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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第3回 アブラゼミと団地祭(3)

    3.始まりのひとひら――「在住外国人生活支援活動研究委員会」

     1998年夏、彼は、2ピースのスーツ姿だった。ジリジリとアブラゼミが鳴く午後3時に、湘南団地の自治会長は、スーツ姿で会議室に座っていた。会議とは、先に紹介した、湘南市社協主催の外国人支援に関する委員会のこと。県社協から市社協に主体が移動したのち、第1回「在住外国人生活支援活動研究委員会」が1998年7月13日に行われた。正確に言うと、「在住外国人生活支援活動研究委員会」は、県社協が主体で動いていた時期の1997年8月から持たれており、1998年7月13日の会議は通算で第6回となる。この1998年7月13日を境に、県社協の担当者は、事務局からオブザーバーへと役割を変えた。そのような経緯があるので、「第1回」とはいっても、集った委員たちはみな顔なじみである。

     会議には、事務局の市社協の職員と座長の新原先生、湘南市の国際室や児童福祉課の職員、国際交流協会の職員とボランティア、小中学校の教諭、湘南保育園の園長、湘南地区の民生委員、主任児童委員、湘南団地の自治会長、事務局長、団地の住民(外国人代表)、アドバイザーとして神奈川県内各地で外国人支援をしているボランティア、そしてオブザーバーの県社協の職員と学生が集った。会議に集う人々のドレスコードはなく、男性はポロシャツやYシャツにパンツスタイルが主だったが、ジーンズにTシャツという人もいた。女性は、涼しげなカットソーの人もいれば、エスニック柄のスカートにラフなシャツといった出で立ちの人も多かった。そんな中、2ピースのスーツ姿で座っている湘南団地の自治会長は、明らかに、浮いていた。そんな光景が、「湘南プロジェクト」の始まりのひとひらとして、私の中に記憶されている。

     私はその当時、大学生だった。縁あって新原ゼミナールに所属することになり、先生からの誘いを受け、この第1回「在住外国人生活支援活動研究委員会」にオブザーバー参加した。委員会についての主だった情報も、またその先の計画も聞かされないまま、突然その場所に行った。当時、大学院生であった学生にも、数名声がかけられていた。院生にはもっと詳しいことが事前に話されていたのかもしれないけれど、私は「外国人支援の会議に行く」ことしか知らされていなかった。今思えば、下調べくらいはすべきだったが。しかし、「外国人の支援をする人々は皆、国際意識の高い人々であり、勉強になるに違いない」、そのような予感と先々の可能性に、とてもワクワクしていたのを覚えている。

     委員会の会場は、市社協の福祉会館にある会議室だった。市社協の担当者がワゴン車で、新原先生と学生らを、最寄り駅まで迎えにきてくれた。出迎えてくれたのは、委員会の事務局を務める国武さんだ。国武さんは、40代半ばくらいの男性で、笑顔が優しく、メガネをかけていた。優しい表情とは裏腹に、いわゆる「はげ頭」とは異なり、明らかに毎日剃っているようなスキンヘッドでもあったので、第一印象は謎の人であった。後に、歴史のあるお寺の住職さんであることが分かり、ホッとした。

     会議室につくと、側面は大き目の窓であり、とても明るかった。明るい会議室に入り、綺麗に並べられた各委員の名札と500mlのお茶をみると、緊張から少し胸が高鳴った。会議なので、コの字型かなと思っていたが、座長である新原先生とアドバイザーとして参加している委員、そして社協職員が前に座り、他の委員たちと対面する形のスクール型だった。私のようなオブザーバーには、座長たちの席の横、入り口付近の席が用意されていた。今考えると、委員の表情など全体が見える位置であったことはありがたいことだが、何もわからない学生が、委員たちに対面して座ることには、少なからず居心地の悪さを覚えた。どのような顔をしてその場にいればいいのかわからず、席に着くなり、メモ用のノートとペンを準備するふりをして下を向いたことを覚えている。

     ただ、このような居心地の悪さは、私だけではなく、その場を支配していたようにも感じた。会議の始まる前の数分間、新原先生と国武さんらは小声で打ち合わせなどをしていたが、他の委員たちは、ほとんど雑談をすることもなく、会議の開始を待っていた。委員たちはみな、顔なじみであるはずなのに、全員が静かに前を向いて座っている。明るい会議室が、静まり返っている。なんとなく、その雰囲気は異様で、緊張感が漂っていた。おずおずと顔を上げて、委員たちを眺めると、小・中学校の先生や市役所の職員は40代、50代に見えたが、他の委員は、還暦あたりの年齢かもう少し上かなと感じた。

