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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第21回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(後編・1)

    1.「湘南プロジェクト」の地域への広がり

     2001年5月、湘南団地の外国人たちは、「湘南団地日本語教室」を創出した(第19回、20回参照)。しかし、教室が刷新される一方で、かつての日本語教師を呼び戻そうとする「揺り戻し」の動きも起こった。この「揺り戻し」によって、「湘南団地日本語教室」は、様々な心の機微を体験することになる。だが、この話をする前に、日本語教室をめぐる周囲の状況や「湘南プロジェクト」全体の動きについて、少しまとめておきたいと思う。

     この時期は、外国人たちの動きに吸い寄せられるかのように、団地近隣の住民たちが「湘南プロジェクト」に新しく加わっていった。それはまるで、つむじ風が吹いて「吹き溜まり」が徐々に大きくなっていく様子に似ていた。「湘南プロジェクト」は、じわりじわりと地域社会に広がっていった。

     「湘南プロジェクト」の広まりについては、国際交流協会とのやりとりが、その具体例を示してくれる。湘南市の国際交流協会は、ボランティアを中心とした日本語教室を、地域に6か所展開していた。前述したように、団地の日本語教室が刷新される際、この協会のボランティアに協力を求めた(第19回参照)。結果として、直接的な協力関係には至らなかったが、その後も、ゆるやかな関係は続いていた。

     国際交流協会の「窓口」の役割を担っていたのは、当時のボランティア代表である渡辺さんだった(第19回参照)。渡辺さんは、団地の外国人たちがチラシを作ってボランティアを募っていることを知り、以下のような便りをくれた。

     

    新原様 中里様

     5月25日付けのメールを感慨深く読ませていただきました。学習者の皆さんが中里さんのお世話の中で、自主的に教室再開に向け動き出しておられる様子を知るにつけ、なかなかきちんと援助できないことに申し訳なく思っています。

     ところで、国際交流協会でも「湘南団地日本語指導ボランティア」のチラシを作って会員などに配布しようと準備を進めているところです。湘南団地では皆さんがチラシをすでに作り上げていられるようですので、そのチラシをいただきたいのですが。28日の月曜日に団地にいらっしゃるのでしたら、とりに伺います。

     

     この便りにある「28日」とは、2001年5月28日のことで、外国人が「チラシ」を完成させた翌週のことだ。団地での動きに対して、すぐにリアクションをくれた渡辺さんに、私は少なからず「励まし」をもらった気がした。しかし、28日は集会所が住民の葬儀に使われる関係で休みとなり、国際交流協会が団地に来たのは6月4日だった。

     この日、渡辺さんは都合で来られなかったが、国際交流協会の協会長と湘南市の国際室室長が団地にやってきた。彼らは、「チラシ」を受け取りに来ただけではなく、イベント企画の話も持ってきていた。団地集会所で、市役所主催の「生活相談会」を開きたいという内容だった。

     ほんの3年前までは、団地自治会が行政に支援を求めても、行政側が動くことは無かった。「公平性を考えると特定の地域だけに支援に入ることはできない」という理由からだ(第8回参照)。もし、その頃に、こうした行政からの申し出があったなら、団地の人たちは喜んで受け入れていたかもしれない。

     しかし、「湘南プロジェクト」が稼働してからは、団地の状況も変化し、住民たちが長期的な計画をもって、より自助的な活動に取り組むようになっていた。「湘南団地日本語教室」が新たに創出されたように、外国人住民たちも積極的に参加し、自主的で持続的な場の運営を模索している段階にあった。

     そのため団地自治会は、今回も、行政が持ってきた企画に賛同することはなかった。「今回も」というのは、少し前に、行政からの申し出を、団地自治会が断ったという経緯があったからだ(第20回参照)。「今回」の断りも、前回の理由と、ほぼ同じ内容だった。

     団地自治会は、「生活相談会」のような「単発」のイベントではなく、もっと日常に根ざした支援活動を求めたのだ。団地の人々の抱える問題というのは、生活上の問題が多くを占めていた。例えば、精神障害を患っている母親が、パチンコに依存して、子どもをネグレクトしているというケースなどだ。このケースでは、子どもの父親は、出身国に戻ってしまっていた。団地に取り残された母子家庭を支援するには、生活保護や医療機関との連携と、日々の見守りが必要となる。母親だけでなく、子どもへの継続的な支援も欠かせない。このような支援には、イベントのような形での「生活相談会」では不足であるというのが、団地自治会の考えだった。

