◉Atoms for Peace(アトムズ・フォー・ピース)
ドワイト・D・アイゼンハワー米大統領が、1953年12月8日にニューヨークの国際連合総会で原子力の平和利用を提案した演説ないし演説で提案された考え。余談だが、2009年に結成されたロック・バンドAtoms For Peaceには、「アトムス・フォー・ピース」と濁音を使わない訳語が使われている。
世界をだました男
アイゼンハワー演説は、もともとは米国民向けに用意された演説だったが、演説中にある「新たな平和への道筋で、これまで十分には試されていないものが少なくとも1つ存在している。それは、現在国連総会で提示されている道筋である」という道筋に関してアメリカの考えを表明するために特に招かれて国連での演説になったという。
演説は、まず、アメリカの核能力を誇示し、破壊力の恐怖を強調する一方、「米国がいったんは、いわゆる『核の独占』を手にしていたとしても、そうした独占はすでに数年前に存在しなくなっている」と述べる。そのうえで「米国は、核による軍備増強という恐るべき流れを全く逆の方向に向かわせることができるならば、この最も破壊的な力が、すべての人類に恩恵をもたらす偉大な恵みとなり得ることを認識している」として、IAEA設立のもととなった提案を行う。「米国は、他の『主要関係国』と共に、核エネルギーのこうした平和利用を促進する計画策定に着手することは、何よりも喜ばしい限りであり、また誇らしく思うものである。こうした『主要関係国』には、当然、ソ連も含まなければならない」と。
外務省国際協力局第一課編『国際連合における原子力平和利用の問題』(外務省国際協力局刊)は、こう解説をしている。「アイゼンハウアーの提案は、軍備の公開、確証、原子力管理機関の設置という、従来西欧側が主張ししかも行詰って了った行き方とは別個の角度から、先ず原子力の平和的利用のため関係各国が協議する機会を作り、これが成功すれば、その後に原子力の軍事面の管理にも及ぼして行こうとするものであり、より実際的な提案として西欧諸国の絶大の支持をうけた」。もちろんソ連圏諸国からの反応は違っていたけれど。
夢から覚めて
この演説の背景、成立過程、意図などについては、核兵器のみならず「平和的利用」面でも独占が脅かされていた、核燃料を売ることで原発の輸出を狙った、国内原子力産業の育成、核に対する国内世論の醸成などなど、とても列記できない数の文献がある。難しい話は苦手だから、触れないことにしよう。
「Atoms for Peace」という演説の名称は米紙が付けたものだが、その後、政府の正式名称になったという。土屋由香「広報文化外交としての『原子力平和利用キャンペーン』と1950年代の日米関係」(竹内俊隆編『日米同盟論』ミネルヴァ書房)によると、「国連演説の直後から米国広報文化交流庁(USIA)は、世界各国の新聞にアイゼンハワー演説を配信したほか、17ヵ国語のパンフレット、1600万枚のポスターとブックレットを印刷した。またヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)ラジオ放送を通して30ヵ国語で演説を放送し、さらに演説の録画フィルムを35カ国に配給した」と、これは加藤哲郎「日本における『原子力の平和利用』の出発」(加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦』花伝社)の註からの重引である。でも、原著にも目を通しましたよ。
それから50年後。『日本原子力学会誌』2004年12月号に早稲田大学大学院の伊藤菜穂子がこんなことを書いていた。「アイゼンハワー大統領のAtoms for Peace(AFP)演説から半世紀、昨年は世界各地で記念シンポジウムが開催されていた。しかし、最も注目される国際会議(ローレンス・リバモア国立研究所主催)に出席していた知人によれば、AFPに対する米国人の評価とは、1950年代の賞賛に反し、『基本的に欠陥のあるコンセプトで、結局、失敗であった』との見方が大勢を占めたという」。それに対し伊藤は、AFPは「決して『間違いではなかった』といえよう」と言うのだ。なにせ『日本原子力学会誌』だものね、そう書かないと。
◉安全性
安全について定義している国際基本安全規格(ISO/IEC GUIDE 51:2014)によれば、「安全とは許容できない危害が発生するリスクがないこと」とされる。リスクには適切な日本語訳がないが、原子力の安全性について考えるには「危険性」でよいかもしれない。
リスクの壁
