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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第32回 「祭り」へのいざない─「湘南プロジェクト」の「終わり」(2)

    4.若者たち「の」取り組み

     さて、これまで日常的な場面でみられる「湘南プロジェクト」の「成果」を見てきたが、最後に一つだけ、湘南団地で育った子どもたちの成長を書き残しておきたい。これまでも、カンボジアの「うちら」が参加した「祭り」について紹介してきたが、2002年の夏はさらにパワーアップし、彼女たちは「湘南プロジェクト」を巻き込んで、自分たちの活動の場を創出していった。

     2002年の「団地祭」は、サリカやヒアンらカンボジアの「うちら」が、エスニック料理の屋台を担当することになった。また、この年は、「うちら」とは少し「毛色」の違う、ラミとユリア、そして、ユリアの妹のヨシミも、その仲間に加わった。

     自称「プー」のラミたちが、祭りに参加することになったきっかけは、サリカによる声かけだった。ラミたちはいつも、「団地祭」の相談をする「うちら」のことを、遠くから眺めていた。そんな彼女たちに向かってサリカが、「オメーらもなんかやれよ!」と、「野太い」声で誘ったのがきっかけだった。「だるい」「うざい」「めんどくせ」が口癖のラミたちではあったが、サリカの呼びかけに、「まんざらでもない」態度で応えたのが印象的だった。

     そして、蓋を開けてみれば、この年の「団地祭」は、ラミとユリア、ヨシミが中心となって、屋台を回すことになった。以下は、2002年8月9日、「団地祭」前日の様子である。

     

     今日はユリアやラミから電話がきて、明日の打ち合わせをしました。彼女たちは今日、ハムを買い出しに行ってくれたそうです。油などのことも心配してくれ(一応こっちが用意したけれど)、正直、彼女たちが自ら考えて動いてくれるとは思ってもみませんでした。また、大量のジャガイモも、明日までに、彼女たちがゆでておいてくれるそうです。きっと、今頃、ようやく、ゆで終わった頃だと思います。また、彼女たちは張り切っていて、明日は8時半に、集会所の前で待機していると言っていました。こちらが遅れたら殺されそうな雰囲気です。

     

     2002年度の「団地祭」では、かつて売り上げの良かった南米料理である、エンパナーダ(第23回参照)を売ろうという案が出た。しかし、エンパナーダを作るのは、カンボジアの「うちら」だけでは難しいので、南米出身のユリアの協力を求めることにした。

     ユリアは、幼少期はボリビアで過ごし、日系人の父親の「つて」で日本に移住した。スペイン語を巧みに操り、読み書きもできる。日本の高校へは進学せず、夕方ごろ起きてきて、借りてきたビデオを見るという生活を送る。夜はラミやヨシミを誘って、クラブへ繰り出す毎日だった。

     そんなユリアの母は、「日本語教室」の開設当初から教室に通い、外国籍住民が主体となった教室の創造に力を注いだ人だった(第21回参照)。彼女は、普段は「フラフラ」しているユリアが、「団地祭」にてエンパナーダの屋台をやることを心から喜んでいた。ユリアたちに向かって、「当日、エンパナーダの皮を作ってあげるけど、『タネ』の準備はよろしく」とスペイン語を交えながら話し、ウインクで応援の気持ちを送っていた。

     2002年8月10日、「団地祭」当日の屋台には、「8時半に待機」の言葉通り、ユリアとラミ、そしてヨシミの姿があった。ジャガイモで作られたエンパナーダの「タネ」を、大鍋一杯に抱え、「センセェ、うちら寝ずに頑張ったんだけど」と、ユリアが言った。ラミは、「準備はうちらがやったんだから、後はやってよね!!」と、少し「切れ気味」の口調で叫び、屋台の傍にある階段にベタっと座り込んだ。そして、手伝いに来ていた「Rの会」のヤマたちや、男子大学生のボランティアに、階段の上から野次を飛ばし、楽しそうに「こき使う」のであった。

     

    階段でおしゃべりする「うちら」

     

     一方、ヒアンたちカンボジアの「うちら」は、ユリアやラミたちによる屋台の「黒子」に徹し、こまごまと動いていた。そして、「うちら」の末っ子である中学生のサリカは、同級生を集めて、新しい試みに挑戦した。2002年8月2日の記録を振り返ってみよう。

