2.団地自治会の「灰汁(あく)の強さ」
「やる」と言っている人を捕まえて、「やるのかやらないのかはっきりしろ!」と突然怒鳴りつけたかと思えば、要望が通ったら通ったで、なぜか沈んだ表情で肩をおとす。こうして文字にしてみると、清水会長は、かなり不可解で迷惑な人物だ。一言で言うなら、「灰汁が強」い人だと思う。
しかし、この団地自治会長の「灰汁の強さ」は、彼固有のものというよりは、湘南団地自治会の「色」だったのだと思う。また、こうした「色」が、湘南団地が外からの支援に結びつかなかった原因の一つと言われてもいた。
団地がおかれた苦境に対して、これまで一切、地域住民からの手助けがなかったかといったら、そこには嘘が残る。過去に一度、湘南団地の中に、ボランティア団体が日本語教室を作ったことがあった。そのボランティア団体というのは、先ほど話題にあがった、近くの公民館で教室を開いている「湘南日本語の会」だ。
「湘南日本語の会」は、難民事業本部からの助成金を受けて運営されており、湘南市国際交流協会が運営する日本語教室とは毛色が異なっていた。湘南市には他にも、日本赤十字(JRC)のボランティアが運営する教室があったが、「湘南日本語の会」だけが、湘南団地に直接支援にいった唯一の団体であった。しかし、その試みは、短期間で終わったという。その理由の一つに、団地自治会の「灰汁の強さ」があった。
湘南団地に日本語教室を作ることが決まってから、新原先生と社協の国武さん(そして、「記録係」としての院生と私)は、その年の年末にかけて、関連する行政機関やボランティア団体を訪問した。諸団体の関係性を把握したり、根気強く協力を働きかけていくための「挨拶まわり」である。その一環で、「湘南日本語の会」とも、12月4日と12月14日の2回にわたり対面をした。
ミーティングの場所は、湘南団地の集会所だった。「湘南日本語の会」からは代表と日本語ボランティア3名、そして団地の「外国人のリーダー」が1名参加した。新原先生が、日本語教室への手伝いが可能かどうかとたずねると、「湘南日本語の会」のボランティアが、何の前置きもなしにこのように話した。
「湘南団地は『島』だと思います。地つきの人からも差別されてきた場所です。ここで暮らしてゆく意味について、考えてしまいます」
「島」という言葉で伝えたかったのは、その「閉鎖性」、地域から排除されてきたという歴史と、団地住民の持つ排他的な性質についてであろう。この発言にかぶせるようにして、「湘南日本語の会」の代表がこう続けた。
「湘南団地に日本語教室を作るということですが、少し問題があると思います。10年前に、日本語教室を湘南団地で行った際、自治会の人々が『集会所で日本語教室をやります』という放送をしてしまった。外国人ということを隠したい人もいるのに。外国人の中には、湘南団地に住む外国人と意識されたくない人もいるんです」
団地自治会の人たちが、外から来たボランティアによる「日本語教室」に喜び勇んで、大音量で放送を流す様子が目に浮かぶ。かつて、「湘南プロジェクト」の日本語教室が開かれる時はいつも、自治会長が「今日は日本語教室の日です。日本語の先生が来てくれています。外国人の皆さん、声をかけあってみんなで勉強をしに来てください」と放送していたのを思い出す。放送は、感謝の表れであったに違いない。しかし、両者の間に何があったのか、自治会の「善意」は、むしろ横暴な行為として語られた。
「湘南日本語の会」の代表は、参加していた「外国人のリーダー」に、何かの確認をとるように、こう質問した。
「集会所で何かをするのは、抵抗ないですか?」
「外国人のリーダー」は、間髪いれずに返した。
「別にないですね。みんなに聞いて、みんな勉強したいと言ってましたから。週2、3回はやって欲しいです。やはり、近くだとみんな行きます」
本当は、代表が「集会所」という言葉で表現したかったのは、集会所という「箱」ではなく、集会所にいる「人」のことだっただろう。つまり、団地自治会の人々のことを指していて、「あのような横柄な人たちの管理の下で何かをするのは嫌ではないか」と聞いたのだ。
しかし、そのような「含み」は伝わらず、外国人からは素直な返事が返ってきた。少し慌てた代表は、「はじめて日本に来た人にとっては、団地の外はどんなに近くても『外国』だものね」と、どこか、ちぐはぐなまとめ方をした。
