2.「うちら」と自治会の「おじさん」たち
先に見たように、初めての「ふれあい祭」で落ち込んでいた「うちら」に対し、私は「何も言えなかった」と記憶している。しかし、以下のような自分の発言が、日誌には残っていて、読み返した時にかなり驚いた。ただ、そのおかげで、当時の様々な情景を思い出すことができたので、蘇った記憶をたどって、この先を書いていこうと思う。
日誌によると、「ふれあい祭」で悔しさを口にするヒアンに、私はこのように声をかけたようだ。
大変だったけど、お金がどれだけ儲かったかよりも、ヒアンたちが頑張ったことのほうが何よりの財産だよ。「湘南プロジェクト」の先生たちもね、ずっとそれを待っていたんだと思うよ。自治会の沢井さんたちも、きっとびっくりしているはずだよ。
これに対して、ヒアンの返答は、このように日誌に残っている。
そういえば、前は沢井さんに道で会って挨拶しても、不愛想だったけど、最近妙にやさしいんだよね。何かあったら言ってきな! って言ってくれるし。もしそうなら嬉しいよ。
やりとりの中で登場する沢井さんとは、1999年度から団地の「国際部長」を務めている自治会役員だ(第17回参照)。外国籍住民からの生活相談から、「湘南プロジェクト」の会場予約といった細かい雑事まで、一手に引き受けている人だった。
団地自治会長の清水さんや民生委員の播戸さんらと比べると、話し方が穏やかで、温厚そうな笑顔が特徴的な男性だった。プロジェクトの教室に来る子どもたちからも、その豊かな白髭から「ヒゲジイ」と親しまれ、「よしおさん」と「下の名前」で呼ばれたりしていた。しかし、間違っていると思うことに対しては、しっかり「No」と言う人でもあった。
一度だけ、沢井さんが外国人に対して、厳しい口調で話しているのを聞いたことがある。仕事に行かずに外で時間を潰している若者に対し、「フラフラしてちゃなんにもなんない」「そういうのがダメなんだよ。若いんだからちゃんと働きなさいよ。仕事も見つけようと思えばなんだってあるんだから」と注意していた。忌憚なく言う一面があるのだなと、印象深かった。
沢井さんに限らず、「湘南プロジェクト」でかかわった団地自治会の人たちは皆、多かれ少なかれ、「歯に衣着せぬ」発言をする人たちだった。「うちら」に対して「ホントにこんなもん売れるのかね」と言った播戸さんも、「外国人はガメツイ」「自分たちの権利ばかり主張してくる。日本人の方が慎ましい。逆差別だ!」と言って、要求や主張ばかりが「悪目立ち」する外国人に対し、苦言を呈すことがあった。間違っていると思うことに対しては、「ピシャリ」と言葉や態度で示す人々だった。
そういう傾向の人たちなので、ヒアンから「おじさんたちは不愛想だった」ということを聞いても、そこまでの驚きは無かった。自治会の人たちが「うちら」に対して、これまであまり「良い顔」をしていなかったであろうことは、察しがついた。
ヒアンたちは、学校にもあまり真面目に通っておらず、日中フラフラしていることも多い、金髪の少女たちだ。決して「良い子」には見えない彼女たちに対して、自治会の「おじさん」たちは、見守りつつも、「厳しい目」で監視していた部分もあったろうと思う。
しかし、これまで「不愛想」であった「おじさん」たちは、「うちら」が「ふれあい祭」に向けて動き出してから、「妙にやさしく」なったという。そのことに、ヒアンは改めて気づき、そこに何らかの価値を感じ取ったようだった。
「おじさん」たちが「やさしく」なったのは、自治会の人々が「うちら」のことを、団地の地域活動に責任を持って取り組む若者として「認めた」からに他ならない。「うちら」は、春巻きが売れ残ってしまったことを酷く気にしていたけれど、それは大きな問題ではなかった。それよりも、「おじさん」たちに「認められた」ことの方が、重要な意味を持っていた。「おじさん」たちの変化は、周囲を「見返してやりたい」という彼女たちの想いへの、一つの「応え」となっていたはずである。
