1.「うちら」と「ふれあい祭」
様々な国籍の人々が集住し、多様な文化が混在する湘南団地に、根気強く集うことで続いてきた「湘南プロジェクト」は、まるで「生きた『吹き溜まり』」のようだった(第2回、第12回参照)。この「吹き溜まり」は、2001年の後半以降、外国籍の十代の少女たちを巻き込み、また新たな様相を帯びるようになる(第24回~第26回参照)。彼女たちは、「湘南プロジェクト」の大人たちに見守られながら、「吹き溜まり」に「不定根」を伸ばし、自分たちの存在を表現していくのだった。
2001年11月25日、北風が冷たい寒空の下、団地自治会の催しである「ふれあい祭」に、外国籍の少女たちが小さな屋台を出した。中心となったのは、カンボジア出身である、ヒアン・アニ・サリカ・サラの自称「うちら」(第25回参照)だ。カンボジアの「ソウルフード(注:国やその土地の食文化を表す食べ物)」である「揚げ春巻き」を手作りし、「ふれあい祭」で販売したいという。
「ソウルフード」とは言っても、幼少期に難民として移住してきた彼女たちは、カンボジア料理のみで育ってきたわけではない。しかし、彼女たちの中には、カンボジアは「祖国」という意識があり、その国の文化を日本人に知ってもらいたいという気持ちは強かった。「ふれあい祭」で出店し、カンボジアに興味をもってもらおうという狙いもあった。
湘南団地の住民にとって、このような外国人による「祭り」への出店は、特別に珍しい光景ではなくなっていた。夏の行事である「団地祭」では、「湘南プロジェクト」でもエスニック料理の屋台を出してきたし(第16回、第23回参照)、ラオス難民の住民たちが「焼き鳥」の店をやるのは、もはや恒例となっていた。ただ、今回のように、10代の少女たちが主体となる屋台は、初めての試みであった。
「ふれあい祭」での「うちら」の屋台は、長机2つとボンベ式のガス台を2つ並べただけの、とても簡素なものだった。テントの屋根も、風よけも無い、「ふきっさらし」の屋台だ。
そんな屋台の背面に、「うちら」が作った模造紙の看板が掲げられた。筆記体で「Harumaki」と商品名が書かれ、「CAMBODIA」という文字もお洒落に入っている。当時「コギャル」の間で流行っていたハイビスカスの真っ赤な花が、上手に大きく描かれていた。「うちら」らしい色とりどりのカラフルな看板が、冬の冷たいコンクリートの団地に映えていた。
「うちら」の看板
「うちら」と「ふれあい祭」の屋台
そんな彼女たちの屋台に、当日は、多くの応援が駆け付けた。「湘南プロジェクト」の中でもヒアンたちと縁の深い長谷川先生(第24回参照)、「子ども教室」のボランティア、そして、プロジェクト代表新原先生の生徒である鈴木君が手伝いにきた。鈴木君は、新原先生の調査研究への関心から、その現場である団地に足を運んだようだった。その他に、他地域に住む二十歳前後の青年たちが、手伝いにやってきた。彼らは、2001年の初めごろから、徐々に「湘南プロジェクト」に顔を出すようになっていたのだが、彼らの様子は、また別稿にて詳しく紹介したいと思う。
応援に来てくれた人たちは、臨機応変に動き、足りない機材や用具をどこかから調達してきて、屋台を整えてくれた。彼らに屋台の枠組みはお願いし、「うちら」は、店の商品である春巻きの準備に取り掛かった。前日に包んだ春巻きを、油の温度に気を付けながら、慎重に揚げていく。
試作品ができると、包丁でいくつかに切り分けて、皆で試食をした。ひき肉ともやし、塩コショウのシンプルな春巻きで、とても馴染みやすい味だった。その後、揚げたての春巻きを、トレーの上で少し冷ましてから、プラスチックのパックに詰めていった。値段は2つで100円とした。
