3.「教師主導」の閉鎖的な教室
日本語教室は、教師も学習者も一致団結し、様々な「プロジェクトワーク」を遂行しながら活動を続けた。「外国人のリーダー」を育てるという目標も、積極的に動く学習者が出てきたことで、良い方向に向かいつつあるようにも見えた。
だが、こうしたことは、あくまでも教室活動「内」でのことであって、教室自体を運営するような動きや「社会のオペレーター」育成に結びついたかというと、そこまで単純な話ではない。
日本語教室という場では、「教師と生徒」という関係や、「プロジェクトワーク」を計画する者とその計画にのる者という関係に、どうしても縛られる側面がある。そのため、「教師主導」や「プロジェクトありき」といった構造に影響され、それが、純粋な意味での、外国人による自主的な活動にブレーキをかけていたように思う。
実際に、例えば、このような珍事も起こった。蔵田先生の日本語教師チームに召喚された日本語ボランティアのAさんが、年度途中で引退することになった時のことである。この日の日誌を見てみよう。
1999年7月5日
7月26日の中級クラスで、パーティをやることに決定した様子。日本語ボランティアのAさんは、この日を最後に引退する。9月は教室に来ないと学習者に説明し、「さみしいから、パーティをしよう」という話に、強引にもっていく。問題は、このクラスは7月30日が最終日だということ。7月26日はAさんの最終日であって、クラス自体は最終日じゃない(他の教師もこのクラスを担当しているので)。そして、同じホールでは、上級クラスも学習しているのに、その横で中級クラスだけがパーティを行うことになってしまうこと。一体どうしたいのか。もしパーティがしたいなら、子どもたちや自治会、他のクラスにも声をかけるのが当然であるし、学習者の人々も、その点、色々と疑問を持っていると思う。実際に、中級クラスのペルー人が、上級クラスを担当していた安部さんに、「私料理作るから、先生も食べにきてね」と声をかけにいっていた。
この経緯を聞きつけた蔵田先生が、その後すぐに、Aさんに指導を行った。だが、Aさんは、「学習者がどうしても、辞めてしまう先生のためにパーティをしたいと言った」「蔵田先生がご努力なさってもパーティはできなかったのに、悔しいお気持ちは分かりますが」と返答したと言う。蔵田先生は、この件で、上級クラスの学習者に相談をもちかけることにした。
1999年7月12日
上級クラスのパーティについて話し合い(中級クラスの人が上級クラスに、パーティの開催について、母国語で伝えに来たあとのミーティング)
蔵田:みんな、それでいい? いやだったら、また考えるよ。
R:26日パーティやって、30日に勉強はへんだ。30日の方がいいよ。
H:(その旨を、中級クラスの人に伝えに行く)あっちは、26日が最後だから、26日になったみたい。
蔵田:いや、本当は、30日が最後だよ。26日は、「A先生」の最後ね。
S:月曜日、忙しい。
蔵田:私たちに言わないで、中級クラスに言ってきてよ。Hさんは偉いね、ひとりで言いに行ってくれて。この中で、料理作れない人もいるでしょ? 来られない人はいる?
R:その日にならないと分からないよ。
蔵田:パーティはやりますか? パーティが嫌で、みんな来ないというなら、このクラスだけ、違うことをしてもいいんだよ。
R:でも、みんなで同じことした方がいい。
T:月曜日、パーティしたら、私つかれちゃうの。
R:26日、最後じゃないんでしょ?
