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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第22回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(後編・2)

    4.日本語教師の「揺り戻し」

     これまでみてきたように、外国人たちの「湘南団地日本語教室」は、協力者に恵まれて順調に成長していった。しかし、他方で、この過程と同時並行し、プロの日本語教師に戻ってきて欲しいという、「揺り戻し」が起こってもいた。それは、日本語ボランティア募集の「チラシ」を作ったまさに「その日」に、もう一つの流れとして、勃発したのだった。

     2001年5月21日、皆で「チラシ」を書いていると、ペルー人のハンナさんが遅れて教室にやってきた。ハンナさんは、蔵田先生の日本語教室では、「初級の上」のクラスに在籍していた学習者である。いつも元気な笑顔で場を盛り上げる、30代の女性だ。小学生の娘が二人いて、時々母親について来ては、子ども教室でよく勉強をしていた。ハンナさんに、なぜ「チラシ」を作っているのかを説明すると、唐突に、こんな反応が返ってきたのだった。

     

    2001年5月21日

     ハンナさんは「先生、計算機もってる?」「蔵田先生の給料はいくらか?」と聞いてくる。その場に集っていた人の人数を数えて、日本語教師の給料を、その数で割る。「一人あたり1ヶ月1600円くらい出せば、蔵田先生に来てもらえる」と言い出す。

     「なぜ蔵田先生に来てもらいたいのか」と質問すると、「MEDODO」と筆記する。彼女によると教授法がいいから、みんな日本語を早く覚えられるのだという。ハンナさんは「団地祭でお金を稼いだら、そのお金を使うとして、団地祭前までは一人1600円払うことにしたら、みんな文句は言わないと思う」と意見した。

     

     団地祭でお金を稼いで蔵田先生を雇うことや、足りない部分は会費を出し合うという案は、既に前回、皆で話し合ったことでもあった(第20回参照)。会費を出すという案に賛同する人は少なく、無償で来てくれるボランティアを募集しようという流れになったのだ。ハンナさんはその話し合いの場にいなかったので、私から状況を説明した。しかし、あまり内容は伝わらなかったようだ。

     「チラシ」の作成を終えて、外国人たちが休んでいると、ハンナさんは上のような話をもちかけた。前回の議論の「蒸し返し」だったので、皆、戸惑った表情になっていた。しかし、ハンナさんが熱心に語る姿を見て、「団地祭でお金が準備できるまでの3ヶ月間なら、みんなお金を出すかもしれない」という意見が、ちらほら出てきた。その流れで、話し合いは白熱した。

     

     カンボジアのソリンさんが、「欠席した人がいた場合、その人のお金はどうなるのかが問題」「みんな仕事もあるし、来られないときも多い」と意見する。ハンナさんは「みんな大人だし、休んだ人はその人の責任。学校もどこでも、休んだからってお金を払わないというのはない」「休んだ日の授業のコピーをもらうか、友達に授業を教えてもらえば問題ない」と反論。この二人の攻防がしばらく続く。9時近くなっていたので、次回に持ち越すこととなる。皆が机を片付けている間、ソリンさんとハンナさんは、片隅でしばらく議論を続けていた。

     

     ソリンさんとハンナさんは、互いの主張を、日本語でぶつけ合っていた。ハンナさんは、日本語は「初級レベル」なのに、手持ちの単語を駆使して、自分の考えを必死に伝えていた。ソリンさんもそれをよく聞き取り、丁寧に自分の意見を返していた。他のメンバーたちは、「どっちも一理ある」というような表情で、二人の議論を見守っていた。

     この場に居合わせた私は、ハンナさんの言動に、正直、困った気持ちになった。ハンナさんの気持ちは、分からなくはなかった。蔵田先生の教授法や技術が素晴らしいことは、誰もが認めるところだ。だけれども、「湘南プロジェクト」全体が、「専門家」の手を借りない方へ方向転換したことに、その時の私は気づいてもいた。また、蔵田先生が長く関わることによって起こってくる「影響」も、徐々に理解できてきたところだった。

