6.「本当の大学」
「湘南団地日本語教室」はその後も、事あるごとに外国人同士で話し合い、日本語教室の方向性を決めるようになっていった。また、交代で1~2名のボランティアが教室に通い、20名前後の外国人たちの勉強を見守った。時々雑談をしながら、自分たちのやりたいことを学習する、とてもゆったりとした時間が流れる空間だった。
以下は、そんな教室の一場面である。新しく教室に来るようになった中国の男性に対し、皆が自己紹介をした時のことだ。互いの名前がはっきりと聞き取れないため、黒板に、自分の名前を筆記することになった。何度も何度も、発音と筆記があっているか確かめながら、日本語で書いていった。
その場に集っていた、「ブトゥアンサン」「グエンティリャン」「ニースライパオ」「井上ガブリエル」… 「新原」「中村」「中里」と、合計15名の名が黒板に書かれる。そして、先週金曜日に教室に来てくれた、自治会役員の沢井さんと市議の名前も書き加えられた。
2001年6月11日
ちょうどその時、教室に顔を出してくれた民生員の播戸さんも、急遽参加してくれた。播戸さんは「アミさん、あんたならわしの名前、知ってるじゃろ? よう会ってるからの」と言う。アミさんは「ごめんなさい、忘れた~」と笑いながら言う。播戸さんは「なんじゃよ!」と言いつつ、黒板に名前を書いた。
そして、「播戸」という文字の隣にあった「井上」の文字を見て、「井」は「井戸」という意味だと話し出す。井戸の絵を描いて、ジェスチャーを交えながら説明していた。播戸さんが日本語教室でペンをとったのは、この3年間で初めてのことだった。
この互いの自己紹介には、1時間かかったと記録にはある。自分の名前を黒板に書き記し、そして他者の名前をノートに書き写すという作業は、今までの日本語教室では無かったことだ。「先生が生徒の名簿を管理する」ことで維持されていた場所に、個々人の名前が刻まれていった。そして、この場をずっと支えてきた自治会役員の名前も、皆のノートに、しっかり書き留められた。
「湘南団地日本語教室」は、効率的なカリキュラムに従った日本語教育の場とは大きく異なっていた。しかし、そこには、その場に集っている仲間に興味を持ち、お互いを知ろうとするという、最も基本的な人と人との関わり合いがあった。「先生」がとり仕切る教室から脱却したことで、教室に集う人々の関係性が変化したことは明らかだった。それは、普段の教室だけではなく、「団地祭」のようなイベントでの変化からも感じ取れることだった。
以前紹介したように、蔵田先生の日本語教室では、「団地祭」を「プロジェクトワーク」という日本語教育の一環として位置づけていた(第16回参照)。そこでは、次世代のリーダーを養成するという計画に従い、「才覚がある」とされた人物を中心に、役割分担のはっきりした組織が編成された。例えば、「中国の餃子」の屋台をやった年は、中国人の「リーダー」を指示役として、餃子の皮を作る係、「タネ」の野菜を洗う係、刻む係、肉と混ぜる係、包む係、ゆでる係、パッキング係など、流れ作業のような形をとった。
一方、外国人たちによる「湘南団地日本語教室」の屋台は、とてもユニークなものだった。彼らが自主的に初めて参加した2001年の「団地祭」は、カンボジアの「カレー素麺」「お好み焼き」、ベトナムの「春巻き」の屋台をやることになった。しかし、東南アジアの料理は馴染みのないこともあってか、祭りの1日目は、残念ながら赤字となってしまった。
すると、南米のハンナさんたちが、皆に提案をした。2日目は、南米の料理である「エンパナーダ」(南米の揚げ餃子)も、一緒に作って売ろうという。「エンパナーダ」は、「タネ」として、ゆでたジャガイモや炒めたひき肉を入れるが、材料費を安くあげるため、ハムとチーズで代用したらどうかという。その代わり、皮は本格的に、小麦粉から作る。
皆で相談した後、1日目の終わりに、「エンパナーダ」の材料の買い出しに走った。試作品を作ると、老若男女問わず馴染みやすい味で、コストも抑えられた。こうして、屋台2日目は、東南アジアの料理と南米料理がランダムに並ぶ、多国籍な屋台に変貌した。「エンパナーダ」の相乗効果により、東南アジアの料理も売れ行きが伸びていった。
