◉スリーマイル島原発事故
1979年3月28日、米ペンシルバニア州のスリーマイル島原発2号機で起きた燃料破損・溶融事故。
未知との遭遇
福島原発事故では、溶融した燃料が原子炉容器の底にも穴をあけた。スリーマイル島原発事故は、その手前で止まったと言える。それでも溶けた燃料の回収という経験は、福島事故の溶融燃料の回収に有益と見られている。『海外電力』2014年5月号の巻頭言「米国スリーマイルアイランド原子力発電所2号機の燃料取り出しの思い出」で、日本原子力発電の和智信隆常務が言う。文中INELは、アイダホ国立研究所である。
「炉心上部に折れ曲がった燃料棒が堆積し、炉心周辺部には燃料棒が切株状に残存しており、これらの下には小石状のデブリが積もっていた。当初の燃料取り出し作業は、簡単な構造のバケットや大型のトングで掴み上げて、金属製キャニスタに収納し、比較的順調に進んでいったが、その後、燃料が溶融して炉内構造物と固まった非常に硬い層(クラスト)に達すると一転して、遅々として進まない状況となった。〔中略〕
最終的には、鉱山掘削用のボーリングマシンを使い、スイスチーズ(穴あきチーズ)計画と称して、場所を少しずつ移動させ、硬いクラストに隙間なく穴をあけてデブリを粉砕することで問題を解決していった。当初はドリルの刃が1日に数本も折れ、ドリルの取替えと回収に時間を要するといったことが続き、毎日が試行錯誤と失敗の連続であった。INELに送るキャニスタの中も、デブリよりも折損したドリルの刃のほうが多く、本当にこんな方法で回収できるのだろうかと思っていた」。
苦労の末、破損燃料やデブリの99%を回収できたとされる。それらは、ロッキー山脈のふもとの荒野の中で、空冷の容器29個に収め、コンクリート製の保管庫に寝かせてある。残る1%の1トン近い溶融燃料は回収不能で、今も残ったままさ。
世界初のメルトスルーをしちゃった福島じゃ、溶融燃料の位置も、分布、形状もほとんどわかっていないのだから、困難さはどだい、その比じゃないよね。
神話の果て
事故から5年を迎えた1984年3月号の『反原発新聞』で、原発設置反対小浜市民の会の中嶌哲演(名刹明通寺住職)は述べている。「原発というものが巨大な危険性を内包していることは、理屈の上では承知していたわけですけれども、そんな事故が余りにも早く現実になったということに、つね日頃そうした危険を訴えていた私たちでさえ驚いたのです」。
つまり「安全神話」は、実は反原発運動の中にも根を下ろしていたということだろう。言い換えるなら、であればこその「安全神話」だったのだ。それが、音を立てて崩壊した。そして、スリーマイル島原発事故が起きたということは、さらに大きな事故も起こりうることを意味していた。
奇しくも事故翌日の1979年3月29日を発行日とする『科学は変わる―巨大科学への批判―』(東経選書)で、高木仁三郎は事故を予言したと言われる。「高木の描いたシナリオとじっさいの事故の経過の差異は、発端が一次冷却水系(反応系で循環する水の系)ではなく二次冷却系(発電系で循環する水の系)の破断であった点だけである」(松本三和夫『科学技術社会学の理論』木鐸社、1998年)と。そんな高木にしても、おそらく驚きは同じだったろう。
1973年8月に東京都立大学を辞職し、後に自ら「市民科学者」と称する道を歩み出していた高木は翌74年、大阪大学にいた久米三四郎からの要請を受けて、もともとの関心事であったプルトニウムの問題に取り組みはじめていた。75年9月の原子力資料情報室の発足に際し、無給の専従世話人となることを機に反原発運動に具体的にかかわることになる高木だが、スリーマイル島原発事故が起きていなかったら、「反原発運動の教祖」などと揶揄されるほど運動に深入りすることはなかったかもしれない。
正しく言えば、運動に深入りした後の高木も、単に「反原発の高木」ではなく、実に多面的な活動をしていた。何より高木は、棺を蓋うまで科学者だった。しかし、スリーマイル島原発事故が起きたことで高木は改めて、思いを新たに原子力と向き合うことになったのだ。
◉全国原子力科学技術者連合
1969年に結成された全国の若手(当時です)研究者の組織。「全原連」と略す。中心人物の一人である元京都大学工学部講師の荻野晃也が2003年5月16日の「原子力安全問題ゼミ」で語った「退職後に考える45年間の出来事…反原発から電磁波問題まで…」に詳しい年表がある(http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/100/seminar/No93/ogino030516.htm)。また、荻野著『科学者の社会的責任を問う』(緑風出版、2020年)の第2章「京大工学部原子核工学教室に就職して」は、中身としては「『全国原子力科学技術者連合(全原連)』の活動の記録」だ。図版も多く、貴重な記録となっている。
南船北馬
荻野作成の年表によれば1969年春に荻野らが東京大学原子力工学科を訪れ、東大は5人ほど、東京工業大学からも1人参加の場で「何らかの連合体をつくろう」「原子力三原則すら無視しているウラン濃縮研究者を原子力学会で追求しよう」などと提案。7月に第1回合宿。そして「1969.11.1 原子力学会(東北大学)で学会体質に抗議し、その場で『全国原子力科学者連合(全原連)』の結成を宣言、ビラ配布。『既成の学会秩序を再検討せよ!』 『原子力開発は誰のためにするのか!』の見出し」を迎える。
結成当時のメンバーは東京工業大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、京都大学原子炉実験所(現・複合原子力科学研究所)、大阪大学の学生・院生、職員、助手、講師の有志だった。全原連の全国行脚隊は各地を飛び回り、住民と共に闘う形を作り上げていく。原子力資料情報室の項で借りた井上啓の記述を再度使わせてもらえば「メンバーは現地住民と寝食を共にするような熱心な働きかけを繰り返し、その後の反原発運動発展への大きな役割を果たし」た(原子力資料情報室『脱原発の20年』、1995年所収)。
京都大学新聞が2005年4月16日号、5月1日号に「反原発から見えたもの~科学者の批判的精神再考~」と題する荻野と小林圭二(元京都大学原子炉実験所講師)の対談を載せていた。関西人の面目躍如というか、東京代表(?)の高木仁三郎批判がキツい。けどそれは措いとこう。
さて、荻野が言う。「全原連は、裁判の手伝いなどの住民運動を影から支える運動を細々と始めたわけです」。小林が答える。「原発でも、あちこちの立地候補地で反対住民を露骨に脅すという問題が起こっていた。そういう背景があるから、学生も一緒に闘おうと立ち上がっていったんです。最初は住民の運動があって、それに感化されたんですね」。
荻野が2020年6月29日、胸腺がんのため80歳で逝去したのを偲んで『はんげんぱつ新聞』8月号に柏崎支局の武本和幸が「荻野晃也さんと全原連のこと」を寄せている。「反対運動を始めた頃で、原発関連の情報がほとんどない時代で、全原連からの情報は貴重だった。全原連は、1971~1972年の2年間で6冊もの重要な原発問題資料を発行した。当時は原発問題を整理した唯一の情報源だった」「2019年には半世紀ぶりに柏崎で合宿があった」。
その2019年 5月27日、小林圭二は荻野より1年早く帰らぬ人となっていた。高木仁三郎は荻野の後を追って2020年10月8日に没している。天国では仲良くしてねって、実は生前もけっこう親しくしてたよね。高木派の筆者にも、お二人とも優しかった。
[© Baku Nishio]
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