このようにまとめてしまうと、「『不良』扱いされてきた少女たちが、頑張って周囲に認められました」という物語に終始してしまう。しかし、その当時は私も気づけなかったけれど、この時に「認められた」のは「うちら」だけではなかったことも、書いておきたい。この時同時に起こっていたのは、自治会の「おじさん」たちも、「うちら」に「認められた」ということだ。「うちら」と「おじさん」の間には、相互的な理解が起こっていたように思う。
サリカが播戸さんに対し、「いつもムカつくこと言ってくる。やな奴!!」と悪態をついていたように、彼女たちにとって自治会の「おじさん」たちは、好意的に捉えられない人物でもあった。自治会の人たちにとって「うちら」の印象があまり良くなかったように、「うちら」も自治会の人たちを、厄介で口うるさい「頑固おやじ」としか思っていなかった。
しかし、播戸さんや沢井さんといった自治会活動に関わる人たちは、365日24時間体制で、団地住民の「困りごと」に寄り添ってきた人々だ。外国籍住民と日本人住民の間に立ち、どちらかといえば、相対的に弱い立場にある外国人を擁護しながら動いていた。自分たちとは異なる過去を持つ外国籍や難民の人々の声を代弁し、地域のために尽くしてきた人たちだった。
そのような人々であるのに、「うちら」のような若者たちからは嫌われ、敬遠されていたことを思うと、改めて相互理解の難しさを感じざるを得ない。
少し話が脱線するが、例えば、民生委員の播戸さんに関して、記憶に残るこんなエピソードがある。2004年8月8日の団地祭にて、「子ども教室」の子どもたちが、フリーマーケットを開いた時の話だ。
子どもたちの店のちょうどはす向かいに、テキヤの「輪投げ」の屋台があった。外国籍の子どもたちが店番をしていると、その「輪投げ」屋の女性が、突然怒鳴り込んできた。「子どもたちがうるさい」「ちょろちょろとうざい」「商売の邪魔だ」「代表を出せ!!」とまくし立てた。子どもたちは、特別に騒いでいたわけでも、いたずらをしたわけでもなく、ただ、「いらっしゃい、いらっしゃい!」と元気に店番をし、道行く人に声をかけていただけである。
フリーマーケットと子どもたち
その姿が「目障りだ」という言いがかりに対し、その場にいた私は、精一杯強い口調で応対した。子どもたちが「外国人」でなかったなら、今回のように怒鳴り込んできたかは、甚だ疑問だった。
テキヤとの「言い合い」を見ていた子どもたちは、「俺たち、間違ってないよね? 中里さん」と不安そうにたずねてきた。いつもは、私のことを「おばさん」としか呼ばない子どもたちが、「中里さん」と言って、怯えながら私の陰に隠れた。
その時、民生委員の播戸さんが、何かを察したかのように、屋台の見回りに来てくれた。その日の日誌には、こうある。
播戸さんがやってきて、「調子はどうだい?」と声をかけてくださる。播戸さんに、今起こったことを話す。播戸さんは、何も言わず、すぐにどこかへ行ってしまった。ふと見ると、播戸さんが、集会所の中で、自治会の人々と話をしているのが見えた。
その後、播戸さんがやってきて、「テキヤと自治会関係の屋台が衝突するのは話がまちがっとる。今それを話してきた。来年度からは、テキヤの店の出店を無しにして、自治会のテントだけにすると、自治会の人も言ってくれた。だから安心せーな」と声をかけてくれる。来年度についての「その決定」は、実際には実現しないだろう。けれども、少し泣きそうになった。
播戸さんが話の中で言っている「自治会関係の屋台」とは、「湘南プロジェクト」の「日本語教室」や「子ども教室」のように、自治会活動に関わる人たちが出した屋台のことだ。播戸さんは、そのような自主的な活動を、営利目的のテキヤに妨害されないように、意見を出してくれたのだ。
播戸さんは、その場で起こっていることを瞬時に理解し、全体がより良い方向に行くようにと、黙って動いてくれたのだった。播戸さんの例のように、自治会の「おじさん」たちは皆、地域のため、団地のため、特に理不尽な扱いを受け困窮している外国人やその子どもたちのために、「目立たない」ところで力を尽くしてくれる人々であった。
こうした「おじさん」たちのことを、「うちら」はこれまで、ずっと知らずにいた。「いつもムカつくこと言ってくる、やな奴」が、実際には陰ながら自分たちを守ってきてくれていたということに、これまでは、気づくチャンスがなかったのだろう。しかし、「うちら」は「ふれあい祭」をきっかけに、その事実を、徐々に感じ取っていくようになる。