     

     8月3日に集うメンバーは今のところ以下です。中村・鈴木・ヤマ・スー・ヒアン・アニ・サリカ・サラ・ユリア・ヨシミ・ラミ。13時に団地集会所前に集合します。「ダンスの練習組」と「買い出し組」に分かれます。「練習組」は、サリカの指導のもと、集会所の和室で17時までダンスの練習です(長い)。「買い出し組」は、スー& ヤマと、中里のグループに分かれて、色々と買いに行く予定です。16時くらいから、ユリアたちはデートだということなので、その前には買い出しを終わらせて、残った子たちと一緒にお茶をして解散、という流れになると思います。

     

     この記録にある「ダンスの練習組」というのは、サリカ、ラミ、ヨシミの中学生によって結成されたダンスチームのことである。彼女たちは、「団地祭」のカラオケ大会や婦人会の「フラダンス」などが披露されるイベントステージにエントリーし、創作ダンスを披露するという。実は昨年も、サリカとヨシミが友人と3名で出場予定であったが、友人が直前にドタキャンしたため、「2人でむなしくダンスを披露した」と語っていた。

     今年はそのリベンジとして、団地自治会に自ら交渉し、出場権を獲得したのだという。また、「うちらだけではつまんない」ということで、「Rの会」や男子中高生にも声をかけたが、なかなか共演者が決まらなかった。結局、ボランティアの鈴木君と中村君が、その呼びかけに応えることになった。鈴木君は、上述したように、「うちら」の「ふれあい祭」以降、湘南団地でボランティアをしており、中村君は、日本語教室の刷新時を下支えした大学院生だ(第20回参照)。

     このダンスチームは当初、「団地祭」の屋台のように、対外的に「湘南プロジェクト」をアピールするためという意図は持っていなかった。「湘南プロジェクト」の一環というよりも、サリカたちの個人的なエントリーという位置づけだった。エントリーを受け付けた自治会側の意識もそうであったし、「湘南プロジェクト」のメンバーやサリカたち自身も、そのように思っていた。しかし、サリカ、ヨシミ、ラミによるダンスチームは、2002年の「団地祭」で、「湘南プロジェクト」を巻き込んでいった。

     例えばそれは、集会所という場所の確保の仕方にも表れている。「湘南プロジェクト」は、普段、団地集会所が「休み」である月曜日に、活動の場所を借りていた。これは、既に他の自治会活動でスケジュールが埋まっていた集会所に、「特別枠」を設ける形で、確保された空間だった。

     だから当然、団地住民の中には、外国人へのこのような「特別優遇」に対して、不満を持つ人もいた。団地自治会役員たちは、そうした住民からの不平不満に対し「自分たちがしっかり管理するから」と言い続けて、場を守ってきた。自治会の人々は、老人会や子ども会等の自治会活動に、通常は顔を出すことは無いが、「湘南プロジェクト」のある日だけは、必ず集会所にやってきていた。そうやって、対外的に、自治会の管理のあり様をアピールしていた。

     サリカたちのダンスチームは、そのような場を、ダンス練習の場所としてイレギュラーに確保していった。これまで「うちら」を見守ってきた、自治会の国際部長沢井さんが、場の確保に尽力してくれた。公園やストリートでダンスの練習をしてきた彼女たちが、このような、練習場所を集会所という「公」の場に移したことは、彼女たちの活動が、社会的な意味を持つようになったことを表していた。

     ここで一言断っておきたいのだが、カンボジアやラオスといった「難民」によるダンスと聞けば、民族衣装に身を包んだ舞踊をイメージするかもしれない。しかし、彼女たちが選んだのは、ブリトニー・スピアーズの曲にのせたヒップホップであり、当時流行していた「パラパラ」(ディスコミュージックにのせて手の振りだけで踊るダンス)であった。

     ダンスの振付は、サリカたちが創作した。コレオグラフは難解で、フォーメーションの移動もあった。ダンス未経験者がすぐに覚えられる内容ではなかった。ダンスの練習では、十代の少女たちが、二十代の男子学生に向かって、「へたすぎるんだけど」と檄を飛ばすこともあった。「鬼の特訓」に必死についていった男子学生たちは、この期間、酷い筋肉痛に泣かされていた。

