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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第30回 もう一つの不定根―「Rの会」の青年たち(2)

    3.「Rの会」

     ヤマたちは、自分たちの活動に「Rの会」と名付けていた。会を作ったのは上述したヤマ・ヒデ・スー・パチの4名だったが、それ以外のメンバーもいたようだ。ただ、誰がメンバーなのかは、最後までよく分からなかった。おそらく本人たちも、その境界線をあまり気にしてはいなかったと思う。

     彼らと過ごす中で、私が出会った青少年は、中学生から二十歳前後の若者を中心に、男女合わせて20名強だった。この人たちが皆、「Rの会」のメンバーだったのかは分らないが、お互いに、ゆるくつながっているという感じだった。彼らは、インドシナ難民や南米、中国、台湾、フィリピンからの移民、在日韓国・朝鮮人などと、国籍は幅広く、住んでいる地域もバラバラだった。

     ヤマたちは「Rの会」の結成のいきさつを、当時、かながわ国際親善協会が主催していた「多文化キャンプ」と絡めて語る。「多文化キャンプ」とは、神奈川県内の外国籍の子どもたちが集うキャンプであり、「Rの会」にかかわっている青少年の殆どが、その参加者だった。

     「多文化キャンプ」は、外国人の子どもたちに、とても人気のあるキャンプだった。年に一度のこのキャンプを、心待ちにしている子も多かったと聞く。特に、1998年以降、キャンプの企画運営を任された青年たちは、キャンプが子どもたちの心の居場所になるように、準備に力を尽くしていた。ヤマやヒデも、この仲間の一員だった。国籍を越えて人々のつながりを深めていく「多文化キャンプ」は、外国人支援や多文化共生に関心のある人々から注目され、マスコミにも取り上げられるようになった。

     だが、その一方で「多文化キャンプ」は、回を重ねるごとに、その内容が変化していったという。ヤマによると、キャンプの内容が精緻化されればされる程、企画者の考案したプログラムに子どもたちを「従わせる」ということが多くなっていった。いつの間にか、計画通りにキャンプを遂行することが目的になってしまい、参加する子どもたちの気持ちや自主性に対する配慮が薄まっていったという。

     そのような方向性に疑問を持ったヤマは、これまで一緒にやってきた仲間たちに、「なんか違うんじゃない?」と問い続けた。「多文化キャンプ」全体の方向性を変えることはできなかったが、ヤマの声に賛同したヒデ、スー、パチが、これまでの仲間とは袂を分かち、2000年に「Rの会」を結成した。翌年2001年に、彼らが「多文化キャンプ」に参加した際には、キャンプに参加した子どもたちが抱いている疎外感や違和感を代弁するように、「このキャンプはおかしい」と声をあげたという。

     それ以降、「Rの会」は、4人のメンバーを中心として、つながりを広げていった。しかし、彼らは、社会的に注目を浴びていた「多文化キャンプ」に対して、批判的な立ち位置にあったこともあり、外国人支援の「メインスーリーム」からは、どこか「外れた」存在になった。

     ただ、批判的な意識で「古巣」を去ったからといって、すぐに「これが自分たちのスタイルだ」と代替案を示せるほど、彼らは器用な人々ではなかった。とても愚直な彼らは、外国人支援という「ボランティア」界の「端」にいる者として、何をすべきかいつも悩んでいた。「多文化キャンプ」での反省を活かし、「そうではない」何かを目指して、常に迷い迷い活動していたという印象がある。

     ここに、当時の「Rの会」が開いた「集会」のミーティング記録がある。2001年11月11日の記録だ。彼らが精力的に活動を続けた2005年までの間に、改まったミーティングを行ったのは、私が知る限り「これきり」だった。この時集まったのは、ヤマ、ヒデ、スー、そしてリンリンという台湾人と、川崎市と大和市、相模原市のそれぞれでボランティア活動をしている若者6名、そして「湘南プロジェクト」の私という面子だった。

     このミーティングの記録をたどっていくと、ヤマたちが何を考え、どのような想いで活動をしていたのか分かると思うので、少し詳しく紹介したいと思う。

     ヤマが作ってきたレジュメは、下のようなものだった。ここに書かれている「7月から11月までの活動報告」には、彼らが参加した各種のキャンプやイベントが列挙されており、その参加者が括弧内に記載されている。これを見ると、少なくとも、7つの支援団体との関りが示されている。