もちろん、「うちら」がすぐに、「おじさん」たちの全てを理解したという訳ではない。しかし、「おじさん」たちが、気づけばいつも、自分たちの傍にいてくれ、声をかけ、気にかけてくれていることは、以前よりも感じ取るようになった。「妙にやさしくなった」という「おじさん」たちを、より「身近な存在」として認識していったのは確かだった。
「うちら」と自治会の「おじさん」たちのことを思い返していると、こんなエピソードが、記憶の中から飛び出してきた。「ふれあい祭」に「うちら」が参加した、その冬のことだった。
民生委員の播戸さんが、「湘南プロジェクト」の「日本語教室」へ、様子うかがいにやってきた。その日、播戸さんの手には、小さな黒い紙袋があった。それは、当時「うちら」のような「コギャル」の間で流行っていた、「セシル〇クビー」というブランドのものだった。若者向けの洋服や小物を扱っている、人気のショップである。
播戸さんの左手に、白字のブランドロゴが入った紙袋を発見すると、「うちら」は声を殺しながら、「キャーキャー」と奇声を発し始めた。「おじさんが、なんで持ってるのか、姉貴、聞いてきて!!」「自分で買ったんですか? って、聞いてきて!!!」と、大興奮だった。
その後、初老の男性が、「ギャル御用達」のブランドをもっている姿が「カワイイ」とされ、「うちら」の間では、播戸さんの評価は急上昇した。それ以来、播戸さんは「いつもムカつくことを言ってくる、やな奴」では無く、親近感のもてる「カワイイおじさん」として、「うちら」に慕われるようになった。彼女たちは「播戸さん」という名前は覚え無かったが、「セシル〇クビーのおじさん」と言えば、ピンとくるようになった。
播戸さんに対するように、「十代の女子」ならではの独特な感性で、心の距離を近づけたケースもあれば、沢井さんのように、「妙にやさしい」という相手の変化を感じ取って、関わり方を変えていったケースもある。どのような形であれ、当初は猜疑心や反抗心を抱いていた自治会の「おじさん」たちに、彼女たちなりの親近感を持てるようになったのは、「うちら」の大きな変化であった。
「湘南プロジェクト」という場において、互いの見知らぬ側面を知り合うことで、「うちら」と「おじさん」たちの距離が以前よりも近くなっていったのは、間違いなかった。
3.「9000円」の行方
ところで、「ふれあい祭」で「うちら」が稼いだ9000円は、その後どのように使われたのか、行方を追ってみよう。
お金を預かっていた私は、翌日の「湘南プロジェクト」の教室にて、売り上げから材料費などを差し引き、残りの9000円をヒアンに渡した。すると、ヒアンは、教室からわざわざ家に戻り、ピンク色で可愛らしいキャラクターのついた小さな箱を持ってきた。ヒアンは「みんなのお金だから、ここに入れておくね」と、「うちら」に見えるようにして、9000円をその箱にしまった。
大事そうにお金をしまった「うちら」は、それ以降、「湘南プロジェクト」がある日に集会所に来ると、「日本語教室」や「子ども教室」に、徐々に入っていくようになった。それまでは、ずっと「廊下」が彼女たちの居場所だった(第26回参照)。けれど、冬は「廊下」がやけに冷えるということも手伝って、暖かな「教室」で過ごす時間が多くなっていった。
「うちら」は特に、「子ども教室」を手伝うのが好きだった。小さな子どもたちの宿題をみたり、遊び相手として一緒にトランプをしたり、積極的に子どもたちと絡んでいた。中学生のサリカは、定期テスト前になると自分の勉強もしていたが、年下の子の面倒をみる方が楽しいと話していた。そうして、いつの間にか、「廊下」から「うちら」の姿は消えていた。
「子ども教室」に徐々に馴染んでいった「うちら」は、「ふれあい祭」での9000円をどのように使うか、教室の子どもたちにたずねることにした。すると、子どもたちからは、「お姉さんたちと、一緒にでかけたい」という声があがったそうだ。