     そんなダンスの練習を、自治会の沢井さんや長谷川先生らが、休日を返上して、温かく見守った。また、ヒアンやヤマたちも、アイスやジュースの差し入れをもって、しばしば応援に来ていた。いつの間にか、ダンスチームは、サリカらの個人的な創作活動の範囲を越えて、「湘南プロジェクト」の一部となった。

     本番の「団地祭」のステージでは、「日本語教室の子どもたちと先生によるダンス」ということで紹介された。「湘南プロジェクト」の「顔」として、サリカ、ラミ、ヨシミが、ステージに立った。生き生きとヒップホップを踊る「うちら」に、体の固い「先生」が、大汗をかきながら必死でついていく。ステージを見ている誰もが、「先生が、中学生を指導して」という構図を、覆されていた。

     

    団地祭でのダンス

     

     このエピソードを書いていて思い出したことだが、2003年2月に私は、このサリカたちの取り組みについて、スピーチをしたことがある。会場は、神奈川県の教員が集まる連絡会で、スピーチのタイトルを「外国人の子供たちの取り組み」とした。しかし、当日、会場に行ってみると、「外国人の子供たちへの取り組み」という表題がつけられていた。

     「外国人」や「子ども」と聞いた時に、その前提として、彼らが「取り組まれ」たり、支援されたりする対象であるという想定が、どうしてもあるのだと思う。これは、私自身も持っている無意識の前提である。こうした前提があると、外国人で中学生のサリカたちが、「自主的に一から何かを作り上げた」ということは、にわかには想像がつかないのではないだろうか。

     だから、ここでは、繰り返し以下のことを強調しておきたい。「湘南プロジェクト」では、外国人や子どもたち「の」取り組みが、現実として起こっていた。自治会やボランティアは、そうした彼らに寄り添い、ただ見守っていただけだった。むしろ、一方的に「支援」を行使するような姿勢や態度を、慎重に排除してきた。子どもたちや外国人を誘導して、「自主的な活動をさせる」という、捻じくれた支援現場もある中で(第30回参照)、そうした「罠」に陥らないように、自分たちの希望や願いよりも、彼らの声を聴くことを優先し続けていた。その結果、サリカたちの自らを表現しようとする力が引き出され、周囲を巻き混んでいく活動が起こったのである。

     この2002年の「団地祭」の後、ラミたちを仲間に引き入れた「うちら」は、さらにその秋の「ふれあい祭」にも挑戦した。「ふれあい祭」では、バナナとサツマイモのカンボジアのスイーツを作った。予想通り、スイーツはあまり売れなかったけれど、彼女たちは仲間たちと何かを作る活動を心から楽しんでいた。こんな風に自然と地域貢献をしている彼女たちの姿を眺めていると、今後もその勢いはずっと続いていくように思えた。しかし、現実的には、彼女たちの躍動も、そう長くは続かなかった。2002年の「ふれあい祭」が、「うちら」による最後の屋台となった。

     

    5.去っていく「うちら」

     先に見たように、2002年で「うちら」の「祭り」は最後になったのだが、そのことは、「湘南プロジェクト」に転機が訪れていたことも意味していた。ここでは、この時期に起こった2つの転機について、書き残しておきたいと思う。

     1つ目の転機は、2003年から「うちら」が徐々に、団地から去っていったということだ。ヒアンやアニといった10代後半の子たちは、今後の生活を意識し、将来を「どのように生きるか」ということを考える時期にさしかかっていた。

     2003年度は、高校を卒業したアニが、近くの工場に就職をした。それを機に、ヒアンとアニ姉妹は、湘南団地の実家を出て、二人で新居を構えた。新居は、団地から車で数十分の公営住宅であったが、平日に集会所に来ることは難しくなっていた。

     時同じくして、カンボジアのサリカは全日制の高校へ進学を決め、その姉のサリーは専門学校への進学を志望し、夜間高校の卒業を目指していた。そして、姉妹の一家は、団地に隣接する一軒家に引っ越しをした。サリカの父親は、「湘南プロジェクト」の前身となる「在住外国人生活支援活動研究委員会」に参加していた田中さんであるが(第1回参照)、ローンを組んで新築のマイホームを購入したという。

     また、ボリビアのヨシミは、長谷川先生が勤める夜間高校へ進学し、日中は警備のアルバイトをしながら高校へ通うことになった。ヨシミの姉ユリアは、団地住民の外国籍の男性との間に子どもができ、2003年に結婚と出産を経験した。