最年長のヒアンが、全体の音頭をとる中、「末っ子」ながらも「しっかり者」のサリカが、脇を締めていく。中学生のサリカが、大学生の鈴木君に、大量の春巻きを一気に揚げるよう指示していた姿が微笑ましかった。その横で、ずっとふざけ合っているアニとサラが、寒空の屋台を、明るく楽しい雰囲気にしていた。
しばらくすると、民生委員の播戸さんが、「うちら」の屋台をのぞきにやってきた。播戸さんは、「湘南プロジェクト」の立ち上げに尽力した民生委員で、団地の催し事には必ず顔を出す人だった(第3回~第6回参照)。
播戸さんは、屋台の手伝いに来ていた面々に、「今日はご苦労様です」と声をかけた。そして、机に並べられた春巻きのパックをじっと見つめた後、少し口ごもってから、「だみ声」の関西弁でこう言った。
「ホントにこんなもん売れるのかね」
そう言った播戸さんの顔は笑っていて、私たちをからかっているようだった。だが、播戸さんの意に反して、「うちら」の顔が、一瞬にしてこわばったのが分かった。私はとっさに、「大丈夫ですよ!! しっかり売りますからぁ」と、おどけた口調で返した。播戸さんは、「そうかね、ま、がんばりやー」と、いつもの笑顔で去っていった。
「末っ子」のサリカが、遠ざかっていく播戸さんの背中に向けて、「なんであんなこと言うの? 信じらんない!!」と、大声で言い放った。「いつもムカつくこと言ってくる。やな奴!!」と叫んで、頰を「むっ」と膨らませた。それまでふざけていたアニやサラも、低い声で相槌を打ちながら、不快感を露わにする。
その一方で、最年長のヒアンが、「でもさ、ホントに売れなかったらどうしよう…」と、弱気な声で不安を口にした。ヒアンのこの時の不安は、「売り上げ」の心配というよりは、「きっと、『お前らにはできない』って、そう思われているんだ」「失敗したらどうしよう」という怖れの方が、大きかったように思う。
ヒアンは、「ふれあい祭」に参加した動機について、「うちらにもできるんだってとこ、バカにしてきたやつらにもみせたい。見返してやりたいと思ってる」と語っていた(第26回参照)。周囲への反骨精神が強くあり、それが翻って、失敗することへの怖れとなっていたように思う。
ヒアンの不安を感じ取った妹のアニが、「あんな人は無視して、うちらで楽しくやろう‼ 楽しんだもん勝ち」と、場を仕切り直した。しかし、アニの顔を見ると、「目をパチパチ」させていた。長い「つけまつげ」が、しきりに上下する。彼女のこの「まばたき」は、真剣に物事を考えている時の仕草だった。
このエピソードをこうして文字にしてみると、「うちら」を動揺させた播戸さんの発言は、少々配慮に欠けたものだったように思う。しかし、播戸さんは、半分は冗談のつもりで言ったのだろうし、「他意は無かった」ということも、追記しておきたい。
播戸さんがこのように、「祭り」の商品に口を出してくるのは、「うちら」に限ってのことではなかった。「日本語教室」の大人たちが「団地祭」で出店する度に、同じように「口出し」をしてきた。「外国の料理なんか人気が無い」「もっと日本人に馴染みのあるものの方がぎょうさん売れるで」「『変わったもん』なのに値段が高すぎる」と、よく言っていたことを思い出す。
湘南団地では、日常的にただよってくる外国料理の匂いに、不満を抱く住民からの苦情が相次いでおり、外国人の作る料理に反感を持つ人もいた。そのような背景をよく知っているので、播戸さんは、カンボジア料理のような外国のものは、「あまり売れない」と言いたかっただけなのだろう。実際に、播戸さんの言葉の通り、「うちら」の「カンボジアの春巻き」は、思ったように売れ行きが伸びなかった。