     立ち上げから約3年間で「湘南プロジェクト」がしてきたことは、まさに、団地という生活の場に、継続的に寄り添っていける支援の在り方の模索だった。大事なのは、一過性のイベントや、かつての日本語教室のように、「専門家」が中心となる場を維持することではない。団地住民が自助的に、また長期的に相互支援をしていける場づくりこそが大事であり、その必要性を訴え続けてきたのだ。

     こうした「湘南プロジェクト」の方向性に対して、企画を持ってきた国際交流協会の会長と国際室の室長は、深い理解を示してくれた。その日、国際交流協会の会長は、日本語教室を少し見学した後、「皆さんの作ったチラシを是非いただきたい」と言って、外国人たちの「チラシ」を大切そうに持ち帰っていた。

     「チラシ」は後日、日本語ボランティア渡辺さんの手に渡った。渡辺さんは、国際交流協会の会員と「日本語ボランティア養成講座」の受講者に、手紙をつけて送付してくれたと聞いている。そして、この「チラシ」を受け取った人の中から、団地近隣に住む40代の女性が、名乗りを上げてくれた。彼女は早速、6月18日に「湘南団地日本語教室」に参加し、このようなメールをくれた。

     

     私は以前、日本語ボランティア養成講座に行っていました。でも2年前のことで、講座を受けた後も何もそういったことにたずさわっていなかったので、恥ずかしい話ですが、今はすっかり忘れてしまった… といった感じです。人前で教えるという経験もないので、少々戸惑う時もありますが、でも今、私自身とても楽しく参加させてもらっています。みなさんの様子をみながら、だんだんとうまく教えられるようになればいいなと思っています。

     

     ここで語られている「日本語ボランティア養成講座」とは、湘南市が定期的に開催していた講座のことだ。かつて団地に通っていた日本語教師の蔵田先生も、こうした講座の講師を務めていた。日本語ボランティアをやりたい人は、このような養成講座を受けるのが、当時の慣習となっていた。

     「チラシ」をみて団地に来てくれた女性は、講座のことは「今はすっかり忘れてしまった」と話していた。彼女は「うまく教えられるようになりたい」と語っていたが、養成講座での「教え」のように、緻密な教案を作って、プロさながらの教室活動を行いたいということではない。外国人から突然投げかけられる、「『させる』と『される』の違いはなんですか?」のような質問に、うまく答えられるといいな、というレベルの話だ。彼女は、日本語教育にこだわるよりも、教室に通う外国人の要望を辛抱強く聴き、彼らの「手足」となって動くことを優先する人であった。

     彼女のようなボランティアが団地に手伝いに来てくれるようになったという話は、単純に言えば、「『チラシ』を通してプロジェクトの活動が広まった」というエピソードに過ぎない。しかし、その内実をていねいに見ていくと、「湘南プロジェクト」と地域のボランティア、そして行政が、より団地の状況を理解し、団地に寄り添う方向で動いていくようになったという意味があった。この点は、強調しておきたい。

     例えば、ボランティアの例に限らず、国際交流協会の会長も、団地に来た時には、以下のように、とてもうちとけた表情を見せていた。「会長」という「立場」を越えて、目の前の子どもや外国人たちと触れ合っていた姿は、今でも強く印象に残っている。

     

    1999年2月5日

     子ども教室に来た男の子たちは、勉強道具を一切もっておらず、おもちゃのカードで遊びだしてしまった。仕方なく、「一回だけ」ということで、その遊びに付き合う。その後、子ども達は遊びに熱中して騒ぎ出し、収集がつかなくなった。その時、国際交流協会の会長がやってきて、私の横に座り、子ども達に話しかける。そして、おもむろに、そばにあった紙で、紙飛行機を折り出した。

     子どもたちは、「なんだかそんなの作って、自慢っぽい」と言っていたが、みんな興味をもって、「自分も作れる」と遊びだした。初めて、会長が、何かをしている姿を見た。その瞬間、彼の表情には「役人」の顔はなかった。子ども達との会話の中で、私は会長のことを「おじさん」と言ってしまった。「おじさん」と呼んでもかまわないような雰囲気がそこにあった。

