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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第13回 プレハブの日本語教室(1)

    1.プレハブの日本語教室

     湘南団地の日本語教室は、プレハブだった。当時、団地の集会所は改築中で、団地内の公園に、仮設の集会所が建てられた。日本語教室は、その集会所のホールを活動拠点としていた。集会所はプレハブ造りではあったが、大きなホールと和室、事務室、また大人数で調理可能なキッチンも整備されており、設備は充実していた。ただ、建物の構造上、冬の冷たい隙間風や、夏の生ぬるい空気の侵入を、完全に防ぐことは難しかった。

     集会所玄関の大きな扉を閉じたつもりでも、常にわずかな隙間ができて、木の葉や砂埃が舞い込んでくる。だから、入り口が開放されていた和室やキッチンは、いつもどことなくザラついていた。そんな中、日本語教室は、隙間風や塵の侵入を嫌うかのように、会場となったホールの扉を毎回ピタッと閉じていた。日本語教室の中にいると、そこがプレハブの仮設集会所だということを、忘れてしまうほどだった。

     1999年1月18日にスタートをきった湘南団地の日本語教室は、初日には50名を超える外国人が集った(第11回参照)。湘南プロジェクトは、プロの日本語教師を招き入れ、質の高い日本語教室を展開した。「新しい日本語教室がどんな様子か見に来た」と「偵察」に来た外国人も、帰りには「次回は知り合いを連れて来ます」と、期待に満ちた表情をしていた。日本語教師である蔵田先生の授業は、とても好評だった。

     当時の私は、日本語教室の盛況を目の当たりにし、教室の発展を想像して胸が高鳴った。今後は参加者も増えて、外国人住民にとって中心的な場になっていくだろうと思った。とはいえ、全く問題のないスタートだったかというと、そうではない。初日から開始時間に会場の鍵が開いてなかったり、運営資金を助成してくれている難民事業本部との「擦り合わせ」が必要だったりと(第11回参照)、課題はいくつもあった。そのような状況下で、湘南プロジェクトは、大盛況だった教室初日から、わずか5日後に、「緊急会議」を開いた。

     「緊急会議」の争点は、日本語教室の「対象」を、どのような人々に定めるかということだった。私は会議の場にはいなかったので、その時に残された記録を再構成して、何が起こっていたか記してみたいと思う。

     まず、いち早く、日本語教室に対する危機感を訴えたのは、蔵田先生だった。日本語教室初日の直後、蔵田先生から社協の国武さんに連絡が入った。国武さんによると、蔵田先生は、「日本語教室の対象者を中級以上に限定したい」と言っているとのことだった。

     これは、湘南プロジェクトの目標の一つに、「日本語教室を自主的に運営していく外国人のリーダーを育てる」という内容があったことが関係している(第11回参照)。蔵田先生は、その目標に向けて、中級以上の日本語能力がある人に参加者を限定したいと言った。ある程度の語学力が備わった人々を対象に、リーダー育成のプログラムを組む方が、より実践的だという考えだったようだ。

     だが、実際には、初日の日本語教室に集った参加者は、中上級者は少数派で、大多数が初級から入門のレベルだった。今後はさらに、初級以下の参加者が増えることが予想される。そうした状況を受け、「対象を中級以上に限定する」という思い切った対策を打たなければ、目標へのアプローチが難しくなると感じたようだ。

     湘南プロジェクトは、このような蔵田先生の訴えを受け、間髪入れずに会議を招集した。1999年1月23日の17時から、団地集会所には、新原先生と社協の国武さん、大学院生、団地自治会からは国際部長の上野さんと民生委員の播戸さん、事務局の安斉さん、そしてラオスの「外国人リーダー」が集った。

     大学院生の残した記録には、自治会の国際部長である上野さんの発言が書き留められていた。「蔵田先生の講座を見ていると、先生のしゃべりが速すぎる。われわれは普段もっとゆっくりとしゃべっている。やり方に疑問を感じる」。私はこの言葉を読み、ここに自治会の考えが表れていると感じた。

     上野さんは、「日本語の先生の話し方に問題がある」と言いたいわけではない。そうではなく、ほとんど意思疎通ができない外国人に、もっと目を向けて欲しいと訴えたかったのだろう。蔵田先生が「対象外」とした人たちこそが、日本語教室に来て欲しい人たちなのだった。

     団地自治会の役員は、何かトラブルが生じて呼び出されたら、夜中であっても駆けつけた。問題の渦中にある外国人に対して、言葉が通じないと分かっていても、辛抱強く話をし、問題の解決に尽力してきた。どんなにもどかしくても、「ゆっくりしゃべる」こと以外に、とれる方策が無いことも、きっと多かったに違いない。

     特に当時は、難民事業本部の大和定住促進センターが3年後に閉所されるということで、新しく団地に入居してくる外国人にどう対応すべきか、自治会は頭を抱えている状況でもあった。定住促進センターは、初めて来日した難民に対し、日本語の学習支援や就労支援を行ってきた。そのような場所の閉所は、日本での暮らしについて予備知識を持たない外国人が、いきなり地域で暮らし始めることを意味している。このような文脈で、湘南団地の自治会が、「話が通じない外国人に、日本語を教えてもらいたい」と強く求めても、何らおかしなことではなかった。