そもそも「ふれあい祭」には、「買い食い目的」の参加者が少なかった。「ふれあい祭」のメインイベントは、自治会役員による「餅つき」だ。通りに大きなブルーシートが敷かれ、自治会の役員達が、威勢よく臼と杵で餅をつく。そして、つきたての餅にきな粉をまぶして「安倍川もち」にし、住民に配るのだ。「ふれあい祭」に足を運ぶ住民の多くが、この「無料」の餅狙いの人たちだった。
そのため、屋台に関しては、餅を手にした住民たちが、帰り際に「ちらっとのぞいていく」程度だった。出店している屋台も、老人会で作った手芸の作品や、子ども会による手作りのくじ引き、フリーマーケットなどが数店。そのような中で、「カンボジアの春巻き」という食品を扱った店は、異色の存在だったように思う。こうした事情もあって、「うちら」の屋台に立ち止まってくれる人は、なかなか現れなかった。
さらに、春巻き作り自体が難航したことも、売れ行きに影響したように思う。作業の途中で、揚げ物の油が徐々に汚れてきたこともあり、春巻きが「外側は焦げているのに中は生焼け」のような状態になってしまった。また、事前に作り置きしてあったことで、春巻きの皮が水分を多く含み、揚げている間にパチンと「はねる」。こうなると、出来上がった春巻きの「見映え」は、非常に悪くなる。
このような、いくつかの悪条件が重なり、なかなか、カンボジアの春巻きは売れなかった。焦りを感じた「うちら」は、かろうじて売れ行きが期待できそうな「昼時」を目前に、思い切って軌道修正を行うことにした。事前に包んだ春巻きを解体し、新しい皮に、もう一度包み直すという。また、もやしとひき肉の「タネ」を、電子レンジで再加熱し、中までしっかり火が通るように工夫することにした。
アニとサラが、春巻きを解体して中身の「タネ」を取り出し、ヒアンとサリカが、ヒアンの実家にある「電子レンジ」へ何度も走った。長谷川先生などの応援にやってきた人たちは、近くのスーパーを数軒回って、新しい春巻きの皮を調達してきてくれた。そして、手が空いている人全員で、春巻きを包み直した。鈴木君ら揚げ物担当は、脇目もふらず、大急ぎで「新しい春巻き」を揚げていった。
大急ぎで春巻きを作り直す「うちら」
半袖になり春巻きを揚げる応援団
このような紆余曲折があり、「うちら」の屋台は、「順調な滑り出し」とはならなかった。そもそも、立ち寄ってくれる人が少ない中で、稀に屋台をのぞいてくれるお客さんがいたとしても、「生焼け」や「焦げた」春巻きを見て、しかめ面や苦笑いをしながら立ち去ってしまう。中には、大急ぎで作り直している姿を見て、「また後で来るね」と親切に声をかけてくれる人もいたが、結局「それきり」だった。
しかし、「うちら」は粘り強く、お客さんの呼び込みを続けた。新たに作り直した春巻きは、前よりも「見映え」は良くなり、なにより「揚げたて」で、おいしそうだった。「カンボジアの春巻きって、どんなものなの?」と、立ち止まってくれる人が、ちらほらと現れるようになった。「うちら」は、お客さんに春巻きの説明を丁寧にした後、できるだけ「できのいい」春巻きを厳選して、パックに詰めて渡した。
正午をまわると、「お昼のおかずに」と、まとめて買ってくれる主婦層の住民たちが、何人かやってきてくれた。また、「日本語教室」の学習者や、「子ども教室」の子どもたちも顔を見せ、売り上げに貢献してくれた。子どもたちの中には、「親が『たくさん買って来い』って!」と、大量の春巻きを持ち帰った子もいた。そのような協力者のおかげもあり、最終的な利益は、なんとか9000円になった。
今、冷静に振り返ってみると、たった3時間程度の出店だったにも関わらず、これだけの利益が出たということは、大健闘だったと思う。作り直しをして材料費が余計にかかったのに、赤字ではなかったのだ。これは、自分たちが思う以上に、「うちら」を応援してくれる団地住民が大勢いる、ということの証だったようにも思う。