     

     国際交流協会の会長はその後も、集会所を訪れた際には、単に見学だけをして帰ることは少なかった。日本語教室で手が足りない時には、外国人の勉強につきあったり、子ども教室の子どもたちと戯れたりと、「湘南プロジェクト」のあり方に寄り添ってくれていた。

     「湘南プロジェクト」の広まりは、一人ひとりの「顔が見える」形での、支援の輪の拡大を意味していたように思う。「公平性」に縛られて思うように動けない行政や、「養成講座」の「教え」通りにしなくてはならないと思っているボランティアも、これまでの慣習から一歩抜け出し、生身の人間同士の関わりとして、団地に寄り添う方向へ導かれた。

     湘南団地を訪れた人々は、「自分たちのやり方」をおしつけるのではなく、団地の声を聴きながら、生身の人間として付き合う方向へ、支援の姿勢がシフトしていった。「湘南プロジェクト」は、このようにして、地域社会にある人々の関わり方を変容させながら、広がっていった。

     

     

    2.「湘南プロジェクト」の方向転換

     前述した国際交流協会の渡辺さんとのやりとりの中で、プロジェクトの代表であった新原先生は、以下のようなメールを返している。

     

     この集会所に集う大人たちのここ一ヶ月ほどの動きには、本当におどろいています。その場で暮らす方たちが抱える困難に対して、「水を運ぶだけでなく、気が付いたら自分で水を探せるようになっていること、さらには自然な形で、自分の周りの人たちに、その水を探す方法を伝えていけるようになっていること」を目標にやってきました。これほど早くの芽生えを見ることができるとは思っていませんでした。なんとかいい形に持って行けたらと思っております。

     

     「水を運ぶだけでなく…」というくだりを読むと、かつて、日本語教師の蔵田先生がよく口にしていた、「水を与えるのではなく、井戸を掘る方法を教える」という方針を思い出す。日本語教師たちも、外国人たちが自立的に日本語教室を運営していけるようなプログラムを模索していた。だが、理念として掲げていることと、現実に起こっていることの間にはズレがあり、日本語教師は「湘南プロジェクト」から退陣することになった(第17回参照)。

     教師たちの退陣に合わせて日本語教室も休止することになったが、それを契機に、「湘南プロジェクト」も、活動の方向性を変化させていった。そして、その新たな方向性が、外国人による日本語教室の創出という「芽生え」を、後押ししたように思う。

     「湘南プロジェクト」がこれまでと大きく方向を変えたのは、「専門家には頼らない」という点だ。新原先生はこのことを、「スーパーマンのような人がやってきて、全てを解決するという方向ではなく…」と表現していた。「スーパーマン」を、「専門家」「大先生」「大家」「老舗」と言い換えて話すこともあった。

     新原先生は、高等教育で身に着けるような専門的な知識と、それを占有することによる権力の行使に関して、「常に敏感であれ」と注意喚起していたことを思い出す。この「専門家」には、職業的な立場や資格の有無に関わらず、例えば「ボランティア養成講座」で勉強をしたというような、なんらかの理論や知識を得た人々も含まれる。大学の学生であった私のような存在も例外ではなく、自らの立ち位置や姿勢を常に意識しながら動くように言われていた。研究者である先生自身も、研究の方法論を追究する形で、最も厳しく自分を律していたように思う。

     話を元に戻すと、「湘南プロジェクト」は、日本語教師などの「専門家」を中心とする形から脱却する方向に舵をきった。蔵田先生は高い専門知識を持ち、人を動かすことができる力のある人物だった。彼女のやり方を貫くことで、教室は一気に盛り上がりを見せ、短期間で一定の形にできあがった。まさに「スーパーマン」のような働きだった。けれども、そこからは漏れてしまうような人やことがらが出てきていたのも、また事実だった(第13回、17回参照)。

     「湘南プロジェクト」は、このような形を続けるよりも、皆が知恵を持ち寄って協力し合うような形の方が、団地に寄り添ったプロジェクトとなると考えていた。集会所に集う人々は、外国人支援や日本語教育に関しては「素人」であり、持っている知識や経験にも「偏り」や「欠け」がある。けれど、だからこそ、協力し合うこともできるのではないか。互いに持ち寄った、複数の視点や考え方が重なり合い、より一辺倒ではない場所が産まれていくはずだという考えだった。