蔵田:そうなの、それもおかしくて…
S:しないほうの気持ちある。
蔵田:じゃあ、まだ時間があるので、また今度、考えましょう。
結局、このパーティは、日本語教室のホールに集まった人だけで、こぢんまりと執り行われた。「大人として付き合った」という外国人も多かったと思うが、日本語ボランティアの「送迎会」として、十分に礼が尽くされたパーティとなっていた。ボランティアのAさんは、「自分で提案した自分の送迎会」にとても満足し、教室を去っていった。
蔵田先生は、このような珍事に対し、「プロジェクトワークは、『パーティすること』が目的ではない」「教師が主役になってはいけない」と立腹していた。私は目の前で起こったことに対して、あまり他人事ではない気がしてもいた。ここまで極端な例ではなかったとしても、教育という場において、「教師と生徒」という関係がある以上、こうした状況に陥りやすい側面があることは、常に意識しておかねばならないと感じた。
蔵田先生も、そうした部分への配慮は常にしており、できるだけ学習者の自主性を引き出せるようにと慎重に検討していた。だが、それでも、「教師主導」になりがちな構造からは、完全には逃れられなかったようにも思う。特に、蔵田先生は、しっかりとした教案を作り、計画的に授業を進める傾向が強かった(第14回参照)。その計画をスムーズに実行していくためには、どうしても「プロジェクトありき」となり、その課題に適した人物が、より中心的に動くようになっていった。
その一方で、教師が提案したプロジェクトには、積極的に参加できない学習者も出てきていた。日本に来て間もない人や、家庭や仕事で問題を抱えて余裕が無い人などは、徐々に、日本語教室から足が遠のいていった。提示される課題が難しく、日本語の能力的についていけない人もいた。また、「パーティ」やイベントなどへの参加が、直接的に生活の負担になることもあった。日本語教室から足が遠のいていった人の方が、本来は、なんらかの支援が必要だったのではないかと思われる。
団地自治会が日本語教室への初見で危惧していたように(第13回参照)、幅広い層の多くの外国人に、門戸を広げていくことが難しくなっていった。教室に来るメンバーは固定化し、開設当初は60名近い参加者がいたけれど、半年も経つと、半数近くまで学習者の数が減ってしまった。1999年6月の時点で、1回の参加者が、中・上級クラス18人~25人、初級・入門クラス10人~12人という記録が残っている。
学習者の激減について触れると、日本語教室は「外国人のリーダー」の育成を目標にしていたのだから、「量より質だ」と反論されるかもしれない。ただ、蔵田先生の教室にて、「次世代のリーダー」として注目されていた学習者がいたのだが、実際にはそううまく育たなかった。
その人は、来日3年目にして日本語の能力も高く、「団地祭」などで大活躍し、仲間からの信頼も厚かった。しかし、その後に起こる日本語教室の危機的状況に対して、リーダーシップを発揮したかというと、そうではない。蔵田先生らが湘南団地から撤退してしまうと、「次世代のリーダー」は、「湘南プロジェクト」に一切顔を見せなくなってしまった。
「水を与えるのではなく、井戸を掘るための方法を教える」を理念とする日本語教師たちが望んだのは、自分たちが必要な場所を、自主的に作っていける人を育てることだった。しかし、注目されていた「次世代のリーダー」は、そのような状況下において、期待された役割を果たすことはなかった。もちろん、だからといって、その人の能力や資質を否定するつもりはない。だが、このことを通して私は、固定的な空間で機能していたリーダーが、既存の枠組みが無くなったとたん、それまでの力を発揮しなくなることもあるのだと学んだ。
むしろ、教師たちが誰も来なくなった教室を、一から立て直したのは、蔵田先生からは「リーダーシップが無い」と全く期待されていなかった学習者たちだった。また、初級クラスや入門クラスにいる、日本語がほとんど話せない目立たない人々だったりした。これまでは注目されず、どちらかというと、教室の隅に追いやられていたような人々だった。
限られた教室活動の中で、「外国人のリーダー」を育成することはとても難しいことなのだと思う。「教師主導」の「プロジェクトありき」になりがちな傾向が、メンバーの固定化と教室の閉鎖性を招き、そのことが結果的に、日本語教室の「先細り」につながっていったように思う。
もちろん、蔵田先生の日本語教室のようなスタイルが、地域社会の中で効果的に作用する場合もあるだろう。日本語の専門家として、蔵田先生らの授業内容は大変質が高かったし、実際に、通ってきた人々の日本語の能力は、飛躍的に進歩したことも明記しておきたい。しかし、湘南団地という地域においては、蔵田先生のスタイルが、上手く機能することはなく、どちらかというと、徐々にマイナスな面が目立つようになっていったように思う。
