4.初めての「プロジェクトワーク」
1月からスタートした日本語教室では、全10回の講座の「締めくくり」として、「プロジェクトワーク」の計画が立てられていた。それは、1月から2月まで一緒に学習してきた外国人が主体となり、皆で協力してパーティを開くという内容であった。講座は2月末で終了なので、3月に改めて日にちを設け、パーティをするのだという。「学習者が自主的に教室のために動く」ということが、この「プロジェクトワーク」の目標とされていた。
湘南団地日本語教室において、初めての「プロジェクトワーク」だ。これについて、学習者である外国人の反応は、以下のような感じであった。
1999年2月15日
湘南団地で3月6日に行われる予定の日本語教室パーティについて。15日は、上級クラスと中級クラスの日であった。
中級クラスにて蔵田先生が、「パーティのことを自分たちで決めて」という話をしだした。「いつやったらいいか」「どこでどのようにやるか」「食べ物はどうするか」「会費はいくらにするか」などの質問を、蔵田先生が投げかける。
反応は、「先生が決めて」とか、集会所の使用についても「先生が聞いてきて」だとか、どうしても「自分たちで」という感じにはならない。一番それが明確に表れたのは、パーティの食べ物の話。「何食べたい?」と先生が質問すると、カンボジア料理とかベトナム料理とか、外国人が互いの国の料理の名前を意気揚々とあげていった。しかし、「誰がつくる?」という話になると、とたんに沈む。蔵田先生が「日本料理は作ってくるよ」と意気込みをアピールするが、それにのってくるのは中国の人だけだった。「他の国は、なぜ料理をつくろうとしないのか」と先生が質問すると、「仕事がある」とか「作れない」とか、あまりはっきりしない答えが返ってくるばかりであった。それをみかねてか、上級クラスの人も、話し合いに参加してくる。彼らが場の雰囲気を変えてくれるかなと様子をうかがっていると、上級クラスの人も「(料理は)女がやればいい」という始末。
重々しい雰囲気の中、「3月6日」「集会所にて」「6時から9時までパーティ」「会費1000円」「子どもも可」「料理は中国と日本料理」「買い出しもする」ということが決まった。
蔵田先生は、この時のことを振り返って「あんなに酷いのは、初めて」と言った。私はその授業を見学していて「そんなものか」と思っていたのだが。蔵田先生によると、外国人の学習者の中に「自分の力で何かをしよう」とか「人のためにやることが自分の能力の成長になる」という意識が無いのだという。今回の湘南団地での出来事を「そんなものか」と思ってしまった私は、蔵田先生から、様々なことを学びたいと思った。
初めての「プロジェクトワーク」は、「順調な滑り出し」とは言い難かった。外国人の「腰の重さ」が、強く印象に残っている。パーティをやろうということについては皆、それなりに賛成していた様子だったが、それを誰が準備するのかに関しては、話がとても難航していた。
当時の私は、その様子を見て、正直、「そんなものか」と思った。仕事の後に急いで教室に駆け付けたり、子どもを預けてきたりしている外国人にとって、パーティの準備は、正直「面倒くさい」ものだろう。また、学習者は、まだ互いに知り合って間もない人々であり、インドシナ難民の中には互いに対立感情を抱いている人だっているかもしれない。そもそも、日本語教室は「学習の場」なので、なぜそこでパーティを行わなければならないか、動機付けも難しいように感じた。
だが、蔵田先生は、一見、日本語の勉強とは無関係に思えるような「パーティを開く」ということが、実践的な日本語の学習や「自主的」な意識を養うことにつながっていくと力説していた。他の地域の教室では、同様の「プロジェクトワーク」を通じて、クラスの団結力や帰属意識が強まったと話す。そのような積み重ねが、日本語教室の自主運営といった試みにつながっていったという。
蔵田先生は、こうしたモデルをもとに、次の回の湘南団地日本語教室でも、外国人と粘り強く話をした。しかし、返ってきた反応は、蔵田先生の期待するものとは、大きく異なるものだったようだ。
1999年2月19日
19日は初級クラスと上級クラス。上級クラスの最後に、パーティの話し合いがなされたという。私はそこにいなかったが、蔵田先生の話を記録に残しておきたい。先生が学習者たちに「何かやりたければ自分たちでやっていかなければならない」と話した時の反応。「他の地域のパーティでは何もしなくてよかった」「ラオス料理をつくってもいいが、お金はもらえるのか。売ってよいのか(行政がらみのイベントでは、料理をつくればお金になるらしい)」と言ったという。授業が終わると、蔵田先生はかなり怒った様子であった。
この時のパーティが、実際にどういう様子で行われたのか、残念ながら記録が欠落していて定かではない。ただ、「パーティは無事に終わりました」という、私から新原先生への報告のみが、記録に残っている。
この初回の「プロジェクトワーク」のパーティの他にも、日本語教室では、夏休み前や年末などの節目に、度々パーティが開かれていた。私の記憶の中では、カンボジア料理、ベトナム料理、ラオス料理、南米や中国の料理など、色とりどりの多国籍料理が振る舞われていた。だから、おそらく、この初回のパーティも、様々な国の料理が並んでいたことと思う。「料理は作りたくない」と主張していた外国人たちも、最終的に、パーティを盛り上げる方向で協力していたように思う。
