6.「生きた吹き溜まり」――日本語教室が産まれた土壌
日本語教室の開設の熱気にのまれ、当時の私は、教室のことばかりに目がいっていた気がする。しかし、今振り返って思うのは、日本語教室そのものというよりは、日本語教室が産まれる土壌を作ったことが、実は、「湘南プロジェクト」の「真骨頂」だったのではないかということだ。
日本語教室の開設前後、気づけば、難民事業本部のみならず、市や県の行政職員や、市域のボランティアといった様々な人々が、団地を訪問するようになっていた。日本語教室という「新しい場所」を作ったから、団地に人が集まるようになった、という単純な話ではない。その「新しい場所」を作るために、何年もの時間をかけて、話し合ったりぶつかり合ったりした過程が、団地を取り巻く地域社会の関係性を徐々に変化させていたのだ。
湘南団地はもともと、人が近寄らない場所だった。「出張委員会」が湘南団地を訪れた時も、団地の人々は「市や県が来てくれた」といって歓迎する一方、攻撃的な言葉を投げかけてきた(第5回参照)。それは、長年、支援が得られなかったことによる孤立感や猜疑心からでもあった。市域の日本語ボランティアも証言していたように、外部の人間が入っていくことが難しい場所だった(第8回参照)。団地や地域の住民それぞれが、外国人のことを気にかけながらも、お互いに牽制しあう緊張関係となっていた。
そのように、ガチガチに凝り固まって身動きが取れなくなっていた地域社会の関係性に、「湘南プロジェクト」は、少しずつ水をしみ込ませる役割を果たしていたように思う。ぶつかって亀裂が入った時は、その裂け目に水をしみ込ませながら、徐々に互いの関係をほぐしていった。
次のような展開も、その一つの現れであろう。
湘南団地に日本語教室がスタートした翌月、1999年2月1日に「委員会」がもたれた。会議の参加者は18名で、新原先生と国武さん、住吉さん、北条さんといった、日本語教室を主動する面々と、湘南団地の清水会長と民生委員播戸さん、湘南市国際室の室長、国際交流協会の職員とボランティアの小野寺さん、小中学校や保育園の教職員が出席していた。欠席者も少なく、主要なメンバーが揃った会議でもあった。
新原先生が、会議の冒頭でこのように話した。
「湘南市にかかわっていただいたことへの謝意をこめて、市の建物で会議をさせてもらうことにしました。3年間くらい同じメンバーで会議をもち、ある程度共通認識がわれわれの間にできたと理解しています。難民事業本部から助成金を受けて、湘南団地に日本語教室を開いたことは、この委員会の成果であると考えています。」
これまでずっと「委員会」は、社協の福祉会館で会議をしてきた。社協の事業なのだから、当然の流れでもある。しかし、この日は、市の分庁舎が会場となった。かつて市は、「湘南団地に、直接顔を出すことを避けたい」とコメントしていた(第8回参照)。しかし、そんな湘南市も、気づけば、1999年1月11日に湘南団地へ「直接顔を出」し(第6回参照)、今回のように会場を提供する形で協力してくれるようになった。
団地の清水自治会長が立ち上がり、会議の出席者に向けてこのように話し始めた。
「皆さんに御礼を言いたい。問題を抱えた他の場所をさしおいて、湘南団地に集中的な支援をしていただいて、御礼を申し上げます。
日本語教室を開いて考えたことを言いたいと思います。まず、県の方と湘南団地について話す時間を持ちました。大和市の難民定住促進センターでの難民の受け入れは終わったので、これからはもう外国人が団地に入ってこないかと言うと、実は全く逆であることがわかってきました。直接、センターからの流入はないが、『バラバラに住んでいる外国人』が入ってくるようです。」
「バラバラに住んでいる外国人」とは、地域で点在して暮らしている外国人のことだ。清水会長によると、そうした外国人は、勤めに出ない限り家庭内では日本語を使わないため、日本語が習得できずに孤立しがちだという。難民定住促進センターがなくなったことで、入国時の日本語学習のフォローもなく、全く日本語が分からない外国人が、今後はますます増えていくのではないかと危惧する。清水会長はこう続けた。
「『バラバラに住んでいる外国人』の大変さと、今後の受け入れる側の大変さが、徐々に分かってきたところです。これは、湘南団地だけの問題ではないと思っています。」
清水会長の発言を聞きながら、私は以前のように、緊張していない自分に気づいた。「皆さんに御礼を言いたい」と言って、深々と頭を下げた清水会長は、いつになく穏やかだったからだ。辛辣な批判や皮肉を言ったり、突然怒鳴ったりしていた清水会長の面影は、もう、そこには無かった。
新原先生がこのように返答した。
「団地の日本語教室でも、子どもや大人の問題を複合的に考えています。当面は、一時的な日本語教室から、5年、10年の計画を持つものにすることが課題です。委員会としては、今はまとめの時期ではないかと思っています。今日は、次年度4月以降のことで、色々なかかわり方、持ち寄りで、何かできることはないかを話し合いたいと思います。外国人問題は、ますます複雑化してきているので、皆さん、できることを持ち寄って対応していきましょう。」