しかし、なぜだかその日は、そのような「前向き」な意味に気づくことができず、屋台終了時には、重苦しい雰囲気が漂っていた。まだ油で揚げていない春巻きも含め、多くの春巻きが、売れ残っていたからだ。
それを見た「うちら」は、口数が少なくなり、9000円の利益が出たことを伝えても、「もう少し売りたかった」と、残念そうにつぶやくのだった。売れ残った春巻きを見つめながら、ヒアンがこう言った。
姉貴(注:中里のこと)、ごめんね、うちら、うまくできなくて。あんま売れなくて。
彼女たちは、「うちらにもできるんだってとこ、バカにしてきたやつらにもみせたい」という想いで、「ふれあい祭」に参加していた。「ホントにこんなもん売れるのかね」という播戸さんに対して、怒りながら対抗心を見せたように、自分たちの春巻きをたくさん売って「見返してやりたい」という気持ちは強かったことだろう。悔しさを口にするヒアンの横で、中学生のサリカは、真っ黒な大きな瞳で一点を見つめたまま、黙ってうつむいていた。
私は、落ち込んでいる彼女たちに、なんと言葉をかけていいのか分からず、うまく返答できなかった。「うちら」の気持ちが痛いほど伝わってきて、その空気に、完全に呑み込まれていた。そして、片付けを始めようと、そろりと周囲を見渡すと、アニとサラの高校生二人が、お互いに「変顔」を見せ合って、ふざけているのが視界に入った。
その姿を見たサリカが、「もー、あの二人、マジでふざけてるよね‼」と呆れ顔で笑った。ついさっきまで、サリカやヒアンたちと一緒に「しょんぼり」していたアニたちは、今はもう馬鹿話をしている。「オメーら、片づけ、ちゃんとやれよ!」と注意したヒアンの顔にも、笑顔が戻っていた。アニとサラの「切り替え」の早さに、その時はとても救われた気持ちになった。
気を取り直した「うちら」は、売れ残った春巻きを丁寧にパックに詰め、応援に来てくれた人たちに、「お土産」として手渡した。スーパーの袋いっぱいに、春巻きが詰められていた。それでも余ってしまったものは、翌日の「湘南プロジェクト」の教室で配り、皆に「お土産」として持ち帰ってもらうことにした。
翌日の教室で「うちら」が配った「お土産」について、プロジェクト代表の新原先生は、日誌にこう綴っている。
帰ろうとすると、ふれあい祭で活躍した女性軍が、昨日の売り物の春巻きだといって、お土産にもたせてくれた。妙にうれしい。
その当時、私はこの「お土産」に、彼女たちの「悔しさ」を感じていた。彼女たちもおそらく、どこか「ほろ苦い」気持ちを抱いていたことだろう。けれど、今になって思い起こすと、彼女たちの「お土産」には、「うちら」の想いやこれまでの「生き様」が沢山つまっていて、それをとても愛おしく感じるのだ。「お土産」を渡された「湘南プロジェクト」の大人たちもきっと、新原先生の日誌にあるように、「うちら」の姿に喜びを感じ、彼女たちの存在を愛おしく思っていたことと思う。
「湘南プロジェクト」が目指していたものは、これまで何度か紹介してきたように、団地で育つ子どもたちの中から、地域社会で活躍する「社会のオペレーター」を育成していくことだった(第16回参照)。しかし、そうした目標や目的などは関係なく、この時は、ただただ、彼女たちのことを愛おしく思っていたのではないだろうか。「地域のために活動を頑張ったから」「計画を立派に遂行できたから」、といった理由など必要なく、「うちら」という存在が、ただ愛おしかったに違いない。
[© Kanae Nakazato]
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