     そのような環境の変化とともに、「うちら」の多くが、以前のように、団地の集会所へ通うことが難しくなっていった。「密談」していたかと思えば、急に甲高い声で大はしゃぎする彼女たちの姿は、いつの間にか「教室」から消えていた。高校の定期テストの前に勉強をしに来るサリカや、相変わらずの「プー」生活を送っているラミ、そして、学校をサボったヨシミが、時々教室に足を運ぶという程度だった。

     また、集会所に来る彼女らも、ヒアンやアニといった「年長組」の変化を敏感に察知し、自分の「将来」について口にすることが多くなった。以下の記録は、集会所では会えなくなったヒアンやアニらと、皆で食事をした時のものだ。2004年2月28日に、新原先生がポケットマネーで、イタリアンをご馳走してくれた。久しぶりに「うちら」が集う食事会は、小さな「同窓会」のようだった。その会の帰り道で、ラミがこのようなことをつぶやいた。

     

     ラミは最近バイトをし始めたが、週3回なので、時間はたっぷりある。だが、一体自分が何をしたいのか、夢も希望もないのだと話す。ラミとヨシミは、中学はほとんど不登校だったため、時間がたっぷりあり、様々な「悪いこと」や「遊び」も全て「しつくした」という。ヨシミはその上で、美容師への夢を持ったが、ラミは何もないという。ラミは、「私も働いて、アニちゃんのように、買いたいものを揃えて、生活すべてを整えてみようかな」とポツンと言った。その後、ラミとヨシミの会話の中で、「ヒアンやアニは、しっかり生きていて偉いね!」という話になった。そこで、「ヒアンたちも、以前は何度も職を転々として、悩み、やっと今、みんなの前で話せる状況になったんだよ」と伝える。二人はとても驚いていた。そして、ため息まじりに、「じゃあ、まだ、うちらも迷ってて大丈夫だね」という言葉が漏れる。

     

     ラミの話の中で、「ヨシミが美容師への夢を持った」と出てくるが、ヨシミは以前、湘南団地の集会所で、その夢を語ったことがある。その場面が、2004年2月9日の日誌に残っている。

     

     ヨシミが「今日は聞いてほしいことがあって来た」というので、話を聞く。ヨシミは夜間高校で単位を落とし、留年となってしまったらしい。そこで美容師の専門学校へ進路を変更しようと思っていると話し始める。美容師の勉強なら頑張れそうだし、日本でもボリビアへ帰った時でも、手に職があったら仕事に困らないだろう、と述べた。

     

     ヨシミは、口を挟む余地を与えないような早口で、自分の想いを語った。これまで、あまり自分の考えを述べることがなかったヨシミが、自身の話をしたのは初めてのことであった。周囲にいた人々が、ヨシミに対するリスペクトを伝えると、「そんなに誉められると思っていなかった。むしろ、こんなわけわかんないこと言っているから、バカにされるかなと思ってたよ。だから誰にも話せなかったんだ」と安心した顔つきに戻った。

     そして、彼女は続けた。

     

     「いつも常に、周囲から私はバカにされてきた。だから、見返してやりたいんだ。私は皆がいうほど馬鹿じゃないし、もっとできるんだってとこ、見せてやりたいんだ」…この言葉は、かつてヒアンが「ふれあい祭」で初めて春巻きを作る計画を立てた時に、言った言葉だった。だから、とてもはっとした。

     

     「うちら」の最年長のヒアンが、「ふれあい祭」に参加する際、鋭い口調で吐いたセリフ(第26回参照)を、数年後に、ヨシミが繰り返していた。それは、彼女たちが抱える「生きづらさ」を、内側から突っぱねるように、吐き出された言葉だった。ヒアンもヨシミも、同じ想いを抱えながら、一緒に時を過ごしていたのだと思った。

     ラミやヨシミが、「アニちゃんのように、生活を整えてみようかな」と「お手本」にしていたアニも、実際には、難民や外国人という立場を背負いながら、ギリギリの状態で生きていた。自分や自分の身近な人々の生活を、少しでもよくするために、もがき苦しんでいた。以下は、2004年8月8日の団地祭にて、アニが話していたことの記録だ。

     