4.守られていた日本語教室
ただ、蔵田先生自身も、こうした日本語教室の閉鎖性や「教師主導」となることへの危惧は、早い段階から持っていて、外に向けた活動の必要性を訴えることもしばしばあった。日本語教室が試用期間を終え、本格的にスタートした1999年4月8日。「湘南プロジェクト」による年度初のミーティングでは、このように発言している。
「湘南プロジェクトの理念は理解していますが、実際には、外国人のことを、助けられる、教えられる、与えられる人として、結果的に扱ってしまっているのではないかと思います。目指すものは同じだと思いますが、それぞれ方法が違うのかなと感じています。日本語教室の方針としては、先回りして与えるのではなく、必要なものがあるなら学習者にまず聞いてみる。日本語ボランティアが必要なら、ポスターを作らせてみる。ニューズレターを作って発信していく。他の人に話しかけさせてみたり、交渉をさせたり。そういう活動が必要だと感じています。」
また、この2ヶ月後の1999年6月28日のミーティングでは、以下のような発言をしている。
「4月、5月の現在を比べると、学習者同士の関係が変わったと思います。その人々が本来持っているものが出てきて、問題が出てき始めた。それをどのようにコントロールするかが、日本語教室の課題です。ただそれは、教室内部だけ、その場の雰囲気の中で選択をしていっているだけで、教室の外では同じようにできないと思う。しかし、今は、この教室の時間の中だけでも、そういう反応が出ればよいのかなと思います。いずれ、外に出してゆけるように。外に発信していく力をつけるために、『プロジェクトワーク』として、上級クラスで日本語教室のチラシやニューズレターを作って配ろうかと考えています。」
蔵田先生は、教室の閉鎖性や「プロジェクトワーク」の弱点を把握しており、その点に対してどのように対処していくか模索していたことが分かる。蔵田先生の発言に度々みられる「させる」といった言葉からは、「教師主導」の教室活動という縛りから自由ではないことを感じるが、それでも彼女は、理念と実践のギャップを感じ取っていた。
しかし、日本語教室はこの後、約2年間の活動をもって終了となる。これまで見てきたように、教育活動そのものが持つ矛盾や限界が、そのきっかけになったのではないかと思う。また、もう一つ、重要な要因があったと感じる。蔵田先生の方向性は、当時の湘南団地の状況に、寄り添った形ではなかったということだ。
例えば、先に紹介したように、蔵田先生が「もっと日本語教室から、外に発信してゆきたい」と発言した6月28日ミーティングでは、湘南団地で民生委員をしている播戸さんが、何かを諭すような口調で、このような発言をしている。
「日本語教室をやっていくにあたって、湘南団地自治会に、大変お世話になっています。団地住民の中には、日本語教室や外国人が何かすることを良く思っていない人もいて、そういう人たちを自治会が説得してくれています。一旦、不満が出てきたら、やりにくくなる。日本語教室や子どもの教室は、ルールを考えてやっていってほしいです。」
蔵田先生はすぐにこう返答した。
「日本語教室が、みんなの力で運営されていることを学習者に知ってもらえるようにしたい。もし迷惑をかけることが出てきてしまったら、教室がなくなる可能性もあるのだということを教えていくのが、我々の役目ではないでしょうか。」
これに対し、1999年度から新しく団地自治会の「国際部長」となった沢井さんが、こう答えた。沢井さんは、前役員の上野さん(第5回、第13回参照)とは毛色が異なり、とても物腰が柔らかい男性である。背が高くお洒落な人で、バイクが趣味のハイカラな男性だった。豊かな白髭をたくわえ、子どもたちからは「ヒゲジイ」と慕われていた。いつも朗らかな沢井さんが、厳しい口調で答えていたのが印象的だった。
「そういうことも大事だと思います。しかし、棟会長会議が2ヶ月に1回あるのですが、そうした場で、日本語教室に対する不満が出たら、どのように返事をしていくべきかが問題なのです。」
この発言のやりとりを、こうして文字に起こしてみると、どこか「ちぐはぐ」な感じがする。当時、ミーティングに出ていた私は気づけなかったのだが、今思うと、播戸さんや沢井さんは、日本語教室の存続自体が容易ではない状況を遠回しに、しかし、必死に訴えようとしていたことが分かる。
当時の日本語教室は、「一旦不満が出てしまったら続けられない」ほど、団地において「歓迎されていない」活動であったのだろう。そのため、蔵田先生が提案していたように、日本語教室から外部に向けて何かを発信したり、外国人が前面に立って何かを交渉したりということは、「現実的には不可能だ」と言いたかったのだと思う。
