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極私的原子力用語辞典

西尾 漠

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第9回 「原子力基本法」「原子力資料情報室」

    ◉原子力基本法

     1955年12月19日、中曽根康弘議員を委員長とする衆参両院の超党派の原子力合同委員会が、政府との調整、学会の意見聴取を経て提出した議員提案で成立した。「原子力の研究、開発及び利用を推進することによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする」と第1条にうたわれている。

     

    兵は神速を尊ぶ?

     原子力基本法案は、政府が提出した原子力委員会設置法、総理府設置法の一部改正案(原子力局設置)とともに「原子力3法案」と呼ばれ、1955年12月14日に衆議院、16日には参議院で可決、19日に公布というスピード制定だった。

     どれだけの議員が原子力の何たるかをわかって3法案に賛成したかは大いに疑問で、鳩山一郎首相また然り。『原子力eye』2010年5月号で、当時は工業技術院調査課で「官庁技術者運動の若手幹事役として、科学技術庁設立のため、国会との連絡役の使い走りを務めた」という伊原義徳元原子力委員長代理が回顧している。「1955年に、正力松太郎読売新聞社主が衆議院議員に当選し、11月に第三次鳩山内閣に初入閣した。総理から防衛庁長官就任を打診されたが、『原子力担当大臣をやる』と主張した。『原子力って何だね?』と総理は怪訝な顔をした」。

     

    放っておくと、大変なことになりますよ

     現行の原子力基本法第2条は、基本方針をこう規定している。

     「原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。

     2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする」。

     1955年の制定時には「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」と、いわゆる「平和利用の三原則(民主・自主・公開)」を謳ったシンプルなものだった。第2項は存在しなかった。

     もともとは「安全」についてすら、一言も書かれていなかったのだ。「安全の確保を旨として」と加えられたのは1978年6月5日に成立した法改正で、原子力安全委員会の原子力委員会からの分離と足並みをそろえたものである。

     ところがこれにより「公開の原則は、現在では、平和利用の原則の他、安全確保の原則をも担保するものと解するのが適当であろうと考えられる」と理屈づけて見直し論が浮上した。日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)に設けられた原子力基本法問題研究会が「公開問題に関する法的検討」(秘)と題した中間報告をまとめ、79年7月上旬、日本学術会議のメンバーに「外部に出さないでほしい」と非公式の検討を依頼した――と9月29日付朝日新聞が報じているものだ。『技術と人間』1979年12月号が、その中間報告を掲載し、市民エネルギー研究所の近藤和子が解説している。

     中間報告は言う。「国際的に核不拡散の必要性が強く叫ばれ、ウラン濃縮技術等の公開は厳重に制限すべきものとされるようになった。又、核の乗っ取りや原子炉破壊行動の可能性が認識されるに従って、いわゆる核物質防護(P・P)のために一定範囲の情報はむしろ公開しない方がよい場合があると考えられるに至っている」。

     なるほど。でも、それって情報を隠さないと原子力利用はできないってことだよね。日本でも1977年11月に東海再処理施設でプルトニウムが初抽出され、78年7月には人形峠ウラン濃縮建設所が設置されている。中間報告が言うように「原子力の利用は、大きな曲がり角にさしかかって」軍事と切り離せないことがいよいよはっきりしてきたということだろう。

     第2条に第2項が追加されたのは、2012年6月20日に成立した原子力規制委員会設置法の目的及び原子力規制委員会の任務に「我が国の安全保障に資する」との文言が盛り込まれるとともに、同法附則において原子力基本法並びに核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律が改正されたことによる。

     国会答弁で自民党の提案者は「あくまでも我々の思いは、軍事転用をしないという思いで入れさせていただきました」としているが、韓国では「日本、ついに核武装への道を開く」と報じられるなどしていたっけ。日本電気協会発行の電気新聞は、7月5日付の紙面に柴田鉄治元朝日新聞論説委員の「時評」を載せた。柴田は、こう訴えている。「原子力関係者を筆頭に、こぞって反対の声をあげ、まず、問題の文言を削除させよう。削除もできないというのなら、原発の再稼働どころか、いま直ちに一切の原子力開発をやめようではないか」。