     定刻になると、市社協の国武さんが、司会として口を開いた。各委員の自己紹介から始まる。当時は気づけなかったが、昨年から通算6回も会議が持たれているのに、わざわざ自己紹介とは不思議な流れだ。資料を見返すと、この日は、県社協の前任者と後任の職員が来ており、担当の交代の挨拶と、今後の県社協の計画などが、冒頭で話されていた。自己紹介は、県の担当者に向けてのものであった。市社協での会議とはいえ、あくまでも、県社協の事業計画の一端であることがうかがえる。ただ、この後「湘南プロジェクト」の主軸は市社協となり、中でも、この時の事務局であった国武さんが、2022年現在まで20年以上も「湘南プロジェクト」の背骨の役割を果たしていくのだが、このことはまた後に書きたい。

     自己紹介が終わると、座長である新原先生が、「今後の進め方」として話を始めた。

    「この委員会の昨年度の最後に出てきたことですが、とりわけ子どもの問題に焦点を当てようという視点が見えてきました。それに伴い、今年度は、子どもの育っていく過程、プロセスから問題を考えていきたいと思います。湘南市の特徴として、湘南団地で子どもが生まれ育っていき、湘南保育園、湘南小学校、湘南中学校へと進んでいきます。子どもが育っていく過程で、それぞれの場所での取り組みがあります。この湘南団地という場所を中心に、学校・地域・職場など、それぞれの場所での話を聞いていく。またそれをまとめ、湘南団地以外の地域にも成果として伝えていければと思います。今日、大学院生を連れてきましたのは、聞き取り調査などの調査を行う時に活躍してもらおうと考えたからです」

     これを聞き、学生である自分がここに連れてこられた理由が分かり、のっけから、とても驚いた。湘南市の湘南団地という地区で、これから、外国人に関する調査を行うようだ。自分もその調査に参加できるかもしれないと思うと、とてもドキドキした。とはいえ、その後10年も団地に通うことになるとは、想像すらしなかったが。

     すると、団地の自治会長が立ち上がった。清水会長といい、少し猫背ではあるが、長身ですらっとした初老の男性である。会場の中で一人スーツ姿だったので、とても印象に残っている。

    「調査を行うとなると、どのような調査を行うかが大きな問題となります。外国人を対象にして調査しようということだと思います。しかし、その人たちを調査して、何かの手を差し伸べてあげるといった状況から、現在は、ちょっと進んだのではないでしょうか? 少なくとも、生活の基盤といったところでは、そのように感じます」

     湘南団地を中心に調査をするという計画が話されたとたん、団地住民である自治会長からは疑問の声があがった。そして、清水会長は続ける。

    「言葉の問題がこの委員会でもとりあげられていますが、団地では、今年度から、団地の取り決めなどについての文書の翻訳をやめました。去年までは、4か国語に翻訳していましたが、今年からはフリガナをふる形にかえました。というのも、新しく入ってくる外国人は、多くて月に5~6家族くらいで、流入のピークは過ぎたと思うからです。それで、あえて文書も翻訳しないということにしたのです。多くの外国人住民が、生活の基盤を作れているように思います」

     この言葉に反応し、湘南団地が学区である湘南中学校の教員、保育園の園長らが口をそろえて訴えた。

    「私の学校の子どもたちが、学校に持ってくるものの中に、公的文書があります。例えば、税の払い方とか保険料の払い方といったものですが、親がわからないので、学校に持ってきて相談するケースが多発しています。また、病院に通訳としてつれて行くので、子どもの学校を休ませる親も多いです。親は普段の生活はできるものの、それ以上については対応できないのが現状です」

    「そういったことは保育園でも同じです。小学校へ入学する手続きに、母親と一緒に学校へ行き、名前や住所など、書けない部分を手伝うようにしています。日本語は流暢に話せても、もらってきた文書が重要なのかどうか判断できず、捨ててしまう親もいます。フリガナがふってあって、仮に読めたとしても、意味がわからないということも多々あるようです」

     さらに、湘南団地に住む「当事者」として参加していた西田さんが口を開いた。西田さんは、30代後半のカンボジア人男性だ。難民として日本に移住した。

    「私もそうなのですが、会社で働きながら、役所や保育園、駐車場のことなどのいろいろな文書を書いたりするのは大変です。どういう書き方、読み方をすればよいのかを、少しずつ覚えました。今では皆に教えていますが、会話だったら「どこへ行きますか」といったもので十分ですが、文書はそうはいきません」

