1.日本語教室の新しい「担い手」探し
湘南プロジェクトは、2001年4月から、活動の拠点を移した。これまで、団地集会所の改装のため、プレハブの仮設集会所を使用してきたが、新しい会場の準備が整った。改装された集会所は、まだリフォーム後特有の匂いがしており、白い壁のホールや和室は広々と清々しかった。
会場の引っ越しに合わせるかのように、「湘南プロジェクト」の活動も、新しい局面を迎えていた。これまでの「湘南プロジェクト」は、「日本語教室」「子ども教室」「生活相談」の三本柱だったが、日本語教師の引退(第16、17回参照)に伴い、新年度からは「子ども教室」「生活相談」のみとなった。湘南団地の日本語教室は、新しい「担い手」の準備が整うまで、一時的に休止という形をとっていた。
この頃の空気感をもう少し正確に表現すると、日本語教室の再開まで、できるだけ慎重に多くの時間をかけようという感じだった。「適切な人材と状況が整わない限りは休止でよい」「焦って再開することを目的としない」という空気感が漂っていた。事を急げば、かつてプロの日本語教師が展開したような、「教師主導」の場(第17回参照)の「焼き増し」となるだろう。同じ事を繰り返すくらいならば、いっそ日本語教室は閉室しようという発言も耳にした記憶がある。
ただ、これまで日本語教室に通ってきていた外国人は、教室の早期再開を望んでいた。日本語教師の引退が決まった時、教室の存続についてヒアリングを行ったが、学習者は皆、口を揃えて教室を続けて欲しいと訴えた。
これまで日本語教室で活動してきた私は、こうした外国人の声に、なるべく迅速に応えたいと思った。だから、「日本語教室の再開は慎重に検討しよう」という「湘南プロジェクト」の方針には、もどかしさを感じてもいた。
ここに、一つの記録がある。新原先生が残していた議事録だ。この記録に触れるなり、私は当時の記憶をより鮮明に思い出した。2001年の年度末に、プロの日本語教師である蔵田先生とそのアシスタントの安部さん、新原先生と私の4人で、今後の日本語教室に関する話し合いをした。日本語教師たちは、自分たちが去った後の教室について、緊迫した面持ちで意見していたが、新原先生はその圧力を受け流すかのように返答していた。議事録を補足しながら、できる限りその様子を再現してみる。
2001年3月9日 日本語教室についての話し合い
新原先生:4月以降の教室を具体的にどうするのか話し合いたいと思います。蔵田先生の「引継ぎの場」という意味も含めて、ボランティア養成講座を行い、人材を集めてもよいと考えています。湘南市で、既にボランティアをやっている人たちに声をかけようと思います。具体的には、湘南市国際交流協会の日本語ボランティア代表である渡辺さんに、声をかけることを検討しています。もし渡辺さんにお願いすることになれば、渡辺さんたちのやり方をしてもらうことになるでしょう。その場合には、ボランティア養成講座は必要なくなるかもしれません。
蔵田先生:ボランティアをコーディネートする人が必要だと思います。すべての個人が理念を共有する必要はなく、何か問題が起こった時に、コーディネートする人が上手く回していくイメージです。
安部さん:学習者とボランティアそれぞれの、個の力を引き出すような人が必要だと思います。
蔵田先生:湘南市の住民であるという点では、国際交流協会の渡辺さんは条件に合致していると思います。後は、理念や方向を共有しうるか確かめられるといいですね。新しく来たボランティアさんに、これをやって欲しいという教材などは特にありません。今までの教室の内容を伝える役割は、中里さんにお願いします。
新原先生:では、渡辺さんたちが引き受けてくれるとなった後、ボランティア養成講座をするか否か検討し、スケジュール等を調整していきます。
蔵田先生:今までは「湘南プロジェクト」から依頼されて、日本語教室を運営してきました。今後は、渡辺さんらに全てを任せるのか、それとも、私が「湘南プロジェクト」と渡辺さんたちの間を調整する必要があるのかどうかお聞きしたいです。これまでの日本語教室は、日本語教育が目標ではなく、結果として日本語が身についていくような社会教育的な方向性を模索してきました。そうした方向性と、渡辺さんたちの教室の雰囲気とはまた違うかもしれません。今後、ボランティアが中心となって状況が悪くなった時に、その場に来ている学習者たちの声を聴けるコーディネーターが必要になると思います。4月以降に問題が生じたときの準備として…
(補足:これについて具体的な返答はなかった)