2回目のミーティングでは、代表からこのような話があった。
「日本語教室を10年続けてきました。最初は団地で教室を始めました。団地に住む友人の外国人も多いです。いろんな想いでやってきました。本来は集会所でやりたいですが、自治会とのトラブルがあって、公民館に移転しました。自治会の人たちは、外国人だけがルール違反をしているようなことを言ったりもするので、考え方が違うし、上手くいかない。そのような過去があるのに、また集会所で、『湘南日本語の会』が日本語教室をやってほしいと言われているのかと誤解し、私たちも慌てました」
「10年」前といえば、当時の湘南団地自治会の役員は、清水会長の先代か、先々代の役員だったはずだ。「湘南日本語の会」の人々が見せる強い警戒心から、当時の自治会との関係が、一筋縄ではいかなかったことがうかがえる。団地自治会の「灰汁の強さ」は、歴代の会長や役員達が持っている「色」だったのだろう。
結局、団地に作ろうとしている日本語教室は「責任の所在がはっきりしない」ということで、それ以降、「湘南日本語の会」が団地を再訪することは無かった。
3.行政とボランティア
「湘南日本語の会」のボランティアが話していたように、自治会の「灰汁の強」い体質が、外からの支援を遠ざけていたという言説は、他の場所でも耳にすることがあった。
湘南市の国際室に出向いた時のことだ。「出張委員会」は1998年11月12日に、「挨拶まわり」で国際室を訪ねた。国際室は、湘南市役所の分庁舎にあった。分庁舎は、かつて市営保育園であった建物をそのまま再利用していることもあり、ゲタ箱やドアの背丈が低く、椅子や机、トイレのサイズも幼児用であった。海外との国際交流も推進していく部署であるのに、どこか周辺的な匂いのする場所でもあった。
分庁舎では、国際室の室長と、委員の小野寺さんが待機していた。小野寺さんは、国際交流協会の日本語ボランティア代表として呼ばれていたようだ。席につくと、「外国籍市民相談窓口」と書かれた資料が配られる。国際室の室長が、1999年度から行われる予定の事業説明をした。団地の人々が、「どうせ作るなら、湘南団地に作れ!」と声を荒げていた「それ」のことだ。しかし、室長は、団地については一切触れなかった。
次いで、市社協の国武さんが、市社協の事業と湘南団地を訪問した経緯を説明。新原先生が、「団地の中で日本語教室を作ることになった場合、モデル地区として、市役所からも協力を得たいと考えている」と切り込む。すると、小野寺さんが口を開いた。
「私たちも、日本語ボランティアとして、団地で何かせねばと思ってはきたんだけれど、なかなかそこまで手が回らなかったというのが本音です。湘南団地の外国人の人々を支援したいのだけれど、その前に、団地の自治会との対話が難しいんですよ。なんというか、自治会の考え方は少し古いところがあるというか、外国人を管理しようとする部分が強いし、自治会長の体質も硬いっていうか、でしょ? なかなかコミュニケーションがうまくとれないところがあって、それが壁になっているという感じもしてます」
その場にいる誰もが、自治会長の「灰汁の強さ」は知っていた。「外国人を管理しようとする」「体質も硬い」「なかなかコミュニケーションがうまくとれない」… その通りだと思う。もっと言えば、「突然怒り出す」「急に怒鳴りつける」も、加えられるだろう。しかし、なぜだろうか。私はこの時、小野寺さんの話を聞いていて、正直、不愉快だった。
小野寺さんは、話を続けた。
「それに、国際交流協会と『湘南日本語の会』は、協力してやってくことが難しいように思う。『湘南日本語の会』は、『行政として何もしてくれない』と、国際交流協会に幻滅しているところがある。だから、国際交流協会の日本語ボランティアが協力するにしても、『湘南日本語の会』とは、期間を区切って、2年間交代で団地にかかわるなどの方法を考えて欲しいなと思っています。あと、『湘南日本語の会』に話に行く時は、自治会を通してじゃなくて、外国人に協力してもらって協力を求める方が上手く行くでしょうね」