     

    Rの会集会・・・

    その壱、7月から11月までの活動報告

    七月、インドシナキャンプ参加(ヤマ、ヒデ、スー、パチ)

      ヨッカの会イベント参加(リンリン、ラー、マニエン)

    八月、ふれあいキャンプ参加(ヤマ、ヒデ)

      「多文化キャンプ」参加(ヤマ、ヒデ、スー、パチ)

      プロジェクトパチⅡ(補足:パチ中心の相模原市の子どもたちとのBBQ)

    九月、相模川クリーンプロジェクト(補足:Rの会主催のイベント)

    十月、湘南団地社会見学(ヤマ、ヒデ、スー、パチ、ワミリーと友達)

    十一月、YYECさわやかフレンドキャンプ(ヤマ)

      イアンの会キャンプ(ヤマ、ヒデ、小林)

    その弐、今日話し合いたいこと

    相模川クリーンプロジェクトの反省点を活かして…

    何かやろう!

    その参、

    フリーマーケット

    場所によってですが地域の中高生たちに手伝ってもらう!!!!

     

     このレジュメを元に、ヤマが話をしていた内容のメモ書きを見てみる。それによると、7月から11月までは、「会」としての活動はおろか、ミーティングもできず、活動内容は個人的なものに留まってしまったという。ヤマは、集まりを持てなかった「わけ」を話して反省していたが、横で聞いていた私は、その「理由」にこそ、とても強く惹かれていた。

     「Rの会」は、しばしば、メンバーの直面している個人的なトラブルによって、活動を中断していたようだ。例えば、「リンリンの個人的な問題」から、ミーティングができなかったという。リンリン本人によると、「この半年、『失踪』していた。親と喧嘩をして、家出をした。そのため、皆とも連絡を絶っていた。近いうちに、自立して、引っ越すことが決まった。今は落ち着いたので、集会に来られた」ということだった。

     また、リンリンの他にも、「パチの事故処理」ということも話題に上がった。詳しい内容は話されなかったが、軽犯罪も絡んだ深刻な事故だったようだ。外国籍の青年や少女たちがどこかで事件に巻き込まれたり、自ら引き起こしたりすると、その現場に、いつもヤマたちは駆け付けていたことを思い出す。そして、巻き込まれたメンバーが落ち着くまでは、会としての活動は、後回しになるのだった。

     私はこの話を横で聞きながら、「Rの会」は、特定の拠点を持ったり、定期的で計画的に行うような活動を続けたりすることは、不可能なのだと思った。先に見たような「ボランティア」らしくないボランティア活動にもつながってくることだが、彼らは、メンバーや関わりのある子たちが、予測不可能な事件や出来事に巻き込まれた時、その子たちに「寄り添う」ことを何よりも優先していた。その結果、「会」としての活動は、「形」を持てなくなったのだと思う。

     「形」を持たない代わりに、彼らのフットワークはいつも軽快だった。誰かの力を必要としている子たちに、いち早く寄り添えるのは、彼らだったのだろう。だからこそ彼らは、子どもたちや青少年からは、とても慕われていた。また、「現場」で活動をするボランティアたちも、「形」を持たない彼らだからこそできるそのような活動を信頼し、地域で見守ってきた大切な子どもたちを、彼らに託すこともできたのだ。

     ただ、ヤマによると、そのような信頼に比例するかのように、「Rの会」に向けられる「期待」も、徐々に増えていったという。様々な現場に顔を出すたびに、「うちの現場にもっと来てほしい」「今度、何かやってよ!」と期待されるようになった。ヤマは「正直、どうしたらいいのか分からない」と、よく悩んでいたことを思い出す。

     ヤマが作ったミーティングのレジュメにも「何かやろう!」と書かれているように、「周囲の期待に応えたい」という気持ちは、少なからずあったのだろう。また、「会」として何か「形」に残るものを行い、「遊びの延長」「子どもを集めて騒いでるだけ」という愚弄にも、なんとか抵抗したいという気持ちもあったように思う。