中里:渡辺さんたちと、日本語教室を一緒にやらせてもらいたいと思ったのは、教室の運営の方向性をともに考えていけるのではないかと感じたからです。
新原先生:今後大切なのは、湘南団地の人たちから「ほしい」という言葉が出てくる前に料理を出す状態にしないことです。まずは実情を話して、協力を頼む。団地の人たちといっしょにまずい料理を作る。中里さんは、外国人や学習者に対しても、「あたしすごく困っている」という話をすることが大事です。
まとめ:
・まず渡辺さんに話す
・引継ぎの場として養成講座を考える
・教室をやるという約束はしたので、どういう形でやるかを学習者と一緒に話していく。半分は責任をもってもらう
この話し合いの中に出てくる渡辺さんとは、当時、湘南市国際交流協会の日本語ボランティアで代表をしていた男性である。市社協の「在住外国人生活支援活動研究委員会」の委員であった小野寺さん(第3回参照)の後任だ。
渡辺さんは、蔵田先生が講師であったボランティア養成講座の卒業生でもあり、湘南団地の教室にも度々見学に来ていた。また、私自身も、渡辺さんが運営している日本語教室を手伝っていたつながりもあり、湘南団地の新しい「担い手」候補として名前があげられたのだ。
この日の話し合いは、「渡辺さんへ打診をする」ということでまとまった。ただ、この話し合いの記録から、蔵田先生は、引退後も引き続き「日本語ボランティアのコーディネート」をする形で、「湘南プロジェクト」への責任を果たそうとしていたことがうかがえる。
しかし、その提案への具体的な回答はなされなかった。「コーディネート」とはいえ、かつてのように「力のある一人の教師が教室を強力に導いていく」という図式に戻ってしまうことが懸念される内容だったからだろう。
当時の日本語教室は、そうした図式の引力を、慎重に回避しなければならない状況にあった。蔵田先生らの求心力により、一度は「日本語教師中心」となってしまった教室を、学習者が主体となるような教室へと軌道修正していく段階にあったのだ。この記録の「まとめ」の一文にあるように、「どういう形でやるかを学習者と一緒に話していく。半分は責任をとってもらう」という方針が、「湘南プロジェクト」の真意だった。
そうした観点から振り返ってみると、この話し合いで決まった「渡辺さんへの打診」も、本当は、もっと慎重に検討したいところだったのではないかと思う。渡辺さんのように、蔵田先生の養成講座を受講した日本語ボランティアは、少なからず蔵田先生の影響を受けており、蔵田先生と似たような教室を作ることもあり得るからだ。
だから、この時の話し合いの中で、実質的に最も重要だったのは、最後に新原先生が述べた、「『あたしすごく困っている』という話をする」だったのではないかと思う。新しい「担い手」候補の渡辺さんを頼りにするよりも、まず外国人に向けて「あたしすごく困っている」と現状を訴えていくことの方が、優先されるべき事項だ。そのように訴えることで、外国人の人たちと一緒に場をつくっていく流れができると、新原先生は言いたかったのだと思う。
2.新しい「担い手」候補への打診
こうした新原先生や「湘南プロジェクト」の方針をよそに、当時の私は、新しい「担い手」との連携を迅速に進めて、湘南団地の外国人たちに、いち早く「よい知らせ」をもっていきたくて仕方なかった。そのため、「あたしすごく困っている」と外国人に話せと言われても、正直、ピンと来ていなかった。日本語教室に独りとり残され、困っていたことは確かではあるが、「渡辺さんたちが来てくれたら問題は解決するのに」と考えていた。
その後、新しい「担い手」候補である渡辺さんへの打診は、3月11日に行われた。これは、蔵田先生たちとの話し合いから2日後のことで、非常にスピーディな展開だった。
新原先生と私で、渡辺さんのもとを訪ねた。新原先生が「湘南プロジェクト」について話し、私も日本語教室の経緯を説明した。渡辺さんは、湘南プロジェクトの状況に耳を傾け、団地での活動が可能かどうか、ボランティア仲間に相談するという返事をくれた。
渡辺さんが所属する湘南市の国際交流協会では、その当時、既に6つの日本語教室を運営していた。もし、渡辺さんらが「担い手」を引き受けてくれるなら、団地の教室も、国際交流協会の活動と関りができることになる。かねてより、団地の自治会や外国人は、湘南市による支援を望んでいたから(第4回~6回参照)、これが実現すれば、市の交流協会が団地に関わるよい機会になるのではないかと感じた。
また、何よりも、渡辺さんが「湘南プロジェクト」に興味を持ってくれている印象だったので、期待に満ちながら返事を待った。