     団地祭にて神輿を見ていると、アニが傍に来てくれる。「久しぶりに会えて、話ができるのはいいね」と言った。アニの姉ヒアンから、お父さんの事情(仕事で身体を壊し、カンボジアへ両親が帰るという話が出ていた)を聞いたと伝えると、アニは自分の仕事の話をしてくれた。「自分が頑張って家族を支えたいと思ってはいる。しかし、毎日朝から晩まで働いていることがイヤになり、何度会社を嘘ついて休んだか分からない。仕事のできるヒアンがいるから、会社でもアニの地位が与えられて、会社を辞めさせられずにすんでいる。しかし、正直辞めたいと何度も思った。最近は食べても吐いてしまい、ずっと吐いているからどうしようと思っていたが、ずいぶん、今は回復した。お父さんもカンボジアへ帰らないことになり、正直安心してホッとしている。職場には精神障害の人もいて、ヒアンや私はいつもストーカーされている。ヒアンは後ろから突然抱き着かれたり、下着のホックをとられたりして、嫌な思いを何度もしている。会社の人達が守ってくれようとしているから救われるけど、自分たちで守んないとダメな部分もある。

     

     また、アニの姉ヒアンも、父親や家族の苦境に、「自分ができること」を常に探し、迷いながら生きていた。2004年8月2日の日誌にはこのようにある。

     

     朝にヒアンからメールが来ていて、その後電話をする。半年前に父親が仕事で手をおかしくしてしまい、その後会社を辞めた。腕が挙がらない状態なので、肉体労働である仕事は続けられなかったそうだ。腕もようやく回復してきたのに、仕事をせずにいることに焦りを感じ、父親は少しあれていたのだという。その時、家庭内では「カンボジアへ帰ろう」という話も出ていた。母と父だけカンボジアに帰り、兄とヒアンとアニで働いて仕送りをすれば、なんとかやっていけるのではないか、という話だった。現在もヒアンとアニは、二人の給料から毎月7万円、実家に入れているのだという。ヒアンや兄は両親の帰国に賛成したが、アニが反対したため、実現はしなかった。アニは「寂しい」「家族が一緒にいなくてはイヤだ」と強く主張したそうだ。父親は職安に通い、最近やっと仕事が見つかった。だが、今度の職場も肉体労働で、さらに不法労働者が多い職場だと耳にし、明日、一緒にまた職安に行って他の仕事を探そうと思っている。ヒアンは、一気に、この話をした。彼女は話をしてずいぶん気が楽になったという。でも、「ごめんね、自分のことばっかで」と何度も繰り返していた。

     

     この記録にもあるように、ヒアンやアニが自分の悩みを話す時、よく「自分のことばっか話してごめんね」と謝っていたのを思い出す。しかし、実際の彼女たちは、「自分のことばかり」ではなく、まず先に、周囲の人々に気を配る人々だった。それは、家族との関係でも、「湘南プロジェクト」での活動の中でも、いつも根底にあって、彼女たちの動きの一つひとつが、どこかで「人のため」になされているものであった。

     一見、「うちら」の中でも、最も「破天荒」に見えるラミにも、ヒアンたちと同じような精神は流れており、「自分でもなぜだかわからないけれど」、自分の利益よりも他者との関係を優先するところがあった。以下は、2005年2月21日のラミとの会話である。

     

     ラミとラーメン屋に行き、餃子とコーラを注文。ラミは「二人きりで食事をすることがとても嬉しいのだ」と言ってコーラを飲んだ。彼女はヨシミと一緒に始めたアルバイトをもう3か月くらい続けている。アルバイトは駅近くの野菜の袋詰め工場で、自給は800円くらい。しかし、シフトは不明瞭で、前日に翌日の勤務時間が決められる。朝早くから始まり昼前に終わったり、午後3時くらいから始まって2時間で仕事が終了したり。たまに10時間労働を強いられることもある。それでも、1か月の給料は3万円に満たない状態であるという。ヨシミと一緒に採用手続きをするために、履歴書を書いて持って行ったのだが、社長は履歴書など一切見ず、彼女たちの名前をたずねることすらしなかったという。このことから、不法就労者が多いのだろうと彼女は話していた。