【パーティと日本語教室の扉】
【パーティの料理を楽しむ人々】
また、料理よりも、実際に「自主的」に行われていたのは、各国の音楽を大音量で流し、皆が輪になって、独特な踊りに、思い思いに興じる場面であった。もともと「パーティ好き」「しょっちゅう宴会をやっている」とされるラオス人、カンボジア人、ペルーやブラジル人らは、いざパーティ会場に入ると、音楽やダンスで場を盛り上げる力に長けていた。自治会の役員が、「外国人が大音量で宴会をして、毎晩のように隣近所から苦情の電話がかかってくる」と、よく嘆いていたことを思い出す。
普段は日本語をほとんど発しない男性も、「この時ばかりは」と、はつらつと日本人女性に絡みにゆき、ダンスをリードするのだった。乳幼児を抱えて身動きがとれない女性らも、子どもを抱っこしたまま、音楽に身を任せていた。また、お酒が用意されている時は、「スピンザボトル」が始まって、宴は大いに盛り上がっていった。
【東南アジア系のダンス】
【南米系のダンス】
【スピンザボトル】
主体的にパーティを盛り上げ、宴を楽しんでいる外国人の姿からは、大きな生命力を感じた。楽しい時間を共有することで、お互いに、普段の教室では見ることのできない表情を知り、言葉は通じなくとも親交が深まっていくのが分かった。パーティ後はいつも、日本語教室に集う外国人や日本人の距離が、以前よりも少し近くなっていた。そのように振り返ってみると、「プロジェクトワーク」という観点からしても、それなりの成果が出ていたのではないかと思う。
だが、蔵田先生の中で、団地の日本語教室のパーティに対する評価は、あまり高いものではなかった。先生は、「お祭り騒ぎ」の輪には入らず、外国人が楽しんでいる姿を、遠目に見ていることが多かった。蔵田先生が踊っている姿は、ほとんど記憶に無い。その場の雰囲気を楽しんでいたとは思うが、パーティそのものへの関心は薄いように見えた。
蔵田先生はあくまでも、日本語教育としての「プロジェクトワーク」の達成度を、第一に考えていたのだろう。パーティがいかに盛り上がったかではなく、その準備段階からの取り組み方を重要視していた。
「料理は作りたくない」「準備は先生がして」と言った外国人の姿を、蔵田先生は問題視していた。そのため、「プロジェクトワーク」への評価は、学習者の「意識不足」や「力不足」といった言葉で表現されることが多かった。パーティ会場で見せる外国人の生々しい人間力やコミュニケーション能力にも、もう少し着目して欲しかったが、そこには、ほとんど関心がもたれなかった。
この初めての「プロジェクトワーク」以降も、湘南団地日本語教室に対する蔵田先生の評価は、あまり変わらなかったと記憶している。外国人の反応が、蔵田先生の想定したようなものでない時は、「やる気がない」「自分たちで、という意識が低い」と評されていた。
実際には、これまで見てきたように、湘南団地の外国人は、何度も会議で声をあげ、日本語教室の開設に尽力してきた(第5回、11回参照)。決して、「意識が低い」人たちではない。また、異国の地で生活を一から築いてきた人々が、何かを作り上げるということについて「力不足」であるはずがない。
だが、そうした姿は、蔵田先生の視野には入っていなかったように思う。それは、蔵田先生の日本語教育が、外国人の創造力や主体性から発せられたものにではなく、「教師があらかじめ準備したものを、その通りに実行できるかどうか」に焦点を当てていたからではないだろうか。蔵田先生は熱意のある優秀な先生であり、授業の前に、徹底して教案作りや授業のシミュレーションを行う方だった。しかし、この特徴はまた、「想定外」のものに関心をむけにくいという側面と表裏一体をなしていて、「諸刃の剣」なのかもしれなかった。
日本語教室は「水を与えるのではなく、井戸を掘るための知恵を教える」ことを目標としていたが、徐々に、「井戸を掘るための知恵」が、教師側の持っている既存の知識や常識の「枠内」になっていったように思う。日本語教師の想定や考えからは外れたものは、まるで塵や埃のように煙たがられ、無視され、教室の隅においやられていったように、当時の私には見えていた。
蔵田先生の日本語教室は、そのドアをいつもしっかり閉じていた。先生はドアを閉じ、他からの邪魔が入らないようにして、日本語教育を計画的に進めていこうとしていた。しかし、湘南団地の集会所は、仮設のプレハブだった。プレハブであるが故に、いくら防ごうとしても、隙間風は否応なく入り込んでくる。そのような隙間風にのって運ばれてきた砂や塵、そして片隅に「吹き溜まって」いった埃こそが、数年後には、「主体」となって、湘南団地の日本語教室を「自主的」に運営していくことになるのだが、この時の日本語教室は、まだそれを知らず、「プロジェクトワーク」の道を進んでいた。
[© Kanae Nakazato]
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