ところが、渡辺さんからの返事は、すぐにはもらえなかった。月末にも返答は無く、とうとう年度を越えて、「湘南プロジェクト」は2001年度の活動初日を迎えてしまった。私は、結局、団地の外国人たちに「よい知らせ」を持って行くことができなかった。
活動初日、少しがっかりしながら、湘南団地に向かった。改装されたばかりの団地集会所の玄関を開けると、新築の匂いがただよってきた。「集会所がこんなに新しくなったのに、日本語教室はもうないんだ」と、どこか「むなしい気持ち」に襲われたことを、今でもはっきり覚えている。
3.「あたしすごく困っている」からの再出発
年度初めの活動日である2001年4月16日、用事があった私は、開始時刻よりも少し遅れて団地集会所に到着した。どこか寂しさと虚しさを感じながら、賑やかな声がするホールに向かった。
ホールの扉を開くなり、私は目の前の光景に目を疑った。日本語教室は休止と伝えられていたはずなのに、かつての日本語の学習者3名が、ホールの片隅に机を並べて座っていたのである。
集会所のホールは、元気いっぱいの子ども達や生活相談に来た外国人でごった返していた。そんな中、ホールの片隅に、ポツンと座っている日本語教室の学習者たち。私は慌てて彼らに駆け寄り、「なんで、どうしたの? 日本語教室、今日はないよ?」と言った。私の顔を見ると、彼らは少しホッとした表情になった。そして、「日本語の勉強をしにきました」と、笑顔で答えた。
その日の日誌が残っている。
2001年4月16日 今日の湘南メモ
日本語教室?に来た人:ベトナムのアミさん、Sさん、カンボジアのオー兄弟
アミさんは、自分で持ってきた「日本語検定2級」のテキストを自習。
Sさん、オー兄弟と少しだけテキストを勉強したところ、動詞、形容詞などの活用は未習のようだった。あえてレベル分けすれば、日本語初級の前半になる(→必要であればそれらのテキストを探すこと)。そのうちに、漢字の勉強に興味があることが判明し、その後、漢字の勉強に移る。
この日、集会所のホールは、徐々に騒がしくなっていった。新しい会場に興奮した子ども達が、いつもよりも元気に過ごしていたからである。さすがに日本語の勉強ができる環境ではなくなり、急遽、集会所の和室を借りて、日本語を勉強したい人たちと場所を移動した。
和室では、上の記録にあるように、皆、テキストの自習や漢字の勉強をしていた。この時、学習内容が漢字などになっていたのは、単純に、私に日本語を教える力が無かったからだ。皆はそんな私に気を遣って、自習できる内容に取り組んでくれていたのだと思う。
彼らが配慮してくれていたにも関わらず、それでも私は「てんてこまい」であった。これまでの日本語教室のように、事前に準備した教案や教材などは何も無く、何をどうしたらよいのかと右往左往していた。3名の外国人から質問されることに、なんとか答えながら、自習を見守るだけで精一杯だった。
このような、決して「日本語教室」とは呼べないようなこの空間について、この日の日誌では、「日本語教室?」と表記している。2001年度からの「日本語教室?」は、図らずも「あたしすごく困っている」からの再出発となった。私としては、新しい「担い手」と一緒に、もっと計画的に教室を再建していくことを思い描いていたのだが、物事は全く真逆の方向に動いていた。
ただ、この日の日誌には、「あたしすごく困っている」状態の中で、私が気づいたことも記されていた。「日本語教室という枠組みを外して見えたこと」という表題をつけて、箇条書きとなっている。
日本語教室という枠組みを外して見えたこと
・カンボジアのオー兄弟は、昨年の9月に来日。弟は中1、兄は中3。昨年から日本語教室に通ってきていた。弟は特に、子ども教室に来ている男の子たちと仲が良く、そちらに気を取られながらも、日本語教室にいようとした。なぜか。
・兄の方は、たあいのないおしゃべりの中で、私が日本語よりも英語を教える方が得意だと思ったようで、英語をもっと勉強したいと漏らした。なので、今後は英語のテキストを持ってくるようにと言ったら、来週は修学旅行で来られないが、次は旅行のお土産をもってくると、楽しそうに答えた。日本語教室にいながらにして、英語の方を勉強したいと言った理由はどこにあるか。私が「子ども教室なら英語が勉強できるよ」と言わなかった理由はどこにあるのか。
この日誌に出てくるオー兄弟は、カンボジア出身だが、カンボジア難民として来日したのではない。戦況のさなかに難民として逃れてきた人たちの、配偶者や子どもという立場で移住をした、所謂「呼び寄せ家族」だった。難民は来日直後、「難民定住促進センター」などで日本語や生活についてのサポートを受けられるが、「呼び寄せ家族」はそうではなかった。日本で暮らす親族だけを頼りに、自力で日本語を学び、生活に馴染んでいく必要があった。
