの眉が曇ったのを見て、かりんはとにかく帰るまでトイレに行くのは我慢しようと思う。欠席裁判は恐ろしい。

     そう決めると急にトイレを我慢している気分になって、かりんは妙にソワソワした。

     まことはかりんが落ち着かない様子なのを見て、友達の悪口を言うタイプだと思われたかなと不安になった。

    「あの、うちのおじいちゃん、おしゃべり好きでさ、あんな風に外で言われてたらやだなって」

    「へえ、おじいちゃんっ子なんだ」

     かりんは、まことをちょっと嫌な子なんじゃないかと疑ってトイレまで我慢していた自分がおかしくなって笑った。まことも安心して笑っていると万葉が戻ってきて話に加わった。

     窓際からあがる楽しげな笑い声に佐渡は目を細めてコーヒーをすする。

    「樹ちゃん、今日マスターは? 体調でも悪いのかい?」

     いつき、いつき。どんな字を書くのかしら。潮美はうっとりとつま先を揺らす。

    「いや、元気ですよ。かすみと親子水入らずでバースデーデートです」

    「ほぉ、それで代打か」

     潮美は樹の快活そうな笑い声を聞きながら、いつきとかすみ。マスターらしい名付けだと心の中でうなずいた。

    「かすみちゃん、もうだいぶ大きいんじゃない? おなか」

    「ええ、おかげさまで。先日検診で男の子だって分かったとこです」

    「ほぉ、そりゃマスター喜んだでしょ。かすみちゃん一人っ子じゃ可哀想だから、男の子が欲しいなんて昔はよく言ってたからねえ」

     かすみは一人っ子? じゃあ、いつきは何者?

     潮美は答えまで遠回り出来ないかチャレンジしてみる。いつきはかすみの幼なじみ。それとも歳の近い従兄弟かな。もしくは、マスターの妻の連れ子で、マスターの再婚はいつきが成人した後だった。よって、かすみは一人っ子、一粒種、マイガール。

    「樹ちゃんもどうよ? パパになる気持ちは? カウンター似合ってるじゃない。お店ついじゃえば?」

     逃げ道は潮美の目の前で次々に封鎖された。

    「いやぁ、お前はしっかり稼いでこいってマスターからしり叩かれてます」

     なめらかな肌に浮かぶ笑いジワが樹の幸せを強調して、潮美を不幸へ突き落とす。

    「お会計お願いします」

    「ありがとうございます。1,400円頂きます」

     潮美は2,000円しか入っていない財布から、千円札を2枚取り出す虚しさに打ち砕かれた。

     佐渡が携帯電話から顔を上げて頓狂な声を出す。

    「あれ? あんたいつも窓際で本読んでる子じゃないの。席が違うから気が付かなかったわ」

     潮美は、ははっと乾いた笑いで返す。

    「これからお出かけ? 花見かな?」

    「いえ、家に帰って掃除をします。不幸せなものですから」

     潮美が憮然たる面持ちで答えると、佐渡も樹も一瞬黙って吹き出した。

    「よくわかんねえけど、いつもマイペースでいいねぇ」

    「またいらしてくださいね」

     2人の笑い声に見送られる潮美を、トイレから出てきたかりんが憧れの眼差しで見つめていた。あんな風に堂々としていられたらどんなにいいか。

     さて、不幸せな潮美は薄暗くなったリビングで箒とちりとりを両手にそれぞれ持って立っていた。

    「既婚者のくせによそで女に色目を使うなんて。かすみさんも苦労するわね」

     苛立ちを込めて潮美は床をはく。隅から隅まで埃を集めてちりとりに掻き集め、ゴミ箱に捨てる。

    「そういえば妊娠中の浮気が1番多いって聞いたことがあるわ。なんて不実な男たち!」

     柔らかな布で窓を拭く潮美はすっかり正義感に魅入られている。

    「そうだ! 今度お兄ちゃんにも忠告しといてあげよう。せっかくあんなに優しい人と結婚できたんだから、変な気起こさないようにって」

     冷たい水でゴシゴシ布を洗うと洗面所が水浸しになったので、布で拭き取ると今度はそっと布を絞った。

    「ただいま」

     父と母の二重奏と共に玄関の扉が開いた。

    「駅前でパパに3日ぶりに再会したからデートしてきたのよ」

    「荷物が重いのに、うちの女王様はお構いなしですから」

     潮美は父の手からいくつかの紙袋を受け取る。

    「子育てセミナーin京都、お疲れ様でした。生八ツ橋はありますか?」

    「ありますよ。潮美が生八ツ橋の食べられない生活は私を不幸せにするなんて悲しげに言うもんだから買わない訳にはいかないでしょう」

     潮美は幸せを求めて金色の箱を撫でてみる。ほのかに幸せが肘先まで伝わってきたので、さらなる幸せを求めて箱を開けてみる。

    「お食事の後になさい」

     母に手をはたかれて、潮美は大袈裟によろよろと窓辺に歩いていく。日の沈んだ地上11メートルの景色に不幸な潮美が浮かんでいる。

    「幸せは私の目の前を過ぎていった」

     母は呆れた顔で肩をすくめる。

    「なんてマイペースな子でしょう。パパ、子育てセミナーで一体どんな子を育てたって話してるの?」

    「何事にも動じない芯のある子を育てたと胸を張って話してますよ」

     馴染まないのは本人が馴染みたくないのだとして社会は回る。回る社会に浮いた者たちは、弾き飛ばされて隅でわだかまる。

     潮美は不幸せだ。そう何度も訴えているのに、それを聞いた人たちは必ず笑う。潮美が不幸せになればなるほど、相手は幸せそうに笑うのだ。

     人は影響し合う生き物だ。他人の不幸は蜜の味という言葉もある。

     私は今日も彼女から目が逸らせない。

     

     

     

     

     

     

     

     

    [© Choko Moroya]

     

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    連載記事

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    第2回 めまい

    第3回 アイブロウが効いてきたぜ

    第4回 王様に見初められて断れば一家皆殺し

    第5回 コロコロメランコリー

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