このミーティングの次の日、1999年4月9日に、団地自治会の新役員と「湘南プロジェクト」の顔合わせの会があった。その記録にも、このような内容が残されている。顔合わせには、日本語教師は参加せず、社協の国武さんと団地の自治会役員、民生委員が参加した。
〇日本語教室のnews letterの発行、外部へのアピールについて
・アピールをして湘南団地以外の外国人が来た場合は、どうするのか。
・基本的に、湘南団地在住ならば当然問題なし。民生委員の関係から、湘南地区の取り組みでもあるので、湘南地区の外国人も受け入れは問題ない。
・湘南地区以外の外国人に関しては、この場で即答はできない。役員会にかける必要がある。
・他地区から研修生という形で、教室に関わりたいというオファーもきている。役員会で検討はするが、難しい。
この記録を読むと、日本語教室の外国人の「受け入れ範囲」に、とても敏感になっていることが分かる。日本語教室は、会場として団地の集会所を利用していることもあり、その会場費や教材のコピー代などは、団地の自治会費に頼っている部分があった。団地住民の中には、自分たちが納めている自治会費を、外国人に使われたくないという声も多かったと聞く。そうした人々への配慮から、関係の無い地区の外国人の受け入れまではできないし、クレームが入らないように慎重に動こうという緊迫感が、自治会の人々にあったことが伺える。
そもそも日本語教室は、月曜日と金曜日の19時から開催していたが、その曜日と時間にも、自治会役員の配慮がみてとれる。もともと月曜日は、集会所が休みの日だった。そのため、自治会役員の自主的な活動として、役員が管理運営する「特例」の場として確保したようだ。また、金曜日は、集会所が本来は閉まっている「17時以降」という限定で、使用を認められた。もちろん、「自治会役員の管理の下」ということが条件とされた。
だから、「湘南プロジェクト」にかかわった自治会役員らは、毎週交代で、集会所の玄関を開けに来て、戸締りをしなければならなかった。たとえ戸締りだけであったとしても、週2回の計4時間は、日本語教室の活動に拘束されるのだ。このような彼らの地道な努力の上に、会場はかろうじて確保されていたのである。住民の反発が強い状況の中、彼らは身を挺して、日本語教室の維持に陰ながら尽力していたのだ。
先にみたように、日本語教室が「団地祭」に参加した「プロジェクトワーク」の時も、実は、団地自治会からこのようなことが注意されていた。「中国人が餃子を作るのはいいが、売るのは日本人にして欲しい」ということだった。「団地祭」の出店者会議の場で、中国人が売るということに対し「うーん」という反応があったという。日本語教室の初めての試みでもあるので、慎重に、ワンステップおいて、団地の人々に受け入れてもらおうという提案がなされた。実際に、祭りの当日は、外国人はなるべく裏方に徹し、新原先生や社協の職員がメガホンを持って呼び込みを行い、主に日本人が「売り子」を担当した。
このように、いくつかの記録を振り返ってみると、蔵田先生を中心とした日本語教室は、外国人をとりまく団地の状況に対し、少々、想像力が足りない部分があったのではないかと感じる。私自身も日本語教室のボランティアとして活動していたが、活動に熱中すればするほど、盲目的に日本語教室のことだけに集中していってしまったことを、反省しながら思い出す。
日本語教室が、周囲の状況に対して鈍感でいられたのは、直接、差別的な言葉を投げられたり、クレームを受けたりといったことが、一切なかったからだろう。日本語教室の活動で嫌な思いをしたことは、一度も無かった。だがそれは、団地自治会や民生委員らが「盾」となって、外圧から日本語教室を守ってくれていたからでもある。日本語教室で活動する私たちの耳に入らないように、クレーム処理を、一手に引き受けてくれていたからなのだ。
日本語教室に向けられる「白い目」に対して慎重に動こうとする団地自治会と、守られた空間の中で「プロジェクトワーク」の成果を一つでも出さねばと躍起になっている日本語教師らは、次第に歩調が合わなくなっていく。徐々に、日本語教室のスタンドプレーが、目立つようになっていった。
5.地域に寄り添うということ
記録を追っていくと、日本語教師のスタンドプレーを牽制する動きは、1999年9月頃から多くなっている。1999年9月13日に行われたミーティングの記録を見返してみよう。
その頃には、「湘南プロジェクト」に新しい協力者が増え、団地に住む元民生委員や教員、元団地住民の市議会議員なども参加するようになっていた。中心メンバーは変わらず、社協の国武さんと新原先生、団地自治会役員、民生委員、ボランティアの住吉さん、そして日本語教師たちだった。