     日本では、西田さんのようなインドシナ難民が各地域での暮らしを始める際、定住促進センターという施設を経由することになっている。難民の人々は全員、このセンターで、3か月間150時間の日本語教育を受けることが義務付けられていた。定住促進センターとは、アジア福祉教育財団の難民事業本部が国からの委託により行った事業で、来日直後の衣食住を保証し、定住に向けての準備を行う施設である。日本語教育の他、職業訓練や就労斡旋などが行われた。1979年の国際人権規約批准と1981年の難民条約加入を背景に、1979年に兵庫県姫路市と1980年に神奈川県大和市に定住促進センターが開所され、1995年にその役割を終えた。神奈川県に住む難民は、大和市のセンターを経由してきた人々が多い。西田さんもその一人であった。

     ただ、西田さんによると、定住促進センターでの日本語学習では到底足りず、センターを出てからも、ボランティアに日本語の学習をサポートしてもらったという。当時、湘南団地の近くでは、団地から歩いて10分程度の公民館で、ボランティアによる日本語教室が行われていたし、駅前や市役所の付近でも教室が開かれていた。西田さんのようなインドシナ難民だけでなく、このようなボランティアの日本語教室を利用していた外国人は多い。とはいえ、基本的に言葉の習得は、外国人たちの自主性に任されてもいた。西田さんは、仕事をしながら遊ぶ時間も惜しんで日本語を勉強し、大変難しい「プラスチック成形技能士」資格の1級を取得したり、会社でのプロジェクトチームの班長を任されるなど、大変な努力家だった。

     しかし、多くの人々は、慣れない土地での就労や生活に追われ、日本語の学習にかける余力が残っていなかった。言葉の習得によって多くの課題が解決できることもわかってはいるが、西田さんのように個人的な努力で困難を乗り越えてきたケースは稀であった。会議に参加していたどの委員もみな、このような外国人の現状を知っていた。そのため、清水会長の「生活の基盤は作られた」という発言に対して、未だに解決はしていない「文書に関する問題」の事例をあげながら、委員たちはやんわりと反証を行ったのだ。しかし、清水会長は、大きな声でぴしゃりと言い切る。

    「父親の世代で、日本語を覚えようとしない方々は、今後も覚えようとはしません。覚えたくないといった方が多いようです。日本の生活に慣れ、隣人とあえて話さなくても生活ができるようになった。会社に行って収入が得られ、買い物さえできればよくなってきてしまいました。日本の生活に慣れ、トラブルが少なくなるなどよくなってきた反面、そのような弊害が生じてきています。だから、調査を行うにしても、いずれ世代交代をしていくという長い目でみて、子どもの現状に限ってやる形の方がよいと思います」

     言葉はとても丁寧ではあったが、外国人に対する厳しさがあり、語尾に憤りが漂っていた。そのような言い方を受けて、他の委員たちは皆、口を閉じてしまった。すかさず、新原座長が話をまとめて、今後の調査の原案をさらりと述べると、少しホッとした空気が流れた。だが、最後に、清水会長がこのように会議をしめたのだった。

    「湘南団地は生活の場であり、外国人のことも、湘南の人民として扱ってほしいです。調査をするとしても、興味本位や、助けなければという発想はやめていただきたい」

     何が起こったのか、正直、学生の私には理解ができなかった。清水会長の言葉で、場の空気が一瞬ピリッとし、気まずい雰囲気が漂った。私は居心地の悪さを感じながらも、今日の会議で立ち上がって話をしていたのは、湘南団地の清水会長だけだったなと、ボンヤリと思った。また、委員の中で少々「浮いて」しまうほど、服装に気合が入っていたのも、清水会長だった。私には、清水会長が、最も熱心にこの委員会に参加しているように思えた。そのような人が、なぜ、終始どこか苛立っており、場を気まずい雰囲気にさせていたのか、私には理解ができなかった。ただ、会議が始まる前、顔なじみであるはずの委員たちが、ほとんど雑談などはせずにシンとしていた理由だけは、なんとなく想像ができたのだった。

     