当時の湘南団地には、オー兄弟のような「呼び寄せ家族」のほか、1990年の出入国管理法の改正により「出稼ぎ」にやってきた日系人も多く、外国人住民の来日年数は、それぞれに異なっていた。十数年前に日本に来たというインドシナ難民がいる一方で、オー兄弟のように来日して数年だったり、より短くて数ヶ月という人々も多く暮らしていたのだ。
「外国人」と一言でいっても、一人ひとり、来日した時期もその背景も異なっていた。また、こうした違いが、先の日誌にあるように、それぞれの「居場所」の選択に影響を及ぼしていたのだと思う。例えば、オー兄弟は年齢で考えると「子ども教室」に通うのが妥当であったが、実際には「日本語教室」を「居場所」として選んでいた。
当時、「子ども教室」に通ってきていた子ども達は、幼少期から日本で暮らし日本語が「第一言語」である子どもが主だった。そのため「子ども教室」では、日本語のフォローというより、日本語ができることを前提とした他教科の補習がメインに行われていたのである。だから、オー兄弟のように、日本語の能力に不安のある子ども達は、「子ども教室」には行かずに、「日本語教室」に通ってくることが多かった。
オー兄弟は、「子ども教室」の子ども達と同じ中学校に通っていることもあり、とても仲がよい様子ではあった。しかし、彼らは、日本語の習熟度という部分で友人らと一線を画し、「日本語教室」を「居場所」として選んでいたのだと思われる。
まずは日本語の能力を上げたいという向上心もあったと思うが、日本語ができないことで悔しさや寂しさを感じたりしたこともあったことだろう。「子ども教室」の子ども達も、そんな彼らの胸中を察してか、たまにちょっかいを出しながらも、温かく見守っていたように感じる。
さて、日誌の続きに話を戻そう。
・アミさんとSさん(21歳)は、友人同士らしい。Sさんは妊娠2ヶ月で、まだ医者にいってない。今はまだ健康なので、4ヶ月くらいになったら行く予定である。アミさんは母子手帳のことなどよく分かっているので、今後の出産にあたり、Sさんの助っ人になるだろう。今まで彼らの関係は、「上のクラス」「下のクラス」とわかれていたため、不可視になっていた。→グレーゾーンで垣間見える関係がある
ここでの「グレーゾーン」というのは、私の感覚を表現した言葉だ。これまでの教室で私は、日本語のレベルによって外国人学習者を識別していた。アミさんは「上のクラス」の人で、Sさんは「下のクラス」の人であると無意識に識別し、その両者の間にある日常的な友人関係には、ほとんど無関心であった。
彼らとはこれまでも親しくしてきたが、それは日本語の習熟度別にカテゴライズされた「学習者」として接していたにすぎない。団地で生活している生身の人間としての彼らに触れた時、私は自分の中のカテゴリーが崩れ、目の前に、これまで知らなかった世界が広がった感覚を覚えた。そのように、認識の枠組みが崩れて新しく見えてきた景色を、まだ自分の中で整理がつかないという意味も込めて「グレーゾーン」と表現したのだ。
私が「グレーゾーン」と表現したように、この日の教室は、「日本語教室」や「学習者」、「上のクラス」「下のクラス」といった枠組みはなく、その場に集った人たちが、机を並べて、思い思いに自習するだけの場であった。一応、日本語の勉強という目的はあったものの、勉強の合間に、互いの国の言葉を交えながらぺちゃくちゃと「おしゃべり」をする空間だった。
しかし、このような「おしゃべり」の場において、これまでプロの日本語教師のもとで勉強していた外国人たちの、新たな顔や関係性が見えてきたのだ。私は、当時、そのことの意味をはっきり理解してはいなかったけれど、何か大切なことが起こっているのではないかと、察知した。日誌の続きにはこうある。
・あえて、グレーゾーンの中に入り込むことによってしか、見えないものがあるのではないか。この状態を、先を急いで、システマティックな状態に移行していくことには、ものすごい抵抗を感じてしまった。私は今まで、グレーゾーンに居続ける時間を、おそろしいほどとってこなかった。
これまでの2年間の活動で、私は、蔵田先生のシステマティックな日本語教室に、殆ど違和感をもたないようになっていた。年間計画を立てて学習項目を決め、それにあった教授法を研鑽し、教案に従って授業を行うというスタイルは、その中で活動していると、一定の充実感が得られた。