地域の日本語ボランティア同士も距離をとりあっている様子だった。しかし、その中でも、団地自治会とのかかわりを避けようとする意志は、特別に強いものに感じられた。小野寺さんに限らず、「湘南日本語の会」のボランティアも、前述した通りである。「外国人の支援はしたいが、団地自治会とはかかわりたくない」のだ。
なんとも言えない不快感に襲われていると、国際室の室長が、矢継ぎ早にこのように発言した。
「行政もこれまで、湘南団地には関与してこなかったというのが、反省すべき点だと思っております。しかし、行政の事業は、公的サービスを提供するのが目的でありますので、なかなか特定の地域だけに関与するということは難しいというのが現状です。特に、湘南団地という場所は、湘南市域においても、少し特殊な場所であるといいますか、もともと団地入居者は階層が低いというイメージがありますし、また、在住外国人や、インドシナ難民が多く住んでいるということで、他の地区とは少し異なるという感覚もございます。ですので、そこだけにサービスを集中させるということになりますと、正直、湘南市民たちの抵抗があるという事情もございます」
とても丁寧な口調だったが、発言の内容はどこか差別的に聞こえた。湘南団地以外で暮らしている外国人住民に対しても、満遍なく支援が行き渡るようにすることが行政の役割だということは理解できた。しかし、そのように、広く均一的に支援を行き渡らせるのと「同時」に、外国人が集住する地域に特化したサービスを展開したとしても、おかしくはないだろう。
それができない理由として、もともと他の地域からは疎んじられていた場所に、特別な支援が入ると、市民たちから「平等ではない」と苦情がくるということをあげていた。そのような「市民たちの抵抗」と表現されたものに対し、差別のような匂いを感じたのだ。団地を忌避する住民意識を理由に、行政が「中立」を装いつつ、無関与を続けるならば、団地はますます孤立していくばかりだと思った。
室長は、ダメ押しをするかのように、急いでこう付け加えた。
「直接、湘南団地の方へ行政が顔を出すのは避けたいと思っています。ボランティアを支援するような形で、下地を作ることには、ご協力したいと考えております」
「あんなにも、自治会の人々は、行政からの支援を求めているのに」と、腹立たしい気持ちが沸きあがった。湘南団地を訪問した時の、自治会の人々の顔を思い出した。我々のような「行政らしきもの」に対しても、厳しい表情ながらも丁重に歓迎してくれた自治会。そして、「この機会を絶対に無駄にはしない」と、鬼気迫りながら団地の危機的状況を訴えていた人々の顔は、忘れることができない(第4~6回参照)。
新原先生は、すかさず、このように返した。
「湘南団地の方々は、この機会に、行政がかかわってくれるだろうと強い期待を持っています。ですので、2年くらいの期間は、僕たちが国際室の方へ顔を出すようにいたします」
「顔を出さない」と宣言した相手に対して、「完全には逃げきれないようにする。そのためには労を惜しまない」と言ったのだ。しかし、国際室室長は、困った表情をしながら、「はい… はい…」と、あいづちを打つだけだった。
なんとも生ぬるい反応を見ながら、心がざらついた。そして、「顔を出すのは避けたい」と言った行政よりも、「外国人の支援はしたいが、自治会とはかかわりたくない」と言っていたボランティアの方が、「まだまし」のように思った。
小野寺さんらボランティアの発言には、多少なりともその背後に、外国人や「灰汁の強」い自治会の人々の顔が見えるような気がした。一方で、室長の発言からは、自治会の「灰汁の強さ」さえも捨象され、無関与の姿勢が強くにじみ出ているように感じたからだ。
このようなやりとりを目にして、行政が直接的に関与するのは無理だとしても、日本語ボランティアならば、「もしかすると団地に協力してくれるかもしれない」と期待するようになった。同時に、「自治会の人々がもう少し態度を改めてくれさえすれば」と思った。そして、その後、小野寺さんらが運営している日本語教室に足を運び、実際にボランティアの手伝いをしながら、彼らが団地に来てくれることを密かに願うのだった。
【団地をとりまく組織の相関図(1998年7月~1999年1月)】
[© Kanae Nakazato]
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