屋台は、「カンボジア料理を作る係」、「南米料理を作る係」といった役割分担はほぼされず、手が空いている人間が、臨機応変に動くという形で進められた。特に指示役も、決まっていなかった。暑い最中の祭りでもあったので、「人の出」を見ながら、休み休み、ゆっくり作業をした。このように、ほとんど無計画な状態で取り組まれた屋台であったが、この年の利益は、歴代最高額の5万円になった。
「湘南団地日本語教室」は、プロの日本語教師の不在という「欠け」を体験したことで、新しい場を産み出した。計画的でシステマティックな場所からは生まれない、互いに知恵を出し合い、臨機応変に助け合う場である。「隙」や「欠け」があるからこそ生まれてくる緊張と弛緩の間で、問題にしなやかに対応し、形を変えながらも核心は変えない姿勢を、皆が共有していたように思う。
形を変えても変わらない姿勢とは、この社会を生きるために学ぶことを続け、その知恵を皆で共有していこうという態度のことだ。新原先生がよく「湘南団地日本語教室」について、「本当の大学」と言っていたことを思い出す。先生は「本当の大学」のことを、「この社会の不条理のなかで生きて闘う技法を共に学ぶ場」と表現していた。
これは私の記憶の中の先生の話をまとめたものだが、先生の言う「本当の大学」とは、高等学校の上にある大学や大学院といった教育機関を指すのではない。専門知識を切り売りしていくような場や、他者より有利になるために知識を得るための場所でもない。
「本当の大学」とは、この社会で起こる不条理にさらされながらも、その中でなんとか生き抜くための知識や知恵を、自発的に獲得していこうとする場所である。「生きるために勉学をする」という姿勢を持った者たちが、互いに信頼して、つながっていくような場だ。だから、「本当の大学」では、「誰もが先生であり生徒である」「『学ぶ者』という意味で誰もが学者なのだ」と、先生は話していた。
「湘南団地日本語教室」は、日本社会で生きるために日本語を勉強し続けたいという、切なる想いを持つ者によって作られた場だ。プロの日本語教師からの「おいしい水」は貰えないけれど、その代わり、「なぜ」を共有する場となった。「なぜ、勉強をしたいのか」を問われる場所で、一人ひとりが、その場の意味や意義を見出していった。何がこの地域で生きていくために必要か判断し、そして、自分たちの責任で勉強を続ける場を産み出したのだ。「湘南団地日本語教室」は、「本当の大学」だったのだと思う。
7.「継承」という想い
新原先生は、前述した国際交流協会の渡辺さんへの手紙の中で、「湘南団地日本語教室」について、「さらには自然な形で、自分の周りの人たちに、その水を探す方法を伝えていけるようになっている」という表現をしている。当時はそこまで理解できていなかったが、「水を探す方法を伝えていける」というのは、横の関係で「共有」するということだけでなく、縦の関係での「継承」という側面もあったのではないかと思う。「本当の大学」は、こうした知恵の「共有」と、さらには「継承」がなされていくような場なのだと思う。
その例として、「湘南日本語教室」では、具体的にこのようなことが起こっていた。先に話した「団地祭」での利益5万円を、どのように使うかという話し合いでのことだ。その時の記録は紛失してしまい、断片的な記憶に頼るしかないが、これは印象深いエピソードだったのでよく覚えている。
2001年9月17日のことだ。アミさん、ハンナさん、ソリンさんといったいつものメンバーで20名くらいが教室に集っていた。団地祭で得た5万円を何に使うか、皆で相談した。蔵田先生の教室では、「プロジェクトワーク」という教育活動の一環として「パーティ」を行い、その資金として団地祭の収益を利用していた。
「今回はどうしますか? 」と私がたずねると、「ボランティアさんの交通費として使ってください」と、アミさんが言った。「それがいいですね」と皆が賛同し、軽い拍手が起こった。私は、唐突に受け取った皆の温かさに、涙腺が緩んだ。皆の気持ちは嬉しかったが、今のボランティアの中に、交通費を貰いたいという人は一人もいないと思った。そして、そんなボランティアの気持ちを代弁し、「教室のためにお金を使ってほしい」と伝えた。
するとハンナさんが、「マテリアルがいいね」と言った。ハンナさんによると「マテリアル」とは、有形の「残るもの」という意味だ。「パーティ」のように無形のものではなく、辞書やテキストのような「物」を教室に揃えようという案だった。賛同した人から、「後から日本にやってきた人も、いずれ使えるから」という意見が出た。