     社長は彼女たちに「お前ら日本語わかるんだからちゃんとやれ」とどなり散らすらしい。ヨシミは1か月くらいで転職したが、ラミは辞められないのだと話している。なぜかというと、器用な彼女は仕事が早いので、他の人よりも仕事量が多くなって損ではあるが、自分が辞めてしまって他の人々にその負担がいってしまうのが、なぜか「悪い」と感じるからだそうだ。日本語を話せない外国人をみると、自分よりも生活が大変だと思う。「こんな仕事しかやれない人たち、この人たちは自分よりも年上なのに、一生こんな仕事をやり続けていくしかないと思うと、ブルーになってくる」と話した。女の人ならばともかく、男の人も自分と一緒にこの職場で働いていて、社長以外は正社員がいないようだから、将来はどうなるんだろうと思う。その人たちに子どもとかいるのか、心配になる。一緒に働いている人たちはみんな協力しあっているので、自分一人だけ抜けるのはできないと思っている。だからもう少し頑張ってみる、という話をしていた。「偉いでしょ!! 誉めて!」と、彼女は言った。

     

     「馬鹿にしてきた奴らを見返したい」という想いを抱え、同じような境遇にいる外国人や、自分よりも小さな子どもたちのことを考えながら生きていた「うちら」。そんな彼女たちは、間もなく、より大きな社会という舞台で根を生やすために、馴染み深い団地から出て、次の場所を探しに行った。

     「湘南プロジェクト」の理念の中に、教室で育った子どもたちの中から「団地の外国人の相談にのったり、場を作ったりできる人材を育てていく」「社会のオペレーターの育成」(第16回参照)というものがあった。だから、これを読んだ人の中には、ヒアンやラミたちが、プロジェクトが目指したような「理想的な人材」として育ったのかどうか、地域に還元していく活動を続けているのかどうかと、気になる人もいるかと思う。若かった私自身も、一時期は、そんな理想像を、ヒアンらに期待したこともあった。しかし、彼女たちは、そのような周囲の思惑に縛られることなく、自分たちの生活を、ただ懸命に生きていった。

     「湘南プロジェクト」の人たちが、「うちら」が去っていく姿を、どのような想いで見つめていたのかは分からない。けれど、「湘南プロジェクト」の大人たちの中には、理想を押し付け、「型にはめる」形で、彼女たちの成長を願う者は、一人もいなかった。理想を押し付けるどころか、そうしたプロジェクトの理念も忘れたかのように、子どもたちの健やかな成長だけを、ただただ願っていたように思う。

     おそらく、「湘南プロジェクト」を創った人々は、活動の理念として掲げたものが、すぐには実現しないことを、最初から了解していたのだろう。代表の新原先生も、自治会の清水会長たちも、「自分たちが生きている間」には、そうした現象が起こらないと分かっていながら、プロジェクトを立ち上げたのだと思う。ただ、「湘南プロジェクト」で育った子どもたちが、成長して同じように子どもを育てていってくれたなら、「いつかきっと…」と、何世代もの後世に希望を託して、祈るように種を撒いたのではないだろうか。

     だから、これまで見てきたように、「うちら」が地域を巻き込んで躍動する姿や、たびたび垣間見せる「誰かのために」という精神は、「湘南プロジェクト」の人々にとって、未来に託した可能性の「片鱗」に触れられた瞬間だったに違いない。そのようなことを、自分たちが「生きている間」に目撃できたことは、「湘南プロジェクト」にとって、「予想外」の幸運だったのかもしれない。湘南団地の「うちら」たちは、そのような「置き土産」をして、一人ずつ、団地の集会所から去っていった。

     

    6. 団地自治会の総入れ替え

     さて、「湘南プロジェクト」の転機となった2つ目の出来事は、自治会役員の「総入れ替え」である。「うちら」の姿が徐々に団地から消えていった2003年は、ちょうど、自治会役員の入れ替えの年でもあった。

     「湘南プロジェクト」の発足から長年役員を引き受けていた、清水会長、安斉事務局長、沢井国際部長(正確には2001年から副会長)が、2002年度末で引退した。その後、清水会長や安斉事務局長は、教室に顔を出すことは無くなった。「古い役員に、気を遣わずに動けるように」という、新しい役員たちへの配慮もあったと思われる。元国際部長の沢井さんは、引退後も時々教室に足を運び、陰ながら教室の活動を支えてくれていた。そのような様子を感じ取れる、以下のようなエピソードがある。自治会役員が入れ替わってから、半年ほど経った、2003年9月8日に起こった出来事である。