問題は「許容できない」と誰が、何をもって判断するかだろう。原子力の安全性を、リスクを受ける人ではなく、リスクを与える可能性のある人が決めている現実がある。許容できないリスクを他の利益があるから受け入れよという考えだ。
『原子力委員会月報』1957年9月号に茅誠司原子力委員会参与の「随感」が載っていた。「誰にでもいえることは放射性の塵をまき散らすことは害はあって益はないことである。まき散らさないことを誰しも望むであろう。しかしこれは結局原子力によって得られる利益とこの放射性塵による害とのバランスの問題である」。そのバランスのとり方はどうか。「天然の放射能の土地や時間による変動よりも小さい放射能灰の影響を恐ろしいと思うことは、犬にかみつかれそうになって蚤を恐れるようなものである」。
軽きこと鴻毛の如し
第6次エネルギー基本計画に「エネルギー政策の基本的視点(S+3E)の確認」とある。S+3Eとは、「エネルギー政策を進める上の大原則としての、安全性(Safety)を前提とした上で、エネルギーの安定供給(Energy Security)を第一とし、経済効率性の向上(Economic Efficiency)による低コストでのエネルギー供給を実現し、同時に、環境への適合(Environment)を図る」ことを言うのだそうだ。
まったく同じ説明が第5次エネルギー基本計画にもあるが、そこでは順番が3E+Sとなっていた。2021年9月3日付電気新聞で、第6次エネルギー基本計画案を見たエネルギーアナリストの大場紀章氏が言う。「S+3Eは従前の3E+Sから順番が入れ替わったが、こうした小手先ではなく根本の見直し時期に来ている」。電気事業連合会や経団連などでは以前からS+3Eと言っており、経済産業省が追いついた形だ。もっとも、だから電気事業連合会などのほうが安全意識が高いということでもないだろうが。
そもそも福島原発事故前の第3次計画までは3EだけでSは影も形もなかった。2021年8月31日付電気新聞では、日本エネルギー経済研究所の寺澤達也理事長がいわく「強く思うのは、経済成長の視点を忘れてはいけないということ。S+3Eではなく、『S+3E+G』という観点から議論する必要がある」。
あらまあ、G=Grouthまで。安全性は、中身も扱いもかくも軽い。
昔の人は言いました
内田秀雄前原子力安全委員会委員長が1993年5月10日付電気新聞で言う。「原子力委員の大先輩が私に、『当初は安全の問題など考えなかったからね』と述懐されたことがある」。日本原子力産業会議編集・発行『日本の原子力-15年のあゆみ』にはこう書かれていた。
「[一キロワット時当たりの発電単価が]二円五〇銭という経済性の問題からはじまったとき、コールダーホール炉[東海原発]の安全性ということは、多くの関係者のあたまのなかにあまり存在していなかった」。
「東海発電所を始めるときはどんな準備をしたか。正直に言って準備は不十分であった」と記しているのは一本松珠璣日本原子力発電会長。「超高圧火力発電位に思っていた。[中略]仕様書に火力と同じようなことを書き受注者も平気で引受けた」(日本原子力発電『敦賀発電所の建設』)。
そもそも当時の法制や行政機構に「安全」の文字はなかった、と加藤哲郎が「日本における『原子力の平和利用』の出発」(加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦』花伝社)で指摘している。1955年制定の原子力基本法の基本方針に「安全の確保を旨として」と加えられるのは、原子力船むつ放射線漏れ事故(1974年)を受けた1978年になってのことである。同年、科学技術庁原子力安全局、原子力安全委員会も原子力局、原子力委員会から独立して誕生した。
『科学・社会・人間』42号に1992年3月29日、物理学会第47回年会で行われた第16回「物理学者の社会的責任」シンポジウムでの伏見康治講演「敗戦後日本の原子核・原子力研究者の苦悩」が掲載されていて、質疑応答も載っている。そこで伏見は、加藤が前掲論文の註で「山崎正勝『日本の核開発』も紹介する日本学術会議の声明や基本方針、各種草案にも『安全』はないようで」と言うのを裏付けるかのように答えている。「申し訳ないことですが、その当時は安全性のことは重要視しておりませんでした」。
神話の誕生
もちろん、全く考えられていなかったということはない。日本学術会議は1958年3月19日、政府に「原子力施設の安全性」で要望書を提出したりしている。もっとも、要望書作成の中心人物だった坂田昌一は、『思想』1958年7月号でこうも記していた。「日本の科学者の中には原子炉の安全性の問題を単純に考え、こうすれば危険はないという安全基準が外国のハンドブックでも引けば簡単につくられるように思っている人が多い」。