     この方向転換は、資金面にも顕著に表れていた。例えば、日本語教室が本格的に始動した1999年度の予算案では、日本語教室に約134万、子ども教室や生活相談の事業に66万で、合計200万円の事業計画となっている。湘南市社会福祉協議会と民生委員児童委員協議会から助成を受けていた。その殆どが人件費にあてられ、「専門家」である日本語教師の賃金は1時間あたり6000円であった。

     そのような状況から、2001年度は一転し、4月の段階で決まっていた助成金は、合計50万円だった。その他、単発の助成金をとったり、活動費の一部を難民事業本部から補助してもらったりと、こまごまとした資金を組み合わせながら活動した。集まった資金は、子供向けイベントの事業費や、日常的な印刷費などに使われた。活動メンバーへの謝礼や交通費に関しては、この年からストップしたと記憶している。

     そのため、2001年度からは、賃金が発生する人材は、実質的に団地に通うことは難しくなった。逆に言うと、無償でも活動を続ける有志や、交通費がさほど負担にはならない近隣の人々が、「湘南プロジェクト」の主たるメンバーになる流れができた。プロジェクト初期の頃を支えたメンバーは皆、市外から通ってきていたが、この頃を境に、プロジェクトはより地域密着型に変化していったように思う。

     先に見た、国際交流協会のボランティアのように、近隣住民が通って来るようになっただけでなく、自治会や民生委員のつながりで、同じ地区に住む元民生委員や元教師、元団地住民である市議なども参加するようになった。湘南地区の小中学校や高校の先生らも、忙しい仕事の合間に、できるだけ顔を出してくれるようになった。誰もが特別な「専門家」ではなかったが、皆で知恵を持ち寄って、団地に寄り添ったプロジェクトを進めていこうという空気感がそこにはあった。

     

    3.「素人」により支えられた「芽生え」

     こうした方向転換によって、「すぐ」に何らかの成果が現れるとは、当時の誰もが予測してはいなかったのだろう。プロジェクトの代表である新原先生も、先ほどの手紙の中で、「これほど早くの『芽生え』を見ることができるとは思っていませんでした」と語っている。

     「芽生え」というのは、外国人たちによる日本語教室の創出のことだ。「湘南プロジェクト」の皆にとって、この「芽生え」は、大変喜ばしいことだった。そして、こうした「芽生え」の時期を、強力に下支えした人々がいたことも、ここに書き残しておきたい。

     団地の外国人たちは、日本語教師が不在の状況でも、日本語を勉強する場所を作ろうと動いた。その過程で、「湘南プロジェクト」の日である月曜日だけでなく、金曜日にも学習の場を増やそうという新たな動きも見られた(第20回参照)。その時の日誌をたどりながら、当時の様子を振り返ってみよう。

     

    2001年6月4日

     金曜日にも、誰か勉強を見てくれる人が欲しいという話になる。ペルー人のハンナさんは、「カンボジア人のソリンさんが来てくれたらいい。彼は日本語がよくわかるからね」と言う。カンボジア人たちは顔を見合わせ、「ソリンかあ」と日本語でつぶやき、カンボジア語で議論をする。ベトナム人でありながらカンボジア語も理解できるアミさんが、少し迷いつつ「子ども教室の先生はどうか。来てくれないか」と皆にもちかける。「それがいい」ということで、早速、子ども教室の人々に声をかけてみることにした。

     

     この話に出てくるカンボジア人のソリンさんは、20代前半の男性で、日中は仕事をしながら、夜間高校に通っていた。時々、「息抜き」と言って、日本語教室に顔を出していた。これは後に知ったことであるが、彼は、市社協の「委員会」に参加していたカンボジア人の西田さん(第3回参照)の息子だった。親子ともども、地域の活動に対して、とても意識の高い人々だった。ソリンさんは、日本語教室の刷新の時期に、積極的に集会所に来ては、色々と意見を出してくれた。