     蔵田先生が関わることによる「影響」に関しては、前述したように、「水を与えるのではなく、井戸を掘る方法を教える」という方針に対して、蔵田先生の「プロジェクトワーク」を中心とした進め方が合わないということからくるものが一つあった(第16回、第17回参照)。また、このような日本語教育の範囲のことだけでなく、蔵田先生の当時の姿勢も、湘南団地の活動にはマイナスに働くように感じる部分があった。

     彼女は団地を去ってからも、「湘南プロジェクト」に対する意見を、私に伝えてくることが度々あった。主に「プロジェクトとして、プロを雇うための助成金を準備しないこと、日本語ボランティアを養成しないことは責任感が無いのではないか」という批判であった。

     プロジェクトの方向転換や、外国人による日本語教室作りの様子を伝えても、それはプロジェクト側の「怠慢」の結果であるという評価だった。蔵田先生の主張としては、「素人」のボランティアに教室を任せられないというから「専門家」の私が関わったのに、それを維持する環境を整えられずに、結局、「素人」に教室を託すのは、プロジェクトの「怠慢」だということだった。「突然、プロ教師という『梯子』を外されて、自力でなんとかしなければいけない外国人たちが不憫である」とも語っていた。

     こうした批判を聞きながら、蔵田先生の批判は、どこか「的外れ」であるように感じていた。かつて、蔵田先生が掲げていた活動理念は、「水を与えるのではなく、井戸を掘る方法を教える」ことだった。そうした視点からすれば、現在の学習者たちの動きは、「不憫」というよりは、蔵田先生たちの教育の賜物であると評価できるはずだ。

     そして、そのような動きの結果、もはや、「誰が日本語の先生として適任か」「プロか素人か」という次元は越えて、外国人同士が、互いに先生であるという関係となっていた。お互いに、足りない部分を補完しあって、日本語教室について議論し、勉強を続けてきたのだ。ボランティアで来ている日本人は、そうした場に寄り添うサポーターにすぎず、「日本語を教えること」が第一の目的ではなかった。

     蔵田先生は、こうした状況に対し、理解を示すことは無かった。また、これは私の誤解かもしれないが、蔵田先生の批判の背後には、「湘南プロジェクト」から実質的に「解雇」されたことへの、強い憤りがあるのではないかと感じていた。プロとしての自分のやり方を否定されたような、そのことへの憤りを、先生の言葉の端々に感じるのだった。

     だから、もし、蔵田先生がそのような憤り、つまり承認欲求を原動力として、団地の活動に戻ってきたら、現在の「湘南団地日本語教室」は、一瞬で変化してしまうのではないかと危惧した。承認を得たいプロの教師と、質の高い教育を受けたい学習者は、強く結びつくだろう。そしてすぐに、学習者はレベル別に分断され、日本語教師を中心としたシステマティックな教室が復活することだろう(第13回~第15回参照)。

     そのようなシステムに馴染めない人や、教師から「対象外」とされた人々は、教室に通うことが徐々に難しくなっていく(第13回参照)。現在のような、日本語での挨拶もままならない人々も、分け隔てなく、仲間の力を借りながら「チラシ」を日本語で作るといった、真の意味での「学びの場」は、簡単に崩れ去ってしまうように思った。

     正直に言うと、このような蔵田先生が関わることでの「影響」については、当時はほとんど言語化できなかった。ただ、「今の時期に必要なのは、蔵田先生ではない」と、強く感じていた。私自身、当時の蔵田先生の話を誤解していたり、過剰に反応していたりする部分も、多々あったとは思う。しかし、新原先生がミーティングなどで言っていた、「『専門家』にはこれ以上頼らない」「知識に備わっている権力について無自覚であることから現場を守る」といった言葉が脳裏に焼き付いていて、私の中で警鐘を鳴らしていたことは確かであった。

     だから私は、日本語教師の「揺り戻し」に関して、とても慎重に動いた。ハンナさんたちの「蔵田先生を、お金を出して雇いたい」という訴えに対しては、6月中はあえて話題にせず「うやむや」にした。そうしている間に、新しく来てくれたボランティアさんたちと外国人との関係ができ、違う方向性を見出してくれるのではないかという、はかない期待もあった。