それを受けて、暖かくなる3月頃に、河原でバーベキューをしようと、「うちら」は計画を立てた。2001年12月7日の日誌には、この時期のヒアンの想いが残されている。
(子どもたちと一緒に何かをすることについて)前からそういうのをやってみたかった。これまでもボランティア活動をしたことはあるが、近くの幼稚園にたまに行って、子どもたちと遊んだりすることぐらいだった。「ボランティア活動がしたい」と思ったのは、難民定住センターに移ってきた時に、25歳前後のお姉さんが、ずっとヒアンたちの傍に寄り添い、学校まで一緒についてきてくれていた記憶からだという。「大きくなったら、うちらもそういうのやろう」と考えていたことがきっかけだった。だから、湘南団地にて、「何か小さな子どものためにやれたらいいなと思っている」と、しっかりした口調で話してくれる。
春が近づいてくると、「うちら」によるバーベキューの話は、徐々に具体化していった。近々、「湘南プロジェクト」の皆に相談しようというところまできており、「うちら」の計画は順調に進みそうだった。
しかし、「うちら」のバーベキューは、そのままスマートな「美談」としては終わらなかった。「湘南プロジェクト」は、いつも予想の少し「斜め上」にゆき、蛇行しながら進んでいく。
それは、本当に突然のことだった。いつものように「うちら」が教室の手伝いをしていると、自治会の「おじさん」から、「3月9日にバーベキューを行う」と告げられたという。「うちら」が計画していたバーベキューとは別に、自治会主催のイベントを行うというのだ。「うちら」の計画とは「別に」と言っても、「イベントの代金は自治会がもつから、好きなようにバーベキューをしてよい」というニュアンスだったようだ。
私はこの頃ちょうど不在にしており、このような内容も、ヒアンたちから電話で聞いた、断片的な情報から再構成している。そのため、かなり内容に偏りはあると思う。しかし、この期間、「うちら」から毎日何本も電話がかかってきて、彼女たちがかなり動揺しているということだけは、手に取るように伝わってきた。
自治会からの「突然の申し出」に「うちら」が動揺したのには、3つ理由があるようだった。まず、「3月9日にバーベキューを行う」と告げられたのは、わずかその1週間前だったこと。突然知らされた上に、準備期間があまりにも少ないことで、「うちら」は慌てた。
2つ目は、バーベキューの規模が大きくなってしまったこと。彼女たちの計画では、「子ども教室」にいつも来ている子ども10名程度と、「こぢんまりとした会」を行う予定だった。しかし、自治会の話では、「日本語教室」の外国人たちや自治会の役員、「湘南プロジェクト」のボランティアも誘って、盛大に行う予定だという。
3つ目は、「うちら」が「リーダー」となって、バーベキューを実行するように言われたこと。想定よりも規模が大きくなった上に、食材や機材の準備から当日の進行まで、「全て任された」ということに、彼女たちは動揺を隠せなかった。
とはいえ、自治会の人たちが、本当に、彼女たちに「全てを任せた」のか疑問だったので、私はヒアンに何度も確認をした。すると、「おじさん」たちに道で会うと、「肉はどうするのか?」「準備は進んでいるのか?」と、しきりに聞いてくるのだという。どうやら、本当に、全体の準備を託されたようだった。
さらに、「おじさん」たちの「突然の申し出」に戸惑っていると、自治会の沢井さんが、皮肉を言ってくるようになったという。最近は好意的に接してくれるようになった沢井さんから、「所詮、君たちには無理だ」と言われ、悲しく思った。しまいには、「いつもダラダラして、しっかりしていない」と頭ごなしに叱られ、「さすがにムカついた」と話す。「おじさん」たちの一方的な態度に、「うちら」は苛つきを隠せないようだった。
このままだと、「うちら」と自治会とのやりとりが難しい様子だったので、当時、「日本語教室」の手伝いをしていた中村君(第20回参照)に間に入ってもらい、バーベキューの段取りの調整をしてもらうことになった。その結果、全体的な指揮は、自治会の人々がすることとなり、ヒアンら「うちら」は、指示されたことに対して動くという形に落ち着いた。