    4.理想と、最低限の手段と

     最初の会議で感じた、いたたまれない感覚がまだ残る中、清水会長や他の委員のこれまでの様子が知りたくて、社協の事務局が作成していた会議記録を読んだ。記録からは、清水会長を含む団地の自治会に関わっている委員たちと、その他の委員のやりとりが、いつも対立しているような印象を受けた。中でも特に、日本語を外国人に教えるボランティアをしている小野寺さんと、団地自治会の人々とのやりとりが、印象的だった。小野寺さんは、いつもエスニック調のスカートに色鮮やかなスカーフなどを巻いていて、華やかな印象の女性である。彼女は当時、駅前にある市民活動センターにて、ボランティアによる日本語教室を運営していた。この教室に集う人々は、ボランティアといっても、湘南市が主催する「日本語教育ボランティア養成講座」などで教授法に関するトレーニングを受けており、中には独学で「日本語教育能力検定試験」に合格したという勉強熱心な人もいた。海外への興味関心が強く、国際化ということへの意識を常に持っている人々だったと思う。小野寺さんは、その中でも代表的なポジションにいる人だった。以下は、私が委員会にオブザーバー参加する1年前、1997年9月18日に行われた第2回委員会の記録である。

     話の発端は、他市にて、外国人へのサポートを行っている委員からの事例報告だった。地域に住んでいる外国人の子どもを対象としたお祭りや母語教室を開くことにより、外国人の親同士のネットワークができ、子どもの将来について一緒に考えていくきっかけとなっているという内容であった。それに関して、小野寺委員が発言する。

    「湘南市でもブラジルの方たちはけっこう交流があります。レストランアモーレの主催で、3か月ほど前、100人以上集まり、医療問題についての相談会を行っています。それから、つい先日、ブラジル領事館の方が出張してきて、商工会議所で120人以上の人たちの相談にのっていました。ブラジルの人たちは絶対数が多いので、ネットワークが見えます。しかし、小数の在住外国人の人たちがネットワークを作っているという話はあまり聞きません。日本語教室にいらっしゃる方たちは口コミで次々きており、それなりのネットワークはあるようですが」

     ちなみに、神奈川県国際課の『外国人登録者市(区)町村別主要国籍別人員調査表』を参照すると、1997年の湘南市の外国籍登録者は約3500人で、出身国でみるとブラジルが1200人で最も多く、韓国・中国・フィリピンに次いで、ペルーが200人程度。南米出身者が多いことが分かるが、カンボジアも約200人、ベトナム80人とインドシナ難民も比較的多く暮らしていた。ラオス人については、1997年のデータは無いが、1998年には約170人となっている。湘南団地が学区である中学の教員は、次のように続ける。

    「カンボジアやラオス国籍の子は、学校からネットワークにつながっていったわけではなく、地域の集まりに入っていってネットワークができたようです。ただ、一定以上は大きくならないようで、地域にポツンポツンとネットワークがあるようです。単に、沢山住んでいるから、横のつながりがしっかりしているというものではないようです。ただ、ブラジルは旅行社もきちんとあって、旅行社主催でブラジルの人だけ集めて、行楽に行ったりしています。以前はペルーもありましたが、最近は活動がとまっています」

     このような地域の状況の報告が行われた後、清水会長が、団地の様子と自治会の考えを伝える。

    「団地周辺の地域では、同じ国々の方たちの集まりはある程度あります。国の文化、例えばお正月をやるとか、スポーツ大会をやるとか、私たち自治会が協力したこともあります。しかし、地域の生活にもなじんでもらわないといけないので、あまり向こうの文化に埋没させるわけにもいかないわけです。日本の生活になじんでもらうためには、早く向こうのことを切り捨ててほしい。習慣だろうとなんだろうと切り捨てて、こちらサイドへ向かってほしいという願望の方が、地域の住民の中では強いのです。昨年までは、ラオス・カンボジアという個々の集団で行事を持っていましたが、今年から少し方向をかえなければという声があがっています。というのは、ベトナムを中心として背中合わせの状態が続いているからです。在日のベトナム人は、ラオスやカンボジアの人たちをいじめてきた人たちと思われている。ベトナムは内戦など、トラブルの中心だったからです。ベトナムでトラブルがあったから、自分たちはここに来たのだという考え方から抜け出せない、ラオスやカンボジアの人たちがいます。しかし、実際には、ベトナム難民には反体制の方々の方が多いのだから、もうそろそろ水に流して同じテーブルについてくださいというのが、去年の終わりごろから私たちが少しずつ取り組んでいるものです。また、あまりに個別に外国人を集めた行事をやることによって、日本人との交流にかえって隔たりがでてきたのもあります」

     これを受けて、小野寺委員は、日本文化や習慣に適応することが、出身国の文化を捨てて日本に同化することと同じではないと反論した。おそらく、はっきりと物を言う小野寺委員のことだ、口調も少し強めだったのではないかと想像する。