     残念ながら、そうした動きは起こらなかった。

     さらに2023年(今年だよ)、岸田文雄政権は通常国会に提出する予定の原子力関連束ね法案の中に基本法改正をもぐり込ませ、「原子力利用の目的に新たに脱炭素、エネルギーの安定供給を加える一方で、廃炉や高レベル放射性廃棄物の最終処分などに国が責任を持つことを明記する」(1月11日付環境新聞)という。マジか。

     

     

    ◉原子力資料情報室

     原子力に頼らない社会の実現を目指す活動的シンクタンク。1975年9月に発足したが、日付は不明なため「創立記念日」もない。高木仁三郎前代表の自伝である『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)には、こう記述されている。「記録も記憶も定かでないが、1975年の夏までに何回か話し合いがあり、結局、武谷三男氏を代表とし、浪人的存在だった私が専従(ただし無給!)的役割(一応世話人という名称で)を担うことを了承して、その司町のビルの5階で、原子力資料情報室は9月にスタートすることになった」。

     

    今は昔

     「司町のビルの5階」とは、東京都千代田区司町の4階建てのビルの屋上に建てられた小部屋のこと。4階には原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が入っていて、その資料室として確保されていたものだった。そのころ西尾(筆者)は「反広告会議・東京」を名乗って電力会社等の広告批判をもっぱらにしていて、そこに出入りはしていたのだが(白状すれば、原水禁のコピー機をただで使わせてもらうのが主目的だった)、やはり創立の経緯についての記憶はない。原子力資料情報室は科学者の集まりで、自分は違うという意識だったのだ。

     そこで、原子力資料情報室が1995年に発行した『脱原発の20年』に井上啓(ひらく)元原水禁事務局次長が書かれたものを、長くなるのをいとわずに引用しよう。

     「この時期に[原発立地]候補地の住民に原子力の問題点などの情報を送り、反対運動の火をつける役割を果たしたグループとしては、東大、京大、東北大などの若手研究者でつくった全国原子力科学技術者連合(全原連)があります。メンバーは現地住民と寝食を共にするような熱心な働きかけを繰り返し、その後の反原発運動発展への大きな役割を果たしました。また、各地の反原発住民運動を反核運動の中に紹介し、自らの運動として取り組み始めたのが原水爆禁止日本国民会議でした。

     72年、敦賀で開かれた全国活動者会議では関係各県の原水禁と住民団体が参加し、『原発・再処理問題全国共闘会議』の結成と『資料情報センター』設立の方針がうちだされました。前後して、久米三四郎氏、水戸巌氏、市川定夫氏などが、全原連のメンバーとともに住民運動への専門的支援を活発化し、運動は飛躍的に広がりはじめました。

     原水禁は各地の住民運動を主体に各県原水禁、労働組合などによる全国共闘会議をめざして、とりあえず『原発・再処理情報連絡センター』をスタートさせ、その情報紙として『原発斗争情報』を発行しはじめました。しかし、『資料センター』については、各専門家の間に考え方のギャップが大きいこと、『センター』とすると運動の中央司令部的になるおそれがあること、などが指摘され、多様な考え方を持つ専門家の『討論の交差点』、『共同作業の場』として運動とは独立してつくることが最良と判断されました。そして、実際の作業を担う世話人として高木仁三郎氏の了解が得られたことから、75年に武谷三男氏を代表とする『原子力資料情報室』として発足することになったのです」。

     文中にある『原発斗争情報』は、1972年11月に「原発・再処理工場反対運動情報連絡センター」の発行で第1号を出し、第15号までは住所を「秋元ビル4階 原水禁気付」、第16号から「秋元ビル5階 原子力資料情報室」としている。1976年1月発行の第18号から「編集・発行 原子力資料情報室」となる。

     井上啓は、池山重朗著『原爆・原発』(現代の理論社、1978年)が明石書店から再発行されたときの「解説」でも原子力資料情報室に触れて、武谷を推薦したのは池山だと記し、「高木さんを連れてきたのが久米三四郎さんで、久米さんを紹介したのが和田長久さんだった」と人脈の説明をしている