ミーティングでは、蔵田先生がこんな話をもちかけた。他地域で活動しているボランティア団体が、湘南団地の外国人の就労支援をしたという。その支援は大変「きめ細かく」、一緒に職安に通ったり、通訳を探したりといったサポートであったという。支援を受けた外国人は、団地の日本語教室に定期的に通ってきていた男性であった。日本語教室としては、そうした相談をもっと教室で拾い上げられるシステムを作り、「湘南プロジェクト」全体でサポートしていきたいということだった。
当時、生活の相談に関しては、団地自治会や民生委員、そしてボランティアの住吉さんが担当していた。日本語教室の学習者から相談が入ることもあり、そうした際は、すぐに民生委員らにつなげて対応してきた。蔵田先生が言いたかったのは、こうした活動を、もう少しシステム化したり、外国人に周知したりして、活発化させてゆきたいということだったのだろう。
それに対して、民生員の播戸さんが答えた。
「地域の民生委員も団地自治会も、そのボランティア団体と同じことをやってきた。年間の相談件数は10件以上になるが、『きめ細かい支援』も、年間5件くらい対応している。そういう今までの相談窓口と、日本語教室での相談を、分断して行っていくということですか?」
日本語ボランティアの安部さんが、蔵田先生の話を補足しながら返事をした。
「そうではなく、日本語教室に相談事がもちかけられたら、民生委員や相談員につなげてゆくことは今までと変わりません。けれど、そうした相談窓口の存在を、皆が知らないことは問題だと思います。窓口があるということを、『ちょろちょろ』とでもいいから、出していかないと。そういう仕組み作りができたらいいという話です。」
相談活動に従事してきたボランティアの住吉さんが、なぜか険しい顔で口を挟んだ。
「我々のように外から来ている者は、いずれ出ていかないといけない。そういうことは、地域の人たちが自分たちでやっていかないといけないことでしょう。」
論点がずれているのは、明らかだった。しかし、日本語教師たちからの提案が、他のメンバーに受け入れられていないという空気は伝わってきた。以前、湘南地区で民生委員をやっていた女性が、こう答えた。
「もし、日本語教室に相談が入ったら、私たちのような団地住民に言ってくれればいいです。まずは、情報を流してくれないと。私たちで情報をまわして、対処してゆきますから。」
団地自治会国連部長の沢井さんも、言葉をかぶせるように、こう言った。
「相談事は、団地に住んでいる、私たちの方に伝えてくれたらいいです。」
さらに、元民生委員の女性が、日本語教室に対しての「苦言」とも思える言葉を付け加えた。
「日本語教室は、外国人を集めるための『手段』だと考えていました。教室が楽しければ、人が来る。人が来れば、どんどん情報が広がり、支援の輪ができていくと思います。だから、日本語教室は、そういう楽しい場としていくことが、大切なのではないでしょうか?」
改めて記録を読み返しても、「かみ合わなさ」が目立つやりとりである。日本語教師は、「湘南プロジェクト」の相談窓口をもっと有効活用したいと提案しただけであるが、思いのほか、強いカウンターをくらった。団地住民側の「言われなくても、ずっと『きめ細かい支援』をやってきた」「外部から来ている人間が、口を挟まないで欲しい」という感情が伝わってくる。
実際に、「『きめ細かい支援』をしてきた」と話す民生委員の播戸さんが立ち会っているケースとは、具体的に、このようなことだ。ラオス人の女性が、婚約をして彼女の名義で団地に入居してきた。夫婦で働いていたが、夫は観光ビザで5年滞在していたことが露呈し、強制送還のため入国管理局に収容された。女性は臨月であり、出産のため仕事を辞めた。失業保険はあと3ヶ月で切れてしまう。夫が収容されて、自治会の「外国人のリーダー」に相談したが、対応できないと言われ、地区社協に相談した。地区社協から、出産のための市民病院と、地区の民生委員播戸さんのところへ、連絡がきた。その後、主任児童委員が病院の付き添いを行い、播戸さんが入管に付き添って、旦那と面会を行った。また、前年度の収入があるため、すぐには難しいが、生活保護が受けられるように役所との交渉を続けている。
播戸さんは、このようなケースを話す度に、「ここまで大事になる前に、なぜもっと早く言わんかったと思うよ」と、苦笑いしながらよく言っていた。時々、「なんでこんなになるまで黙っとった。プライバシーどころの騒ぎやない!」と怒りつつも、相談事というのはなかなか表に出てこないこと、口には出しづらいことを肌感覚として知っていた。そうした「声にならない声」の存在について、とても敏感だった。播戸さんは、そのような相談事を、根気強く丁寧に聴いてきたのだ。それに加えて、外国人をよく思わない住民らへの配慮も必要だった。外部からの攻撃に対しては盾になりつつ、困りごとを抱える人に寄り添って、「きめ細かい支援」をしてきたのである。