     だから、「Rの会」は、地域の支援「現場」を巡回するという日常的な活動の他にも、自分たち独自で、参加者の親睦を深めるイベントを企画したりしていた。私も一度、このレジュメにある「相模川クリーンプロジェクト」に参加したことがある。相模川の河原を掃除しながら交流を深めようというイベントだった。参加者は全部で21名、そのうち高校生以下の子どもたちは10名だった。

     この時のイベントを振り返って、「Rの会」のミーティングでは、このような話がなされていた。少し長くなるが、当時話されたメモが残っていたので、ここに記録を残しておきたいと思う。

     

     ヤマ:今後の「Rの会」の方向性を考えるために、まず、この場にいる多くの人が参加した「相模川クリーンプロジェクト」へのダメ出しをしてみたい。

     スー:最初、このプロジェクトを企画したのは、相模原の子どもたちが「何かやりたい」と言っていたから。「キャンプがやりたい」とは言っていたが、もう少し実現可能な小さいイベントを考えてみた。相模川は最近汚れてきているので、ゴミ拾いをしてバーベキューをやったらどうかと思った。でも、前日の台風でゴミが全て流され、無くなってしまったのが痛かった。

     川崎市ボランティア:子どもが少なかったなあというのが、大きな反省点だと思う。話をするのが好きな子どもたちも多かったはずなのに、ゴミ拾い&バーベキューのみで終わってしまい消化不良という感じ。

     ヤマ:当初のコンセプトは、子どもというよりは、外国人の高校生と社会人を対象にしたイベントを組んでみることだった。彼らに「社会を知る」ための色々な体験をさせてやりたいと考えている。

     大和市ボランティア:参加した大和市の高校生が、地元の教室に戻ってきて、この教室でも何かやってみたいと言い出した。外に出て、「現場に持ち帰る」ということができたのではないかと思っている。

     ヤマ:今回ミーティングに来てくれたメンバーのように、各地域の現場に関わっている人間と、そうではなく俺らのように移動する人間が集まって、一体何ができるのか考えてみたい。今後の活動のコンセプトとしては、物理的な境界移動や様々な出会いを通して、「精神的な境界を乗り越える場」を作っていくことと、仮定してみるとどうだろう。

     川崎市ボランティア:「場」という言葉では、キャンプやイベントなどに活動範囲が狭まるし、そのような「場」に対するあらかじめ想定していた「意義」、例えば「~を学んで欲しい」に縛られてしまうのではないか。

     相模原市ボランティア:「精神的な境界を越える」ことは、単に、出会いの「場の提供」だけでは実現できない、越えられない部分があるんじゃないか。

    ヤマ:これまで、イベント後などにあまり子どもたちと反省する機会が無かったように思う。大切なのは、そのイベントの意味を子どもたちが考え、自分の場に持ち帰ることかもしれない。また、イベントの反省会に限らず、「話す場」「話せる場」「語る場」というものが、日常的に不足しているように思う。

     相模原市メンバー:「場の提供」としてイベントを、「話し合いの場」として反省会をという二つの場の提供をしていくのはどうだろう。

     ヤマ:しかし、「話せる場」というのは自然な到達点であって、それを段階的に作り出すのは難しい。子どもたちが心を互いに開いていない状態にあるときに、そうした場を意図的に作ろうとするほど暴力的なことはない。色々な試みの「意図せざる結果」として、「話せる場」ができていた、という方がいいと思う。

     相模原市ボランティア:「場の提供」ではなく、個々人がそれぞれに、それぞれの仕方で意味を持ち帰るための「材料の提供」ということをコンセプトにして、活動を柔軟な形に保っていくのはどうだろうか。

     川崎市ボランティア:子どもたちが自由に意味を持ち帰ることはいいと思う。意味づけを強制しない。たとえ、相模川クリーンプロジェクトで子どもが感じたことが「自然の中にいると落ち着く」であったとしてもいい。それは管理の枠から抜け出したいという抵抗の力を養うことにつながるから。

     ヤマ:具体的な「材料」として、各現場の協力をもらいながら、様々なイベントをやっていく。そうしたイベントを利用して、時差的に他地域の子どもたちを各地域に連れていく。そこで新たな出会いが生まれるかもしれない。

     

     ミーティングで「心を開いていないのに『語れ』ということほど暴力的なことはない」と語っているように、彼らは外国人の青少年に対する接し方について、いつもストイックに考えていた。