     しかし、そうこうしているうちに、蔵田先生が動きをみせた。それは、誰も予想していない、突然のことであった。事の経緯はこうだ。まず、ハンナさんに、蔵田先生が電話をしたという。2001年7月5日のことだった。ハンナさんとの電話の後、蔵田先生は私に、ものすごい剣幕で電話をかけてきた。口調は怒りに満ちていた。

     蔵田先生の主張は、先のような批判の繰り返しであるが、概ねこのようなことだった。団地の外国人たちは、私のような「プロの日本語教師」を求めているのに、なぜ、プロジェクトはそれを理解しないのか。なぜ、彼らが本当に必要としているような場所を作らないのか、という内容だ。また、蔵田先生自身についても、「お金を出さないと来てくれない先生だと言われていることが気に喰わない。お金の問題じゃない」と訴えていた。

     「お金の問題じゃない」という言葉通り、おそらく蔵田先生は、外国人に求められれば、一時的には無償でも団地に来たのではないかと思う。「お金の問題」ではなく、「求められること」が、当時の彼女には意味があることだったと思うからだ。

     しかし、それは、団地や外国人たちの場づくりを考えてのことではないだろう。もし、本当に自分のような「プロの日本語教師」が団地に必要だと考えるなら、次年度の予算が無いと告げられた時、無償でも通い続ける道を選んだのではないだろうか。他の「湘南プロジェクト」のボランティアたちが皆、そうしたように。

     電話越しに私は、蔵田先生に向けて、外国人たちが作っている教室の様子を丁寧に説明した。現場はもはや、誰が日本語の「先生」になるかを議論する段階にはないと反論した。「専門家」の教師がいなくても、互いに学び合う場が、自然とできている。「湘南プロジェクト」は、そのような場を支えたいと思っている。そのことを、精一杯、伝え続けた。

     蔵田先生との電話は、夜中の3時まで合計5時間も続いたと、日誌にはある。とても説得できたとは言い難かったが、蔵田先生は最後に、こう言って電話を切った。「新しいボランティアさんたちが日本語を教える力が無くても、時間をあげてほしいと、外国人たちには伝えるね」。

     蔵田先生は、先生なりの考えがあったのだと思う。仕事に対する責任感や、自分の教え子たちへの愛情も、確かに持っている人であった。しかし、最後まで、話し合いは平行線だった。これ以降、蔵田先生が私に、電話をしてくることは無かった。

     そして、この蔵田先生とのやりとりの翌日、今度は、「プロの日本語教師を呼びたい」というハンナさんたちと向き合うことになる。ハンナさんと同じ考えを持つ人は、ペルーやボリビア人の4名だった。とうとう、これまで「うやむや」にしてきたことに関して、決着をつける時がやってきたのだ。

     

     

    5.「プロの教師を呼びたい」という訴え

     ハンナさんたちと向き合うことになった2001年7月6日は、金曜日だった。私は普段、月曜日の教室に通っていたので、金曜日のボランティアと会う機会はあまり無かった。だから、この日は教室が終わってから、金曜日のメンバーとミーティングをしようと計画していた。

     ミーティングでは、昨日起こった蔵田先生とのやりとりを共有し、ハンナさんたちの訴えに関して話し合いたいと思っていた。ハンナさんにもその予定を伝え、「日本人たちに伝えたいことはあるか」と、あえて私の方からたずねた。この日の報告書には、こうある。

     

      ペルーのハンナさんたちに、今日、日本語教室の日本人とミーティングがあるから、何か伝えたいことはあるか聞いてみました。初めは言いにくそうだったのですが、「蔵田先生と電話している時に、先生はお金がなくても行くと言っていた。来たいとも言っている。だから、蔵田先生を呼びたい」「中里さんが言っている、『蔵田先生を呼ぶにはお金がかかる』というのと、蔵田先生は、違うね」と言いました。とてもショックでした。とにかく、「そのことを他のボランティアさんにも話してみて、みんなで考えよう」と促し、その話を、金曜日のボランティアさんたちに聞いてもらいました。