    「国際人になる、あるいは湘南が国際都市になっていくためには、外国の人たちに『文化を捨てなさい』ということは前提にないわけです。生まれた国の文化、あるいは言葉を大切にしながら日本社会に溶け込んでほしいという姿勢で取り組んでいただきたいと思います」

     そして、清水会長と小野寺委員のやりとりが続く。

    「私は九州からきたのですが、湘南では私の方言を笑われました」

     と、清水会長。

    「その時、笑わない人たちをつくっていくのが国際化で、そのようになっていくステップが大切ではないでしょうか」

     すると、清水会長が、団地という生活の場のひっ迫感を伝える。

    「それはあまりに理想論です。明日、明後日の生活の中で、どう溶け込ませて、どう生活してくのかという問題とはちょっとずれがあるように思います。『あなたの国や文化を忘れないでください、いつまでも持っていてください』というよりも、あまり過去を引きずらないでほしいと思います」

     それでも引かない、小野寺さん。

    「こちらが、今の生活の中で、仲良く楽しく喧嘩もないようにコミュニティを作っていきましょうねという時に、『あなたの文化を忘れてはいけませんよ』とこちらからいう必要はありません。生活の場であっても同じことです」

     このやりとりを読み、どちらかというと、清水会長よりも小野寺委員の主張の方が、その頃の私には「正しい」ように思えた。当時はグローバリゼーションについての議論が盛んに行われ、「国際化とは同化政策ではない」という主義主張なども、新聞や雑誌などでよく目にしたものだった。そのような時代の風潮とは真逆のことを、清水会長は言っているように思えたのだ。小野寺さんの主張に加勢するように、他の委員も、他地域での試みをあげつつ、清水会長をやんわりと牽制するのだった。

    「横浜区(仮名)の地域振興課から財源を出してもらい、『琉球文化のつどい』をやりました。横浜区民が地域に住んでいる沖縄人たちのことを全然知らず、どういう苦労をして生活をしていたかも知らなかったため、横浜区民に沖縄の人たちの想いや文化を知ってもらおうということで開催したものです。その次の年が『コリア文化のつどい』です。在日韓国朝鮮人の人たちが横浜区で生きてきたことを学ぼうというものです。そして、今年が『中国文化のつどい』です。ニューカマーの中国人が横浜区だけでも800人ほどおります。横浜区では25人に1人が外国人という地域なので、外国人の想いを学ぼうということです。その結果、地域に住んでいる人たちのことについて、理解できるようになりました」

     それでも、清水会長は、同じ主張を繰り返していた。

    「このようなイベントを行ったことにより、それなりに、来日した人たちの安ど感を生むのに役立ったかもしれないけれど、もうそれだけではだめです。私たちが北海道から来た人に対して、文化を忘れなさいといわなくてもなじんでいきます。そのような感覚を、在住外国人の人たちにも持ってもらいたいのです」

     続けて、湘南団地の民生委員である播戸さんが、発言をした。播戸さんは、当時まだ仕事をしていたから、引退前くらいの年齢で、小柄だが体格のいい男性である。清水会長と同じく、団地が完成して間もなく湘南団地にやってきた。神戸出身、ガラガラ声で関西弁を話す。標準語でも、関西なまりがあった。指が一本無かったが、食品関係の職場で失ったと聞いた覚えがある。

    「湘南団地は大きく分けて4つくらいの民族がおります。ラオス、カンボジア、ベトナム、中国です。例えば、昔からいた中国の人は、中国人で集まるエリアがあるのです。それに対して、ベトナム人たちが入ってきたのは最近で、彼らも集まりますが、同じ民族同士でも、出身地等でトラブルがあるわけです。なので、清水会長のやっていることは、最高の方法ではなく、最低限の手段なわけです」

     この播戸さんの「清水会長のやっていることは、最高の方法ではなく、最低限の手段なわけです」という発言を読んだとき、私ははっとした。播戸さんの「最低限の手段」という言葉が、なぜか、棘のように記憶に刺さった。清水会長よりも、小野寺委員らの考えの方が「正しい」ように思っていた私に、どこか釈然としない感覚が残った。「最低限の手段」をとらねばならない理由やその状況を、当時の私にはほとんど想像できなかったが、こうした記録を読み、ますます、清水会長や播戸さんといった団地の人々に興味をもったことは覚えている。

     後日、新原先生から「次の委員会にも来ますか?」とたずねられた。オブザーバー参加は強制ではなく、学生たちの自由参加だった。一緒に参加した院生たちも、残った人と残らなかった人がいた。私は迷うことなく、「お願いします」と答えていたのだった。

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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