「安全神話」の走りだろうか。
「安全神話」という言葉がいつ生まれたのかは寡聞にして承知していない。国会では1979年5月8日の衆議院決算委員会で質問に立った山原健二郎議員が「安全神話とさえ言われるこの原子力発電所問題」と、この言葉を使っている。73年8月29日の衆議院科学技術振興対策特別委員会では参考人として呼ばれた大阪大学の久米三四郎講師が「何か原発に対する迷信といいますか神話が、皆さん方も含めてあるのではないか」と発言していて、「安全神話」という言葉はまだ定着していなかったと見える。
原発について「安全神話」という語が新聞紙上、初めて用いられたのは、1979 年4 月1 日、スリーマイル島原発事故の3 日後、朝日新聞の見出し「『安全神話』お粗末防災」だと言われている(東京大学大学院情報学環「災害と情報」研究会著・発行 原子力安全基盤調査研究「日本人の安全観」(平成14 年度~16 年度)報告書)。
「“安全神話”は崩壊した」と記事のタイトルにあるのは、『技術と人間』1978年6月臨時増刊号「原子力と安全性論争」で、これが発祥かもしれない。西尾(筆者)は『新地平』75年10・11月合併号に「無謬神話と初歩的ミス」を載せ、「事故のたびに電力会社は、『初歩的なミスであって、原子炉の安全性とは関係ない』と“説明”する」ことを「無謬神話」と名付けた。
「安全神話」の崩壊を逆手に取ったのがゼロリスク神話だ。2000年版の『原子力安全白書』は「多くの原子力関係者が『原子力は絶対に安全』などという考えを実際には有していないにもかかわらず、こうした誤った『安全神話』がなぜ作られたのだろうか」と問い、答えの一つに「絶対的安全への願望」を挙げている。ゼロリスクを求めるから安全神話が生まれたとする見方である。
しかし、2014年5月29日の衆議院原子力問題調査特別委員会に参考人として呼ばれた諸葛宗男東京大学公共政策大学院非常勤講師は「事故で原子力にはこういうリスクがつきものだということがもう国民に知れ渡ったわけでございまして、事故前はできるだけこれを余り表に出さないという安全神話があったわけでございますが、今後はきちんとこのリスクに正面から向き合って、安全性の改善をしなければいけない」と「安全神話」が事業者側によって意図的に作られたことを証言している。
ゼロリスクへの道
かくて、以後は「許容できるリスク」が、被害者を単に理解させる対象として語られる。
1999年12月24日に発表された原子力安全委員会ウラン加工工場臨界事故調査委員会『報告』は言う。「いわゆる原子力の『安全神話』や観念的な『絶対安全』という標語は捨てられなければならない。そのことが、関係者の間はもとより、国民的にも理解される必要がある。このことは『絶対安全』から『リスクを基準とする安全の評価』への意識の転回を求めるものである」。
伊原義徳高輝度光科学研究センター理事長・元原子力委員長代理の表現のほうがわかりやすいか。いわく「いままでは、事故が起きることは悪いことで、あってはならない、事故が起きないように安全を確保しますと説明してきました。しかし人間は神様ではありません。間違うものです。そもそも国の安全審査は、事故が起きても大丈夫なことを確保するのが仕事です。従って、これからは『事故が起きても災害に発展せず、安全は確保されます』と説明する必要があります」(「この人に聞く」――『原子力eye』2000年4月号)。
それこそ新たな「安全神話」だろう。この新しい「安全神話」の下で福島原発事故は起きた。にもかかわらず「ゼロリスク神話」は生き残っている。しかし、ゼロリスクは本当にありえないのか。原発から撤退するというゼロリスクの道があるでしょ。
『東京消防』2022年5月号に、アジア防災センターの小川雄二郎理事長が「防災の視点から原子力発電所への攻撃を考える」として、自然現象・人為現象の外力に耐えるための選択を述べている。まずは建築基準法など「規則で決める選択」、次に大きな外力に耐えうるよう「特別に配慮して決める選択」、そして想定以上の外力には「逃げる選択」、さらにそれでも十分でない場合に危険な土地の宅地利用を規制するなど「使わない選択」。
避難計画の実効性や軍事攻撃を考慮して、原発は「防災の観点からは『使わない選択』をすべき段階に入った」。それが結論だ。ナットク。
[© Baku Nishio]
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