     

     私が「とてもショック」だったのは、ハンナさんたちから、蔵田先生を団地に来させないように、中里が「裏で画策している」「嘘つき」のように言われたからだ。実際に、外国人の人々が知らないところで、蔵田先生に抵抗していたのは事実だったから、今思うと、くだらない感傷だと思う。しかし、当時は、そのことへの後ろめたさや罪悪感を、多少なりとも抱いたりしていた。

     そうした罪悪感から弱腰になった私は、ハンナさんに反論することができなかった。また、「湘南プロジェクト」の方向転換やその意味に関しても、うまく言語化して伝えることができなかった。独りで抱えきれなくなった私は、金曜日教室のボランティアたちを頼ることにした。

     教室の終わりごろ、金曜日のボランティアに、ハンナさんたちが思っていることを話してしてもらった。ハンナさんたちは、ストレートに、「蔵田先生を、日本語教室に呼びたい」「お金は自分たちで払います」と言った。

     それを聞いた日本人たちは、一瞬、当惑した表情となった。しかし、すぐに反論したり、意見を言ったりすることも無く、ただ、ハンナさんの話を聴いていた。ゆっくりした口調で、「なぜ」そうしたいのかと、何度も尋ねていたことが印象的だった。

     「なぜ」の回答として、「教え方が上手である」こと、「能力別のクラスで勉強できる」こと、「自習ではなく集団授業なので覚えが早い」「覚えが早いことで生活に役立つ」、「仕事をして疲れているので、楽しい教室の方がよい」「楽しければたくさん日本語を覚えられる」などを挙げていた。まるで、どこかの英会話スクールの宣伝文句のようだった。

     誰かを傷つけようと思ってした返答ではなかったと思うが、これまでコツコツと「素人」が支えてきた教室は、あっけなく否定された感じだった。金曜日のボランティアたちも、きっと、内心は傷ついていたことだろう。けれども、そうした表情は一切見せず、彼らはハンナさんらの話にじっくりと耳を傾けていた。

     結局、この日は、何の結論も出せないまま、話し合いを終えた。ハンナさんたちが去った後、金曜日のボランティアから「外国人の人々の意見や要望は、出してもらった方がいいと思います。しかし、この場所がどうあるべきかについては、また、外国人とプロジェクトの皆で話し合いましょう」という提案がなされた。

     ボランティア側の意見としては、「プロの教師に教室を任せるのではなく、沢山の人が関わって、外国人一人ひとりに目が行き届くような、今の教室の形がよいと感じる」「何かが足りない状態の方が、皆で補完し合おうという意識が高まり学習も進むと思う」ということが出されていた。外国人の要望に理解を示しつつも、それをすぐに聞き入れるのではなく、彼らが自力で教室を作っていることの意味を尊重したいということだった。

     私は、このように、現状を冷静に理解してくれているボランティアと、今後も一緒に活動したいと切に願った。外国人の人々もそれを望んでくれることを、ひたすら祈るばかりだった。

     

    6.「揺り戻し」の決着

     金曜日の話し合いの翌週、私は重い足取りで、団地の日本語教室に向かった。「蔵田先生を日本語教室に呼び戻したい」という動きに対して、今日は何らかのリアクションをとらねばならない。今の教室の形に意義を感じている「湘南プロジェクト」の想いを、皆にどうやって伝えたらいいか、必死に考えた。考えあぐねているうちに、団地の集会所に到着した。

     すると、いつもは遅れてくるハンナさんが、誰よりも早く教室に来ていた。時計を見ると、教室が始まる20分前だった。ハンナさんは、もっと前から私を待っていたのだろう。私の顔を見るなり、真剣な面持ちで駆け寄ってきて、開口一番、「恥ずかしいことをしてしまった」と訴えてきた。