     新原先生はこの時の様子を、このように記録に残している。

     

     上野さんも、播戸さんも安斉さんも、とにかく目の前にいる、日本語の話せない人たちと意思疎通がしたいんだということを力説した。「もちろんそれが目標なんだけれど、5年10年先を見て底上げをしていこう。4月以降は初級も含めて複数のクラスを開講するように下準備をするから」と僕は言った。「県の人たちが来てからはっきりとした『われわれ』感覚を確認して(第6回参照)、最初あれほど違和感があったのに、いまでは一緒にやっていけるようになったじゃないですか。これだけ困難な中で、上野さんたちがまったく個人的にこの状況に立ち向かい、少しずつ突破口をつくってきた、その営みの中にいれてもらう形で国武さんや僕たちが機会を与えられ、本当にせまい『切っ先』の中で突破口を切り開いた。小さな芽だけれど、いや小さな芽だからこそ、ここから始めなければならないんです。実際、これまで来てくれなかった市や県の人も同じテーブルに着くことができた。日本語教室が、この湘南団地の内側から何かをつくりあげていくための場、人を引き寄せる磁場が発する場となっていくはずですよ」と一生懸命話した。

     播戸さんと安斉さんが、上野さんに話してくれた。「でも、いまこの湘南団地にいる、あの言葉の通じない人たちに何かしてあげて欲しいんだ」という上野さんが、「わかった、最初の10回はせっかく遠くから来てくれている日本語の先生の顔を立てましょう」と言ってくれた。

     

     新原先生が、自治会の人々を「説得」している様子が目に浮かんでくる。「説得」と言っても「どちらか一方の意見を通す」ということではない。異なる立場や考えをもった人たちが、それでも相手を信頼するということを通じて、「これしかない」という方向性を見いだした、そんな印象が伝わってくる。

     「委員会」や「現地打ち合わせ会」で意見を交わし、時にぶつかりあった時間は、自分のことではない事柄に対しても、誠心誠意向き合う姿勢を共有する時間でもあった(第12回参照)。特に、団地自治会は、全てを思い通りに解決できるわけではないとしても、自治会や住民の想いを決してないがしろにしないという信頼を、新原先生に対して持っていたように思う。やりとりを見ていた大学院生は、その場の空気感をこのように記している。

     

     両極端の二つの立場のぶつかり合いではなく、少しずつ違うもの同士が、言いたいことを言い合いながら、何か創りあげているような雰囲気があった。播戸さんや安斉さんが、結局この話し合いをまとめる形となり、「とりあえずまかせよう」という話になった。とんでもない暴投だらけのキャッチボールを、少しずつまともなコースに近づけていくようなやりとりが数ヶ月前までの委員会の場でのやりとりだとすると、今回は互いにど真ん中のストライクを最初から投げ合い、意外なほど早く決着がついたという感じ。話し合いが始まり約一時間後には、中華丼を食べながら、それぞれの考え、これからのこと、個人的な話が、あちらこちらからもれはじめた。一番驚いたのは、たわいもない話の中で、新原先生の話に上野さんが答え、大笑いしていたことである。初めて見た光景であった。

     

     この会議を終えた後、新原先生は蔵田先生に電話をかけ、「2時間近く話をした」と記録にはある。その詳細は残念ながら分からないが、両先生は、実直に言葉を発する方々であるから、きっと議論は白熱したに違いない。こうした一連のやりとりの後、湘南団地の日本語教室は、以下のような進め方となる。

     まず、当初の「日本語ボランティア養成講座」という枠組みの中で、「教室を自主運営していけるようなリーダーを育成する」という理念を反映させ(第11回参照)、18時から19時までは、日本語教育に関するレクチャーの時間となる。その対象は、団地自治会の「外国人のリーダー」と、私のような学生も含まれた。そして、19時から21時までは、日本語教室を行う。

     肝心の、議論の争点となった日本語教室の「対象」についてだが、結局、初級の人々も「対象」となった。初級クラスと中上級クラスの2種類を、運営していくことになる。「今回は遠くから来てくれている日本語の先生の顔を立てましょう」と身を引いた団地自治会の要望が、最終的には通った形となった。

     このような展開を傍らでみていた私は、蔵田先生が、湘南団地のおかれている文脈を理解し、柔軟に対応してくれたのだと思った。実際に蔵田先生は、23日の「緊急会議」後すぐに、初級クラスを担当するボランティアを募って、次の日本語教室に連れてきている。次の日本語教室は25日だったから、中1日で全ての準備をしたということになる。蔵田先生は、機転の利いた実行力を持っている人だった。

     しかし、一旦は、門戸が開かれたかのように思われた日本語教室であったが、その後は徐々に「対象」が狭められていく。蔵田先生は、日本語教室の「枠組み」を固めていく過程で、やはり「対象」をできるだけ限定していきたかったのだろう。それは、蔵田先生の責任感の表れでもあったのだが、日本語教室の「対象」からもれる人たちは、教室の隅や外へと、徐々においやられていった。

     まるで、プレハブの隙間から侵入してくる冷たい隙間風やザラつく砂埃の侵入を防ぐかのように、日本語教室の扉は、しっかりと閉じられていくのだった。

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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