このような記録を改めて読むと、「持ち寄る」という言葉が、湘南団地がもはや孤立した状態にはないことを示しているように感じる。これまで、湘南市は、様々な立場の人が、緊張関係の中で身動きが取れなくなっており、互いに知恵や力を出し合うことが難しい状況にあった。そのような状況から一歩進み、「持ち寄る」という言葉が使えるようになったのは、地域全体が有機的につながりつつあることを表しているように思う。
そのような空気感の中、湘南市の国際室室長が、口を開いた。
「行政として、湘南市でも外国人向けの活動はやってきました。その活動の多くは、国際交流協会に委託しています。国際室としては、外国人相談窓口の設置などを検討しています。けれども、通訳に費用がかかるため、相談窓口の来年度の予算がおりないおそれが出てきてしまいました。相談窓口を早急に設置することは難しいです。今は、外国人の問題や相談に、個別で国際室が対応している状態です。」
これまでの「委員会」ではずっと、湘南市国際室のメイン事業として、相談窓口の開設が挙げられていたが、その実現は難しいとのことだった。他地域で活動をしているアドバイザー委員が、相談窓口の事例を紹介した。
「うちの区では、団地に住むベトナム・カンボジア・ラオス・中国人向けに、相談窓口をやっています。区役所で、4ヶ国の通訳が、曜日ごとに相談を受け付けていて、いっぱい人が来ています。」
清水会長が、おどけた口調で、こんな風に言った。
「そんな話を聞くと、よだれが出てくるね。」
会議参加者全員が、一斉に、大笑いした。先ほどまで困って顔をしかめていた国際室の室長も、いつもは清水会長と喧々諤々にやりあう小野寺さんも、みな笑っていた。
これまでの清水会長なら、さんざん「やる」と言っていた相談窓口ができないと分かったら、面と向かって物申していたところだろう。市の国際室は、湘南団地に手が貸せない理由として、公平性をあげていた。団地のような特定の地域のみにサービスを提供するのではなく、市の建物に外国人相談窓口を設置して、市域住民全体にサービスが行き渡るようにしたいという主張だった(第8回参照)。その相談窓口すらも予算化できないというのは、「笑えない」状況でもある。
だが、この日の会議は、笑いに包まれた。「委員会」で笑いが起こったのは、初めてのことだった。清水会長がおどけてみせて、沈んだ空気を笑いに変えた。このことは、できないことを互いに責めあうのではなく、全体で乗り越えていこうという関係性が、委員の間にできつつあったことを表していたように思う。この時の「委員会」では、困難もユーモアに変えて乗り越えようとする姿勢が、共有されていた。
湘南団地の日本語教室は、おそらく、以前のような緊張関係が続いていた土壌には、産まれえなかったものだろう。緊張の続く中、「湘南プロジェクト」は、様々な立場の人々と面談を重ね、声を聴き、団地の外国人や自治会の想いを周囲に伝える役割を果たした。行政や地域の人々も、団地自治会は「灰汁(あく)が強い」「話が通じない」と言いながらも、団地に気持ちを向けた。そのような動きの積み重ねで、互いに牽制し合う緊張関係からは一歩抜けて、そこに、緩んだ土壌ができた。こうした土壌に、日本語教室は一つの「成果」として、産まれたのだ。
会議の最後に、北条さんがこのような提案をした。
「この委員会で話し合った課題をまとめて、2年間の『提案書』を出したらいい。市の国際室だけにお願いするのではなく。みんなでそれをやる。私の活動している市では、市民サイドから行政へ働きかけをしました。そのために、まず、湘南市の人材を共有しあうこと、そして、人材を育てていくことだと思う。」
新原先生が、鋭いユーモアをまじえながら、このようにまとめた。
「皮肉なことかもしれないですが、外国人相談窓口がまだないこの湘南市で、それよりも、もっと新しい試みを始めていくのです。」
この時話題となった、市の外国人相談窓口の開設は、2年後の2001年まで待つことになる。開設当初は、スペイン語とポルトガル語の通訳を配置したスタイルだったが、今では16ヶ国語での相談が可能となっている(2023年7月現在)。
この日、私はまた「次」があるものと思いながら、湘南市役所の会議室を後にした。記録を見返しても、他の委員たちも皆、「次年度」を意識した発言をしている。しかし、この日を最後に、「委員会」は突如、「打ち切り」となる。細かい事情は不明だが、大本である県社協の事業が中断したことによるらしい。
「委員会」が「打ち切り」になり、「公」に集まる場所は、唐突に無くなってしまった。しかし、その後も「湘南プロジェクト」は、とどまることを知らず、湘南団地の日本語教室を足場に、躍動的な場を生成していく。「委員会」を通じて起こった関係性の変容と同じように、多様な人々を巻き込み、またそれぞれの関係に影響を与えながら、その輪郭を大きくしていった。
それは、外側からみたら、一見、道端の「吹き溜まり」のように、「いきあたりばったり」で、計画性が無く、偶然できた有象無象の集合体に見えるかもしれない。しかし、そこは、外国人が集住する一つの団地をめぐって、異なる「想い」や「熱意」、そして「使命感」を抱く人々が、お互いにぶつかりながらもかかわり合い、変容を繰り返しながら動くエネルギッシュな「生きた」場であった。「湘南プロジェクト」は、「生きた吹き溜まり」として、その後も、湘南市の地域社会の中に、うごめき続けるのだった。
[© Kanae Nakazato]
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