     ハンナさんが言いたかったのは、「ボランティアさんたちに向けて『蔵田先生の方がいい』と言ってしまったことは、恥ずかしいことだ」という内容だった。毎週通ってきてくれていた人々に対して失礼なことを言ってしまったと、何度も言葉を変えて伝えてきた。そして、「蔵田先生が団地に来るようになっても、ボランティアさんたちと一緒にやりたいと思う。みんな一緒にやれたらと思う。これ、本当の気持ちね」と言った。ハンナさんはいつものような元気が無く、とても傷ついた顔をしていた。

     そうしている間に、日本語教室には、20名ほどの外国人が集まってきた。「今日こそは結論を出そう」と覚悟して、ハンナさんたちの考えを、皆にシェアした。

     日本語教室に通い続けてきたベトナムのアミさんが、「でも、蔵田先生はお金が必要ですね。だから来られないですね」と発言する。アミさんは、誰よりも先に、「蔵田先生に戻ってきて欲しい」と言った人物でもあった(第20回参照)。けれど、賃金が発生することを知り、長期的に考えて、無理なく教室を維持できる方向を選んだのだった。他のカンボジア人やベトナム人たちも、基本はアミさんと同じ考えだった。

     ハンナさんはすかさず、「蔵田先生は『ただ』で来てくれると言っていた」「電話で話しました」と答える。その言葉に、アミさんは怪訝な表情を浮かべ、黙ってしまった。他のメンバーも、蔵田先生が戻ってくるチャンスができたのに、その話を聞いても、喜ぶような表情はなかった。皆の顔が、どんどん曇っていくのが分かった。教室内が静まり返った。

     おそらく、この沈黙は、外国人たちの配慮だったのではないかと、今は思う。中里が言うことと蔵田先生の発言との「喰い違い」から、日本人たちの関係に、何らかの齟齬が起こっていることを察したのだろう。そもそも、ずっと前から「お金の問題じゃない」ことは、気づいていたのではないか。気づいていたからこそ、私のように団地に「残った」日本人や、新たに来てくれたボランティアたちと、新しい方向を模索しようとしてくれていたのではないだろうか。

     この話し合いの「結論」を、先に伝えておくと、「プロではなく、今のボランティアたちと一緒にやっていこう」という話でまとまる。最終的に、「蔵田先生を呼び戻そう」という案は、却下された。ただ、そこにいきつくまでの話の展開が、今読んでみても、どこか不自然なので、その時の記録をたどりながら、少し振り返っておきたい。

     

     (補足:「蔵田先生は『ただ』で来てくれる」と聞いて、皆が黙ってしまった状況にて)私は黙っていられず、「蔵田先生は、なぜやめた?今は、来たいと言っているみたいだけど、なぜやめた?」と何度も聞いた。みな、「分からない」「聞いてない」「なんでだろう」と答えた。アミさんは「お金無いから、来なくなったでしょ」と言った。私は、「それもあったかもしれないね。でも、お金なくても来たいと、今さら、言っているのはなんでかな?」「やめた理由を、先生に聞いたらいい」と伝えた。私は、「今いるボランティアさんは、みんなが蔵田先生の方がいいと言っても、来てくれる。簡単にはやめない。黙っていなくなることもない」と訴えた。

     

     私自身はこの時、話をしながら、だんだん腹が立ってきたことを覚えている。外国人たちに対してではなく、蔵田先生に対してだ。そもそも「湘南プロジェクト」の方針と蔵田先生の考えが合わなかったから、蔵田先生は団地を去ったのだ。しかし、蔵田先生が繰り返している批判のように、「プロジェクトの方針は間違っている」と真っ向から主張していたなら、状況は変わっていたのではないだろうか。

     私に電話をかけてくるのではなく、プロジェクトの新原先生や国武さん、自治会の役員といったメンバー全員に向けて、直接そうした批判を投げかけるべきだったのではないか。沢山そうした機会はあったはずだ。しかし、そのような手順は避け、今度は巧妙にも、外国人を利用する形で、自分の「正しさ」を主張しようとしていると思った。