     「暴力的」と表現している内容とも通じることだが、彼らは、表面的には「その子たちが自主的にやっている」ように見せながら、本当は自分たちの評価を得るために、彼らをうまく使ってしまうことに非常に敏感だった。特にその点は、「Rの会」が「多文化キャンプ」と決別するきっかけとなった部分でもあったから、すぐに「正解」は導きだせないとしても、常に自覚的であろうという意識は強かったように思う。

     このミーティングの最後で、スーが「いずれは、キャンプもできるといい」と言っているが、残念ながら、その夢は実現できなかった。キャンプやイベントを企画運営することよりも、問題を抱えていたり、居場所が無かったりする子たちに「寄り添う」ということを、優先してきたからだろう。その優先順位のつけ方に、彼らなりの「正解」があったのではないかと思う。

     「Rの会」はその後2005年くらいまで、神奈川県の支援「現場」を回って、外国人の青少年に寄り添い続けた。それは、とても地味で、地道な活動だった。けれど、そんな「Rの会」に救われた青少年や子どもたちは、神奈川のあちらこちらに、大勢いたに違いない。

     

    4.もう一つの不定根―「北条さん」という土壌に生きる

     「Rの会」はその後、スーとパチが中心となって、2003年に外国籍の青少年によるサッカーチームを結成した。スポーツを通じて、外国人の支援の枠からは「はみ出して」しまうような青少年の居場所を作ろうとしていた。そして、そこには外国籍というカテゴリーにとどまらず、社会的に生きづらさを感じている若者が集うようになった。

     その頃の様子を、当時の日誌から紹介してみたいと思う。日誌は、2004年1月4日のものだ。

     

     午後3時過ぎにヤマからメールが入る。世間はまだ正月なのに、相模川の河川敷でサッカーをしているのだという。寒いので観戦にはいかず、夕飯から合流することにする。ファミレスの一番奥の席を、ヤマたちが20名前後で占領している。

     その中に、湘南団地でも「ワル」として有名であった佐藤君がいた。金髪だった髪の毛を黒くし、トレードマークであったサングラスもせず、ヤマたちに、ひたすらドリンクバーのお茶を運んでいる。最初は誰だか分らなかったが、「もしかして佐藤君?」と声をかけると「そうっす、お久しぶりです」と返してくれた。彼は、引っ越しのアルバイトをし始めたと話してくれる。いつの間に、ヤマたちは彼を仲間にしたのだろう。

     帰り道、ヤマに、佐藤君をどのように誘ったのか聞いてみる。当時、佐藤君はラオス人の少年にくっついて、サッカーの練習をよく見に来ていたそうだ。最初はずっと「斜に構えて」いて「サッカーは馬鹿らしい」と言い、仲間に入ろうとしなかった。しかし、スーとパチの家で呑んでいる時に、全員で叱ったのだそう。フラフラして、外国人を「くいもの」にする佐藤君を、スーやパチが滅茶苦茶に叱り倒したという。あまりの叱責に、佐藤君はビビッて、その時食べようとしていたカップラーメンに、一切口をつけなかった。「のびるから食べてよい」と言っても、食べようとせず、ただひたすら反省していたそうである。それ以来、サッカーの練習に加わるようになったという。

     

     このエピソードに登場する日本人の佐藤君は、当時17か18歳だったと記憶している。「湘南プロジェクト」の教室にも何度か顔を出したことがあった。佐藤君が、湘南団地の外国人の知人の家に、数か月、居候をしていた時のことだ。当時彼は、外国人の友人や知人の家を渡り歩いていたという。外国人の一家は、「まだ子どもだから」と、無償で佐藤君の面倒をみていた。しかし、数ヶ月経っても何もしない彼を、さすがに見るに見かねて、教室に連れてきたのだ。教室の皆で、求人募集の雑誌やチラシを見て、佐藤君の仕事を一緒に探した。その後、佐藤君は、湘南団地からフラッといなくなり、姿を見せなくなった。そして、いつの間にか、「Rの会」のスーやパチたちと伴に生きていたのだ。

     彼がどのような事情で、外国人の家を、転々と渡り歩いていたのかは分からない。けれど、帰る家もなく、生きる術もまだ身に着けていなかった10代の青年にとって、「Rの会」との出会いは大きかったことだろう。「Rの会」は、その子がすぐに心を開いて打ち解けられなかったとしても、辛抱強く居場所を与えてくれる。そして、ある時には、本気で叱ってくれる。そんなスーやパチたちとのつながりは、彼の生き方に影響を与えたに違いない。