バーベキュー当日、彼女たちは、肉や食材の買い出しにゆき、野菜などの下準備を頑張ったと聞いている。バーベキューは、外国人の大人や子どもたちでにぎわい、盛況のうちに終えることができたそうだ。
「うちらは全然食べれなかった」「たんたんと働き続けた」というヒアンらも、「大変だったけど、うちら頑張ったよ!!」と、清々しい報告をしてくれた。今回のバーベキューは、当初「うちら」が計画していたような、楽しいものとは「似て非なるもの」だったと思う。しかし、彼女たちは、どこか誇らしげで、満足している様子だった。自治会の「突然の申し出」で、自分たちの計画が頓挫してしまったことに不満が溜まっているのではと危惧していたけれど、それは私の杞憂に終わった。
この時「うちら」は、自治会の「おじさん」たちの想いを、ぼんやりながら感じ取っていたのではないかと思う。「自治会の『おじさん』たちの想い」と言っても、直接彼らに聞いたわけではないので、これは完全に私の憶測にすぎない。しかし、「おじさん」たちの「突然の申し出」の裏側は、おそらくこういうことだったのではないだろうか。
外国人の少女たちが、子どもたちのために、バーベキューを計画しているようだ。「ふれあい祭」で稼いだ9000円を使うと言っている。その気持ちが嬉しいじゃないか。自治会としても、協力をしてやりたい。3月にバーベキューをやると言っているから、その時期に、自治会費から費用を捻出して場を設けよう。沢井さん、あんたから彼女たちに準備をするよう伝えてくれ。「金はこっちが持つから心配するな」と。
いずれにせよ、自治会の人たちが、自治会費を使ってバーベキューを開いてくれた事実には変わりがない。9000円を使わせないようにと、自治会の人々が配慮してくれたことは確かだった。そのことは、「うちら」も分かっていたのだろう。また、金銭的なことに限らず、「うちら」に全て任せることで、彼女たちの「活躍の場を作ってやりたい」という気持ちがあったことも、彼女たちは感じ取っていたのではないだろうか。
こうして、結局使わずに残った「ふれあい祭」の9000円は、翌年まで、小箱にしまって大事に保管された。そして、また冬が訪れると「うちら」は、「子ども教室」へ贈る「クリスマスケーキ」の代金として、9000円を使うことにした。彼女たちは、団地の近くのケーキ屋で、ホールケーキを3つ購入した。自分たちよりも小さな子どもたちへ「何かしてあげたい」という想いを、ケーキにのせて届けた。
他者に対する想いのある「うちら」であるからこそ、「おじさん」たちが与えようとしてくれたものも、ちゃんと理解できていたのではないかと思う。もちろん、自治会の「おじさん」の「勝手に付き合わされた」という感覚も、多少は残っていたとは思うけれど。
バーベキューという、自治会の「おじさん」たちによる「うちら」への、半ば強制的な「歓迎の宴」を機に、彼女たちはより積極的に、自分たちの居場所を作っていくようになった。「湘南プロジェクト」の「一員」としてミーティングに参加したり、「子ども教室」の手伝いをしたり、「団地祭」や「ふれあい祭」などで活躍をしていった。「うちら」のこうした躍進については、また別稿にて、改めて書きたいと思う。彼女たちは、「おじさん」たちの無骨だけれど想いが込められた「歓迎」を「礎」に、さらなる自己表現をしていったのだ。
ヒアン、アニ、サリカ、サラというカンボジアの「うちら」と、自治会の「おじさん」たちを含む「湘南プロジェクト」の出会いは、若い葉っぱが「吹き溜まり」に落ちてきて、徐々に馴染んでいく様子に似ていた。最初は、青々としてとがった葉が、少し湿り気を感じさせる「吹き溜まり」の上に落ちてくると、色味や質感の違いによって「浮いた」感じになる。けれど、次第に青葉の端が「吹き溜まり」と混じり合い、完全な同化はしなかったとしても、最初ほどの違和感は無くなっていく。そして若い葉は、何層にも重なった古くて豊かな「吹き溜まり」を土壌とし、強い生命力で、そこに「不定根」を生やすのだ。
[© Kanae Nakazato]
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