このような案の背後には、横にいる仲間たちと資源を「共有」していこうという意識だけでなく、自分たちの後からやってくる人々に、何か引き継げるものを残そうという意識があったのだと思う。外国人たちが「継承」について、改めて何かを語ることは無かったけれど、日々の教室活動を行う姿勢の中に、そうした「継承」という意識は常にあったのだろう。また、「後から日本に来る人たちのために」ということだけでなく、世代を意識した「子どもたちのために」という想いは、外国人の中に大きくあったように思う。
例えば、「団地祭」に参加するかどうか話し合った時、アミさんはこんなことを言っていた。「もしやめてしまったら、子どもたちがかわいそうですね」。アミさんは、親世代のやっている屋台を、子どもたちが毎年楽しみにしているということを話してくれた。また、日本語教室が「団地祭」に出店することで、外国人への理解を深めてもらえること、それがいずれ外国人の子どもたちのためになるとも話していた。このような想いは、子どものいる親世代の外国人が、何気ない瞬間に、度々口にしていたことでもあった。
このように振り返っていると、「湘南団地日本語教室」に集った外国人の想いや姿勢は、歴代の団地自治会役員たちや「湘南プロジェクト」の人々のそれと、自然と重なっていたのだなと感じる。
湘南団地の住民たちは、1980年代に外国人が大量に団地に住むようになってから、多くの問題に対峙してきた。団地自治会が中心となり行政に助けを求めたが、長い間、自分たちだけで一つずつ解決していくしかなかった(第6回参照)。1999年に市社協を母胎とした「湘南プロジェクト」が発足し、外国人や子どもたちの声を聴き、寄り添っていく場所を作った。そこでの理念は、いずれ外国人の子どもたちの中から、地域の抱える問題に耳を傾け活動していく「リーダー」や「社会のオペレーター」(第16回参照)が産まれるように、中長期的な活動を行っていくということだった。気づけば、そうした流れに、「湘南団地日本語教室」の外国人たちも、自然と合流していったのだ。
子どもたちの世代への「継承」という想いを、団地の役員や「湘南プロジェクト」の人々、また外国人たちが、声高らかに宣言したり、スローガンとして掲げたりすることは一切なかった。ましてや、「継承」を目標としたプログラムを組み、それらを強制的に遂行していこうということもなかった。そうではなく、「継承」の意識は、道端の「吹き溜まり」がじんわりと湿っていく時のように、横の者同士が影響し合い、相互浸透するようにして、共有されていったような気がしている。
「湘南プロジェクト」という「吹き溜まり」は、そこに引き寄せられた人々が、互いに影響し合う場所であった。外国人たちや、行政の人々、近隣地域の住民や小中高の先生など、様々な人々を巻き込みながら、互いへの相互理解を促す場となっていた。勿論、そこからまた、突風に吹かれるように去ってしまう人々もいたけれど、「吹き溜まり」が大きくなっていくにつれ、地域社会の関係性に影響を与えていった。そのような動きの中で、次の世代への「継承」という意識もまた、じっくりと育まれ、人々の間に共有されていったのだろう。
そして、「吹き溜まり」の中でじんわりと共有されていた、「継承」という想いは、新しい「芽生え」の母胎となっていく。この後しばらくすると、外国人の子どもたちに、「芽生え」の時がやってきたのだ。団地自治会をはじめ、「湘南団地日本語教室」を創出した外国人たち、そして「湘南プロジェクト」に集った人々のこれまでの奮闘が、次の世代にしっかりと「継承」されていく様子を、私たちは目撃することになる。「吹き溜まり」は、まるで生きているかのように、「横」にも「縦」にも広がっていったのだ。
しかし、この様子を語り始めると、とても長くなってしまうので、外国人の子どもたちの「芽生え」については、また次回以降に綴ってゆきたいと思う。
写真は2001年の団地祭の風景。外国人の屋台には子どもたちの姿があった。
[© Kanae Nakazato]
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