     上の日誌にあるように、ソリンさんのような日本語に長けた人物を、日本語ボランティアとして起用し、外国人同士助け合おうというのは、斬新なアイデアだった。だが、同じ国出身の人々にとっては、彼が皆よりも若いことや、同国人同士の人間関係もあるようで、その案は却下された。その代わり、子ども教室に通う日本人に、日本語教室への協力をお願いしてみる流れとなった。

     

     私が子ども教室の扉を開けようとした時、アミさんとSさんが、そっと私の横に一緒に立ってくれていた。子ども教室にいた大学院生がその様子を見て、「子ども教室の先生に何か用事があるなら、他の日本人にも全員集まってもらって、話した方がいいよ。集めてくるから待ってて」と動いてくれる。私も新原先生などに声をかけて、日本語教室の方に集合してもらった。

     

     こうして、子ども教室の日本人だけでなく、「湘南プロジェクト」の全員が日本語教室に集められ、金曜日の教室について話をすることになった。そして、日本人たちを前に、アミさんがすっと立ち上がり、緊張で声を震わせながら、日本語教室に手を貸して欲しいと訴えた。

     

     外国人の皆にうながされ、アミさんが立ち上がり、「月曜日は中里さんが来てくれます。でも金曜日も勉強したいです。誰か大人の方が来てください。お願いします」と言う。日本人のメンバーは顔を見合わせて、返答までに時間がかかった。

     子ども教室のボランティアである市議さんが、「どういう勉強をすればいいのですか?」と尋ねてくれ、外国人の人たちが「ワークブックを自習するので、それを見るだけでいい」と説明する。自治会の国際部長の沢井さんが、「分かりました。なんとかやっていきましょう」と言ってくれ、その返答に、拍手が沸きおこった。

     

     この時の場面は、今も鮮明に記憶に残っている。アミさんの「金曜日も誰か来てください」という発言で、場は一瞬、静まりかえった。外国人の人々は不安な面持ちで、日本人たちの反応をうかがっていた。子ども教室のボランティアは、日本語を教えたことが無く、また、自身のスケジュールの調整がつくか分からず、すぐに返事ができなかった。しかし、困惑しながらも、なんとか協力したいという気持ちは、その表情や仕草から、じんわりと伝わってきた。

     見切り発車ではあったものの、自治会の国際部長が「やりましょう」と言ってくれた。その瞬間、外国人たちはどよめき、本当に嬉しそうな表情で拍手をしていた。私はこの拍手を聞きながら、「金曜日に誰も来られないようなら、自分ができる限り通おう」と思ったりしていた。この後、子ども教室のボランティアも「しばらくは交代で通いましょう」と言ってくれ、皆が同じ気持ちでいてくれたことに、感謝がこみあげてきた。

     結果的に、この金曜日の手伝いには、私や子ども教室の人々ではなく、新しいボランティアが関わってくれることになった。新原先生が、湘南市に暮らす知人に手紙を書いて、協力を頼んでくれた。その人は、経験の深い在日コリアンの女性だった。彼女は外国人のおかれた状況や、団地で起こっていることを理解し、早速、団地近隣の協力者を4名も集めてくれた。

     新しく関わるようになったボランティアは、長年、湘南地区で暮らし、外国人が年々増えていく団地を気にかけながらも、なかなか関わるチャンスが無かったと話していた。彼らは、「前からボランティアをやってみたいという人ばかりが集まったので、みんな楽しんでやっています。ありがとう」と話してくれた。

     金曜日のボランティアは、日本語教育の知識は全く持ち合わせていない、「専門家」からは程遠い人々だった。しかし、専門的な教育論や方法論は持っていなくても、外国人たち一人ひとりに気を配り、彼らの考えや想いをよく聴いてくれた。そうした存在によって外国人たちは励まされ、その後も月曜日と金曜日の週2回、集会所で日本語の勉強を続けることができたのだ。

     外国人たちの「湘南団地日本語教室」を含め、「湘南プロジェクト」は、このようにして、「専門家」からの脱却を遂げていった。「素人」である支援者たちと一緒に、当事者が本当に必要としているものを形にしていく場として、「芽生え」ていったのである。

     

     

     

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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    第20回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(前編・2)

    第22回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(後編・2)

    第23回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(後編・3)

    第24回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(1)

    第25回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(2)

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