     スーやパチたち自身も、かつて、いつも傍にいて、叱ってくれるような大人との出会いがあったという。「湘南プロジェクト」の創設にも関わった、ボランティアの北条さんとの出会いである(第10回参照)。北条さんは当時、相模原で、外国人の子どもたちや青年らの居場所づくりをしていた。ボランティアは北条さんだけというような、本当に小さな教室で、どちらかというと、外国人の子どもたちが自主的に集まって何かをしている、自助的な場だった。

     いつも歯に衣着せぬ口調で、「やんちゃ」をした子どもたちを「おしおき」する北条さんは、当時人気だったテレビアニメからとって「セーラー〇ーン」と呼ばれていた。アニメキャラのようにハーフアップこそしていなかったが、腰まである長い黒髪がとても印象的な北条さんは、多くの子どもたちから慕われていた。

     叱られることを覚悟で、自分の悪事や、自分ではどうしようもなくなった問題を相談に行く。彼女は叱りながら、必ず手を貸し、少年鑑別所にいる青少年らの面会にも、度々出かけていくのだった。

     スーやパチは、この北条さんの教室のOBだった。そして「Rの会」も、頻繁にこの教室には通っていて、「Rの会」のリーダー格だったヤマは、時々北条さんに叱られることもあったという。ヤマが今後の活動について相談をもちかけると、「細かいことをごちゃごちゃ考えすぎ。ちょっと、頭おかしいんじゃないの?」と言われ、「へこんで」いたことを思い出す。かなりこっぴどく言われたのだろう、ヤマはその後、数日間落ち込んでいた。しかし、北条さんが言いたかった真意は、おそらく、こういうことだったんじゃないかと、今は思う。

     

     細かいことなんか気にしてないで、色々おやりなさい。おかしな時は、私が叱ってあげるから。だから、安心して、あなたが好きなように動けばいいのよ。

     

     「Rの会」は、このような北条さんの見守りの中で、外国人の青少年に寄り添う活動を続けた。そして、「Rの会」の活動の根幹には、「何かあればすぐに駆けつける」、ダメな時にはしっかり「叱る」という、北条さんが持っていた精神と同じものが存在していた。

     そんな「Rの会」が、活動をコツコツと続けていた2005年、北条さんは突如、この世を去ってしまった。北条さんが闘病生活となった時、多くの外国人の子どもたちや若者が、彼女の病室を訪れたと聞く。体は相当しんどかったはずなのに、私のような者の見舞いも受け入れてくれた。彼女は最期まで、生きづらさを抱える外国人の若者たちに心を寄せていて、彼らについてひとしきり話した後、「これからも、よろしくお願いね」と握手をしてくれた。

     彼女の葬儀には、日本人や外国人という国籍は関係なく、数百名が参列した。その中には、北条さんと志を同じくする、外国人支援に携わる人々の姿もあった。北条さんが湘南団地に通っていた初期の頃、一緒に活動していた住吉さん(第11回参照)。また、湘南団地の自治会役員の沢井さん(第17回、28回参照)や湘東高校の長谷川先生(第24回参照)、それから新原先生といった、「湘南プロジェクト」に関わる人々も集った。

     その日の「Rの会」のことが、日誌に書き留めてあったので、少しだけ載せておく。

     

     北条さんの棺がある場所に行くと、そこは先ほどの喧騒が想像できないほど静かで、ほとんど人がいなかった。外国人の子どもたちが抱き合って泣いている。気が付くとヤマが後ろに並んでいて一緒に北条さんの顔を見た。ヤマは手に持っていたものを足元において、しっかり合掌した。ハンカチで真っ赤になった顔を覆い、泣いていた。

     パチやスーたちが、その後に続く。パチへ「ハンカチ、もってる?」とたずねると「俺は今、風邪をひいているから、泣かない、大丈夫」という、「とんちんかん」な返事をした。気づくと私はまた外に向かって歩いていた。その途中、先ほど声をかけたばかりのパチとスーが、人の気配の全くない階段の踊り場で、うずくまって泣いていた。声をあげて泣いていた。