このミーティングで、日本語教室からの提案に「団地に住んでいる私たちに情報を流してくれればいいから」と反応した人々も、播戸さんと同じような経験を、少なからず持っていたことと思う。
自分が何に困っていて、誰にどのように相談をしたらよいのか分からない人々は沢山いる。だから、日本語教師の提案のように、「相談窓口」を広く周知したとしても、相談事がどんどんやってくるということはない。むしろ、狭い団地のつながりの中で、一つでも問題があることが露呈したら、周囲から「白い目」で見られることだってある。「外国人」なら、なおさら、周りに気を配らないといけない。こうした不安を抱え自分の問題を言葉にできなくて困っている人々こそを、丁寧に支援する必要がある。そのようなことを、団地で相談活動をしてきた人々は、言いたかったのだと思う。
ここで、冒頭で紹介したミーティングにて、蔵田先生がしていた発言を、今一度、思い返してもらいたい。蔵田先生は、生活相談について、このような発想を持っていた。
「バラバラに『今日は相談の日』などとしないで、日本語教育の中で、その相談を一緒に考えながら、外国人が自立していけるようにしたいと思っています。生活相談の窓口が欲しいなら、学習者にその場の設定を考えさせるようにする。日本語の交渉の仕方を学んでもらう。日本人が用意したものではなく、自分たちで獲得する試みが大事になってくると思います。そのような日本語教室にしていきたいと思っています。こうしたことを、『プロジェクトワーク』を通して学んでいってもらえたらと思います。」
当時の私には、蔵田先生の発想は斬新に思えた。だが、その内容をよく考えてみると、本当に困りごとを抱えている人が、先生が思い描くような「プロジェクトワーク」に参加できるだろうか。悩み事が何なのかを認識することも難しいのに、それを慣れない日本語で言語化し、クラスで共有するという。本当は黙っていたい苦しみを、クラス活動の題材にしようと言うのだ。ともすると、暴力的に作用してもおかしくない発想である。
全てのことを「プロジェクトワーク」にしてしまうことで、「声にならない声」は、簡単にかき消されてしまうだろう。長年「声にならない声」に耳を傾けてきた民生委員らの努力も、一瞬で台無しにしてしまうかもしれない。
「湘南プロジェクト」は、このような団地の状況やこれまでの経緯に、できるだけ寄り添った形での活動を模索してきた。そのため、その方向性と異なる日本語教室は、次第に、他のメンバーとの食い違いが目立つようになり、ぶつかるようになっていった。
ただ、「湘南プロジェクト」の成り立ちをたどってゆけば分かるように(第1回~第12回参照)、そもそも「湘南プロジェクト」は、互いに想いや考えが異なる人々がぶつかり合いながら、信頼を培って作られた集まりでもある。だから、もちろん、日本語教室とも、辛辣に意見を言い合いながらも、一緒にやっていこうという姿勢を持っていた。
ここで今一度、冒頭で紹介した会議にて、新原先生が蔵田先生に、「ミーティングを大切にしてもらいたい」と言っていたことを、思い出したい。ズレを含んだ形でも、なんとか方向性を見つけ出して一緒に動いていくためには、ぶつかり合いのできる「ミーティング」が、とても大切な場だということが分かるだろう。「中心」を決めて、一つの方向だけに集約させていくような「プロジェクト」だったならば、もっと早い段階で日本語教室は終了となっていたかもしれない。そうならないために、「湘南プロジェクト」は、ミーティングを定期的に開いて、議論を交わした。メンバーは皆、仕事の合間をぬうように、または休日を返上してミーティングに集った。1999年4月~2000年3月の2年間で、30回近くミーティングがもたれている。
しかし、2001年3月、蔵田先生を中心とした日本語教室は、湘南団地から撤退することになる。蔵田先生が、家庭の事情を理由に、退任の意思を表明したと記憶している。ただ、外国人学習者に対しては、「お金が無くなったから、仕方がない。もし、私を日本語教師として雇いたいのであれば、自分たちでそういうお金をとって、手紙をください。そのようなことができる力を、あなたたちに教えたつもりだ」と言って、蔵田先生は引退していった。
教師の引退は、対外的には「プロの日本語教師を雇う資金が調達できなかった」ということで説明されていた。しかし、本当の理由は、これまで見てきたように、違うところにあったと考えている。「水を与えるのではなく、井戸を掘る方法を教える」という理念を掲げた日本語教室であったが、日本語教師たちには、湘南団地の「水が合わなかった」のだと思う。
[© Kanae Nakazato]
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