     

     午前中に社協の国武さんから連絡をもらう。「今日は警察が来るみたいなので、車で来る人は、集会所の裏にとめるなど工夫してください」という話であった。指示通りに、集会所の裏にとめ「日本語教室」という紙を貼っておく。集会所入口に近寄ると、ラミが「先生久しぶりー、超会いたかった」と飛びついてきた。ボリビアのお母さんが、ユリアの赤ちゃんである「孫」をつれてきた。その後、ヨシミとサリカ、日本語教室のアミさんと子ども教室の飯島さんがやってくる。集会所前で、赤ちゃんを囲み、井戸端会議をしていると、集会所から痛い視線を感じる。新しく国際部長になった百田さんが、何か言いたげにこちらを見ている。文句を言われる前に、集会所へ入った。いつもウロウロしている大量の子どもたちが、今日は姿を見せないことが気にかかっていた。

     

     ここに出てくる、「新しく国連部長になった百田さん」というのは、60歳くらいのふくよかな女性だ。前歯が数本無く、「くしゃっ」となる豪快な笑顔が印象的だった。いつもタバコをふかしていて、ハスキーボイスで冗談を言う。そんな「気さく」な一面を持つ女性だったが、前国際部長の沢井さんとは、「湘南プロジェクト」への関わり方をめぐって、よく衝突していた。

     沢井さんは、「湘南プロジェクト」の活動にもっと参加するようにと、百田さんに求めた。沢井さんは、国際部長として、「教室」に関わっていくことの大切さを伝えようとしていた。しかし、百田さんは、「私は私のやり方がある」と突っぱね、「教室」に入ってくることは無かった。ただ、「教室」がある日には、必ず集会所の鍵の開け閉めにやってきて、事務所で待機している。それが彼女の「役割」だった。

     ところで、話を元に戻そう。先ほどの日誌の続きである。

     

     長谷川先生が、沢井さんから聞いた情報を、私たちにしてくれる。日本語教室の隣の事務所には、自治会の役員と警察が来ている。日本語教室の実態を「監査」しに来たのだという。その話を聞き、午前中の国武さんからの連絡や、子どもの姿がまったく見えないことが、腑に落ちた。そして、それらが、沢井さんの「根回し」だったことに気づく。飯島さんは、「子ども教室はお休みにした方がといいわね」と、帰っていった。

     沢井さんは、おそらく、集会所に集まってくる子どもたちに、事前に「子ども教室は休み」と声をかけてくれたのだと想像する。サリカと外の様子を見に行く。「子どもがいない集会所は、気持ちが悪いね」という話をした。本当に子どもが一人もいない。集会所の上階にいた子どもたちが「先生!」と声をかけてきたが、下に降りてこようとしない。彼らなりに、教室を気にしつつも、「何かいつもと違う」ことを察知しているのだろう。サリカは、「『いるだけで嫌だ』と言われる外国人に、いったい何ができるというのか?」と、漏らした。

     

     「『いるだけで嫌だ』と言われる外国人に、いったい何ができるというのか?」という言葉は、今も心に刺さっている。この時も、何か「日本語教室」が問題を起こしたから、自治会長や警察が見に来たわけではない。ただ彼らは、外国人を疎む住民からの度重なるクレームを受けて、教室を監視しに来ただけなのだ。

     かつては、「湘南プロジェクト」に関わる自治会役員や民生委員たちが、外国人へ向けられる悪感情を、「盾」のようになって止めてくれていた。そうしてもらっていることを、教室にいる私たちが忘れてしまうくらい、自然にずっと、守ってくれていたのだ。2004年8月8日の日誌には、このような場面が残っている。

     

     団地祭の屋台に播戸さんがやってきて、「中里さん、新原先生に伝えてほしい」と言いつつ、自治会内で日本語教室が「不良の巣窟」と言われていること、沢井さんへの圧力が増していること、もう以前のようには続けられないところまで来ていることをお話される。

     「俺たちもなんとか思ってやってきたんだが、もうダメなところまできとる」「今の自治会や団地住民の感覚は、あんさんもわかるやろ」「たんに、うっとおしい、それだけなん」。その話の途中で「新原先生、中里さんとうちらは、一緒にやってきたメンバーだ。だから、いつでも力になる」とおっしゃる。