     会場に戻り、放心しているヤマに声をかけると、ヤマは急に意識を取り戻したかのように、隣で声をかけた私を「佳苗さんはどこだ」と探し出した。誰もが混乱している。 

     帰り際、外の駐車場へ出るなり、パチが「ああ、北条さんに、もっとこれから叱ってもらいたかったんだけどな!!」と大きな声で叫ぶ。パチとスーが、「あの写真にはやられた」と、北条さんの遺影について語り始めた。あの写真は、初めてパチたちが、北条さんに出会ったキャンプで撮られたものなのだそう。だから、その遺影を見るなり、どうしようもなく悲しくなったのだと語っていた。

     

     「Rの会」のスーやパチは、北条さんと「多文化キャンプ」で知り合ったのだそうだ。まだ、彼らが中学生の頃だったという。そこから、北条さんの相模原の教室に顔を出すようになった。その縁が後に、ヤマやヒデとの出会いにつながっていったという。

     私が北条さんを思い出す時はいつも、「湘南プロジェクト」の最初の「子ども教室」の場面が蘇ってくる(第14回参照)。最初の「子ども教室」は、「来るな」と言われているのに来てしまう子どもたちを集めて、北条さんが即席で作ったものだった。「『帰れ』とは言えないでしょ」と言って、集会所の片隅にホワイトボートと机を並べ、子どもたちを迎え入れた。子どもたちが大人用の大きな椅子にちょこんと座り、北条さんを囲んで、目を輝かせながら漢字の勉強をしていた。その時の光景が、今もはっきりと蘇ってくる。

     この葬儀の直後、湘南団地のヒアンは、こんな手紙をよこした。ヒアンたち「うちら」は、北条さんとの直接的な面識は無かった。しかし、「Rの会」や「湘南プロジェクト」の皆が、今たちあっている悲しみに、自分も寄り添いたいと言って、「病室」からメッセージを送ってくれたのだ。その時は、ヒアン自身が、仕事や生活の重圧から病に侵され、数か月入院をしている状況でもあった。

     

     昨日パチたちがお世話になった先生のお葬式があったってきいたよ。どんな人かあいたかったから残念だよ。うちもさ、お葬式って行ったことなくてさ。すっごいお世話になった先生がいて亡くなってさ。死を認めたくないのもあっていかなくてさ。ばかだよね。今、後悔してるんだ。ありがとうも言えないなんて失礼だなって。退院したら(墓参り)に行く予定だよ。

     

     この悲しい別れの後、ヒアンたち「うちら」は、「湘南プロジェクト」の「子ども教室」を最初に作ったのが、北条さんだったことを知った。この頃はもう、「うちら」は湘南団地からは去っていたのだが、自分たちが関わった「子ども教室」のルーツを知り、それを慈しんだ。

     このように振り返ってみると、北条さんは、皆をつなぐ「糸」のような存在だった。北条さんが、「湘南プロジェクト」という「生きた『吹き溜まり』」に、即席の教室を作ったことが、後に「うちら」という「不定根」を生み出すきっかけとなった。また、北条さんが大切に育てた「Rの会」も、2002年4月に「湘南プロジェクト」のメンバーとして名簿登録をし、湘南団地の「吹き溜まり」のもう一つの「不定根」となった。湘南団地の「うちら」や子どもたちは、そんな「Rの会」との絡み合いの中で、影響を受けながら、若いエネルギーを発動させていった。

     勿論、「Rの会」といった若い人たちを見守り育てたのは、北条さんだけではない。ただ、「北条さん」のような役割を果たしてこの世を去った人たちが、この神奈川には、少なからずいたはずである。彼らのような存在について書き残しておきたいと思い、ここでは「Rの会」とのつながりの中で、北条さんの物語を紹介させてもらった。

     これまで見てきたように「Rの会」は、北条さんの持っていた姿勢や想いを引き継ぎ、支援の「現場」や地域において、寄る辺の無い子たちの居場所を作り続けた。そして、湘南団地の「うちら」にとってそうであったように、多くの青少年に寄り添い、彼らの「心の支え」となった。「Rの会」のような新しい「不定根」たちは、たとえ最初にあった葉が朽ち果てて「吹き溜まり」の土となったとしても、それを豊かで肥沃な土壌とし、その後もたくましく根を伸ばし続けたのである。

     

     

     

     

     

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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