     この「揺り戻し」の一件を通して、不本意にも、「湘南プロジェクト」の外国人も日本人も、互いに傷つけあってしまった。これ以上、この件で、現場がかき乱されるのはごめんだと、怒りが込み上げてきたのだ。そんな風に、私が独り息巻いていると、ハンナさんが、このように切り返してきた。

     

     ハンナさんが、「ちょっとまって、なんでやめた? お金無いから、来なくなったの? 蔵田先生はボランティアじゃないの? お金もらってたの?」と聞いてきた。私が、「そうだよ、貰ってたよ」というと、ハンナさんは「でも、蔵田先生はお金もらってないと言いました。だから私、ボランティアだと思いました」と言った。

     

     続けてハンナさんは、「誰が、お金払ってた?」と聞くので、日本語教室の運営費について話をした。少し冷静になった私は、「自治会の役員、民生委員、新原先生、社協の人たちが、お金を国や市からもらってきて払いました」と返事をした。そして、ちょうどその時、新原先生が日本語教室の様子を見にきたので、先生に詳しく話をしてもらうことになった。

     新原先生は、ジェスチャーを交えながら、3年間で500万円、日本語教室に費やしたという事実を皆に伝えた。それを聞いた外国人たちから、「500万?!」という、どよめきが起こった。先生は、「助成金」という耳慣れない言葉を、「宝くじ」に例えて説明し、「今年は当たらなかったから、みんな交通費一回あたり3000円を自分で払って団地に来ている」という話をしてくれた。

     日本語がよく分からない人々にも、同じ言語を話す人々が通訳し、日本語教室の運営について、皆がシェアした。ハンナさんは、もう一度何かを確認するかのように、こうつぶやいた。

     

     「来ている人はボランティア、蔵田先生はプロフェッショナル」とハンナさんが言う。すると、ベトナムのアミさんが、「そうですね」と返事をした。

     ハンナさんが、「もう分かった! 私、知らなかった。蔵田先生はボランティアだと思っていた。だから、他のボランティアさんと一緒に、蔵田先生も来させてあげたいと思った」「なんで、お金払ってたこと、今まで言わなかった? 知ってたら、蔵田先生の日本語教室、みんな時間通りに来た。蔵田先生は休憩ばっかりで、それではお金がもったいなかった」「知らなくて、ごめんなさい」と言う。

     結局、「ボランティア達と教室をやってゆこう」という話で落ち着いた。他の外国人たちは、「何をいまさら言っているのか」という顔をしながらも、静かにうなずき、話し合いが終わった。

     

     蔵田先生の「揺り戻し」問題は、このような形で終結した。今振り返っても、結果的には「よい方向」へ決着したと思うが、話の展開には、若干の不自然さも感じる。ペルーのハンナさんは、「蔵田先生はプロフェッショナル」ということを「知らなかった」と言っているが、本当は知っていたのではないかと思う。

     最初に、蔵田先生が戻って来られない理由をハンナさんに伝えた時、ハンナさんは計算機を使って「一人1ヶ月あたり1600円」と試算している。金曜日のボランティアの前で、「お金を出しても蔵田先生のような人を呼びたい」と訴えてもいた。だから、蔵田先生に賃金が発生することは、分かっていたはずなのだ。

     だが、ハンナさんは話し合いの中で、蔵田先生が辞めた理由や、それについての他の外国人やボランティアたちの考えを察し、誰もが傷つかない方法で、その場を収めようとしたのではないだろうか。「自分の勘違い」から問題が発生したことにして、蔵田先生や中里らを責めることは無かった。日本語がままならない状態で、彼女の中のこうした心の機微を伝えるのは、難しかったはずだ。ハンナさんは、「湘南団地日本語教室」全体のことを考えて、その場を収束させたのだろう。

     こうした経緯で、外国人たちは、プロの日本語教師に教室を任せる方向から、完全に脱却した。そして、自分たちの教室を自分たちで運営していく方向へ進んだ。その試みに、ただひたすら寄り添ってくれる日本人ボランティアと、今後も一緒にやっていくことに決めたのだ。

     

     

     

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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