しかし、この日誌にあるように、そのようなスタイルの教室を2年間続けたことで、「見えなくなっていたもの」が確実にあったのだ。週2回の2時間、2年間も顔を合わせていたにも関わらず、通ってきていた外国人たちについて、知らないことが沢山あった。
「日本語教室?」にて「あたしすごく困っている」状況となって初めて、彼らの見知らぬ顔に触れ、そうした顔をこれまで一度も知ろうとしてこなかった自分に気づいた。何か大事なものを見逃してきたような気がしてならなかった。
4.国際交流協会の団地訪問
私が「日本語教室?」にて右往左往していた頃、「湘南プロジェクト」全体では、今後の活動の方向が決まる重要な選択がなされようとしていた。
それは、2001年4月17日、18日に起こった出来事だ。活動の初日が4月16日だったから、その翌日のことである。この出来事については、直接的なかかわりは無かったので、新原先生や国武さんから事後的に聞いた話をもとに再構成してみる。
まず、17日に、湘南市国際交流協会の渡辺さんから新原先生の方へ、団地の日本語教室について話し合いをしたいという連絡が入ったという。同日、社会福祉協議会の国武さんのもとへ、国際交流協会の協会長と、新任の協会長代理がやってきた。続けて翌日の18日には、国際交流協会の両名と渡辺さんが、湘南団地自治会の役員たちのもとを訪れた。
このような突然の訪問に対し、「湘南プロジェクト」は、事前の打ち合わせが全くできなかった。そのような中、国際交流協会との話し合いは、以下のようにまとまったという。国際交流協会の渡辺さんから送られた、新原先生宛のメールの一部を引用させてもらう。
2001年4月21日
その後、交流協会事務局に連絡をしたところ、4月18日に団地の方と話し合いをするということで、私も出席してきました。自治会からは、
連合会長 清水氏
国際部長 沢井氏
事務局長 安斉氏
の3人の方が参加しました。
話し合いの中ではっきりしたことは、
(1)団地自治会として、日本語教室を今後も続けたいこと。
(2)運営については社会福祉協議会からの補助金を受けることができたこと。今後もこの形で進めること。
(3)日本語指導者としては、団地に住む外国籍住民の中で、ここで成人になった青年をとりこんで運営するビジョンをもっていること。
したがいまして、交流協会として湘南団地内に新しく日本語教室を開設することではなく、まずは再開される日本語教室で指導者スタッフを募集していることを会員の皆さんに伝え、参加者を募ることで協力することが第一のようであるとの感想でした。自治会の皆様にも、今後連絡を取り合いながらできるところで協力したい旨、お話して了解を得て帰りました。とりあえず4月21日に「日本語教室全大会」が開かれますので、その場で報告をし、あわせて指導者の募集を呼びかけたいと思います。
これは、実質上、渡辺さんからの「断り」の返事でもあった。指導者の募集は呼びかけても、渡辺さん自身が、団地の日本語教室に関わる意思は無いようだった。渡辺さんの文面からは、国際交流協会側がイメージしていた参入の仕方と、「湘南プロジェクト」が求めていたものの間にズレがあったことがうかがえる。そのズレが、渡辺さんの返事を決定づけたように思う。
これはあくまでも推測であるが、渡辺さん含め国際交流協会は、「湘南プロジェクト」からは独立した日本語教室の開設をイメージしていたのではないだろうか。交流協会が既に運営している6つの教室の、第7番目の教室として、湘南団地の日本語教室を運営するというイメージだ。これは、社会福祉協議会が中心に進めてきた事業の一角に、湘南市が参入するという図式である。
こうなると、ボランティアレベルではなく、予算など含めて組織レベルでの調整が必要になってくる。そのような必要性から、交流協会の協会長らが、社会福祉協議会と団地自治会への訪問を行ったということではないだろうか。
一方、「湘南プロジェクト」が求めたのは、「子ども教室」や「生活相談」といった他の2つの柱と歩調を合わせながら、一体となって活動する日本語教室の形だ。団地が「生活の場」であるという特性を考慮しながら、日本語教室を運営できるような人材を探していた。また、プロジェクトの母胎である社会福祉協議会との関りの中で活動することは、今後も変わることはない。
同様の内容は、最初に渡辺さんへ打診する際に、詳しく伝えたはずだった。しかし、団地の状況や「湘南プロジェクト」の経緯などは、一見して理解できるような内容ではなかったのかもしれない。
[© Kanae Nakazato]
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