     

     播戸さんの話では、「湘南プロジェクト」への苦情や不満が、以前よりも強くなったとあるが、そのことは肌感覚でも分かるようになっていた。2003年頃から徐々に、右翼の「街宣車」などが頻繁に団地の周辺を走っているという話を耳にしたり、子どもたちが道を歩いていると「外国人は国に帰れ」と怒鳴られたりと、不穏な空気が高まっていた。そのような状況の変化の中、さらに、2003年に起こった自治会役員の総入れ替えもあって、「湘南プロジェクト」への圧力も強くなっていった。

     新しい自治会役員は、「ボランティアがやっている日本語教室」を、できるだけ監視し、問題が起こらないように管理していこうという姿勢だった。先に紹介した百田さんのように、団地の外国人の「世話役」である国際部長ですらも、「湘南プロジェクト」の「教室」に入ってくることは無かった。「湘南プロジェクト」の一員として、一緒に教室を運営してきた前自治会とは、全く違う関わり方だった。

     以前の自治会役員たちは、新しい自治会のメンバーによっては、外国人を排除する動きが団地の中で強まってしまうことを懸念していた。外国人を排斥しようとする勢力は、団地住民の中にも一定数いて、そうした力を拡大させないように、以前から、前自治会は思慮深い闘いを続けてきた(第20回参照)。幸い、今回の新しい自治会長も、団地の中では「穏健派」と言われ、すぐに「湘南プロジェクト」を潰しにかかるようなことは無かった。しかし、だからといって、前自治会の人々ほど、教室活動に深い理解を示しているわけではなかった。

     また「穏健派」であるとはいえ、「湘南プロジェクト」とは一定の距離を保つ自治会が、今後どのような振る舞いをするかには、常に注意を払わなければならなくなった。もし、排除的な方向で動いてしまったら、「湘南プロジェクト」は場所を失うかもしれない。

     そのため、そのような事情を感じ取っていた前自治会役員たちは、立場を越えて、「湘南プロジェクト」のために力を尽くしてくれていた。今回の沢井さんのように、事前に情報を流して、できるだけ「品行方正」な教室運営となるよう手を貸したり、ある時は、新しい自治会の役員へ「日本語教室」の存在意義を説いてくれたりしていた。

     だが、そんな前自治会の人々も、徐々に「湘南プロジェクト」や湘南団地から、去っていくこととなる。長年、自治会役員達と一緒に活動してきた播戸さんは、民生委員を引退後、突然何も言わずに、団地から出て行かれた。以下は、2005年4月18日の日誌である。

     

     鈴木君と一緒に、播戸さんの家に挨拶に行った。アニが播戸さんの家のある1棟まで車で送ってくれる。1棟は、他の棟よりも古く駐車場が狭いという印象があった。こうして動いてみると、団地の敷地は広く、播戸さんの家から集会所までは、多分10分くらい歩く距離だったのではないかと思う。晩酌後に、どういう気持ちで集会所まで歩いてきていたのか。播戸さんの家へ行ってみると、ポストや新聞受けがガムテープでふさがれており、明らかに「引っ越し後」であった。「20日までこっちにいる」と聞いていたが、最後の挨拶もできずに、なんだかとても寂しく、申し訳ない気持ちになった。

     

    「子ども教室」の七夕飾りと播戸さん

     

     このように、長年に渡って、外国籍住民と日本人住民の間に立ち、より弱い立場の人々の声を聴き続けてきた人々の引き際は、いつも「あっさり」したものだった。周囲の者に「挨拶すらさせない」という、自身への執着を、微塵にも感じさせない去り方だった。これは前自治会長の清水さんも、安斉事務局長も同じだった。彼らは、去り際に、自分の「功績」をたくさん語ることができたはずだ。実際に、称賛されるべき功績は沢山あった。しかし、彼らはそれを表に出すことは一切なく、一緒にやってきた「湘南プロジェクト」の我々にも、感謝を伝える機会すら与えてはくれなかった。

     2003年以降、周囲の圧力から守ってくれていた前自治会の人々が、「湘南プロジェクト」から去っていき、その影響力は、徐々に弱まっていった。こうした転機を経験した「湘南プロジェクト」は、気づかぬうちにその「終わり」に向けて、進んでゆくのだった。

     

     

     

     

     

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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