     武谷代表だったのは1976年6月まで1年足らずのごくわずかな間で、高木、井上、藤本陽一、小泉好延の運営委員制に移行している。前掲『市民科学者として生きる』でちょっと有名になった武谷・高木の「時計とかな槌論争」が原因だったと高木は「武谷三男さんを悼む」(『原子力資料情報室通信』2000年5月号)で書いていた。「ただし先生が専門志向の理論家で、私が運動志向の活動家で、対立があった、というような性格のものではない」と。その同じ2000年の10月8日、高木は武谷の後を追うように逝った。

     1987年3月、『原発斗争情報』を『原子力資料情報室通信』に改題。5月の総会で運営委員会を理事会に変え、高木仁三郎代表を選任した。

     

    まだやりかけの未来がある

     原子力資料情報室は1999年9月より特定非営利活動法人。法人格を得ようとした時期はもっと早い。と言いながらいつのことか例によって記憶があいまいなのだが、1995年の原子力資料情報室総会で議論があったことは記録があって確かだ。その少し前だったろう。当時は社団法人をめざして主務官庁となる科学技術庁と交渉していた。認可の条件となる「公益性」があるという主張だ。

     当然、容易ではない。けっこうがんばってくれた役人がいたのも事実だが、1995年12月8日のもんじゅナトリウム漏れ火災事故で双方が忙しくなり、科学技術庁の担当者が替わったりして難航する。そうしているうちに特定非営利活動促進法が1998年3月に成立、12月には施行されたので99年1月に設立総会を開いて3月に申請、ようやく法人格を取得した。早い対応ができたのは、言うまでもなく、法人化に向けて準備が進んでいたからだ。2010年5月には、寄付をした人がその寄付の税控除ができる認定を受けた特定非営利活動法人団体になっている。

     高木が法人格にこだわった理由は、自身が関われなくなった後も資料室が存続できるようにしたいと考えていたからである。高木の生存期間中の原子力資料情報室が多分に高木仁三郎事務所だったことは否定すべくもない。法人化前は事務所や電話などの契約を、なにもかも高木個人の名でするしかなかった。

     それはそれとして、原発推進官庁だった科学技術庁の下で社団法人になることに成功しっていたら、それこそ「新時代だ」だった、かもね。

     

     

    [© Baku Nishio]

     

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    連載記事

    第1回 「まえがき」「IAEA」

    第2回 「Atoms for Peace」「安全性」

    第3回 「SMR」「エネルギー基本計画」

    第4回 「核管理社会」「核セキュリティ」

    第5回 「核燃料」「核燃料サイクル」

    第6回 「核武装」「核融合」

    第7回 「規制の虜」「クリアランス」「計画被曝」

    第8回 「原子力安全委員会」「原子力委員会」「原子力規制委員会」

    第10回 「原子力船「むつ」放射線漏れ」

    第11回 「原子力の日」「原子力ムラ」「原子力ルネサンス」

    第12回 「原子炉」「原子炉立地審査指針」

    第13回 「高温ガス炉」「高速増殖炉」

    第14回 「高レベル放射性廃棄物」

    第15回 「国策民営」「国産エネルギー」

    第16回「再稼働」「再処理工場」「JCO臨界事故」

    第17回 「事故隠し」「司法リスク」「使用済み燃料」

    第18回 「スリーマイル島原発事故」「全国原子力科学技術者連合」

    第19回 「多重防護」「脱原発」「脱炭素電源法案」

    第20回 「チェルノブイリ原発事故」「チェレンコフ効果」「中間貯蔵」「中性子源」

    第21回 「TRU」「停電」「低レベル放射性廃棄物」

    第22回 「電源開発」「電源三法」「天然ウラン」「天然原子炉」

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    第24回 「動燃」「特定重大事故等対処施設」「トリチウム」「トリップ」

    第25回 「中曽根札束予算」「2次冷却系」「日米原子力協定」

    第26回 「日本原子力産業協会」「日本原子力発電」

    第27回 「日本原燃」「NUMO」「濃縮」