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極私的原子力用語辞典

西尾 漠

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第23回 「トイレなきマンション」「東海再処理施設」「東京電力」

    ◉トイレなきマンション

     廃棄物処理ができない原子力発電を揶揄して言う言葉。

     

    はじめてのはじまり

     この比喩がいつから使われているものかはわからない。トンデモ評論家として一部で知られる副島(そえじま)隆彦が主宰する副島国家戦略研究所の相田英男研究員が、2022年11月19日に「理科系掲示板」(旧「副島系・理科系掲示板」)に投稿したものでは「日本の反原発活動家の、基本的な主張は、武谷が中心となり数名で執筆された、岩波新書の『原子力発電』という本の中で、ほぼ出し尽くされている。武谷以降の活動家は、この本の文章をテンプレートに使って、ただただ繰り返すだけである。『便所のないマンション』という用語も、この本の最後に武谷が書いたのが始まりだ。『便所』の部分が、品の良い『トイレ』に、あとから変えられているが」と能書きを垂れる。

     トンデモ記述は無視するとして、これが「便所のないマンション」の始まりという証拠はない。ていうか武谷三男元立教大学教授は「言い得て妙」と書いてるんだ。日本語のジョウシキなら自分の造語じゃないってことさね。相田に限らず、根拠もなしによく「始まり」だとか言えるよね。『原子力発電』は1976年刊だが、その3年前の73年6月6日、参考人として招致された衆議院科学技術振興対策特別委員会でも、武谷はこの言葉を使っていた。むろん、それが始まりというわけじゃないよ。

     「廃棄物処理の保障のないようなものはつくるなということが今日の大原則だと思います。ところが、原子力発電においては、この廃棄物処理は全く見通しがない。これはだれもが認めている事実であります。いわば便所のないマンションをつくって、便所はその辺のどこでもいいからしてきてくれ——まあ便所だったらそれほど害はありませんけれども、そういった種類の技術であります。つまり廃棄物処理が全くない」。

     余談だけど、そのころからマンションと言ってたんだと思って検索をかけてみたら、「マンションという語は、日本のデベロッパーが昭和30年代初めより、一部の限られた階層を対象に、公団住宅などとは一線を画した高級路線の集合住宅を、高級感をイメージさせるために『マンション』と銘打って売り出したことに由来する」と、ウイキペディアでは不動産協会『日本の不動産業』2010年版から引いて説明している。けっこう古い言葉なんだね。高級感のイメージでも「便所」というのがリアルだなあ。

     いまでも「トイレのない」でなく「便所のない」を使う人がけっこう多いんだけど、そのせいかしらん。

     

    ホーンテッドマンション

     中尾ハジメ著『電気じかけの俺たち-原子力の腹の中で2』(編集グループSURE、2012年)にはトークイベントの記録に続けて居酒屋での「お疲れさん会」まで採録されていて、そこで作家の黒川創がこんなことを言っていた。

     「原発を『トイレがないマンション』だとか言うけれど、むしろ『流してないトイレ』みたいなことでもあるよね。いま生きてる人間が全部受益して、それの猛毒のゴミの管理は10万年後、100万年後の人間にまでやらせますって。いったい誰に、そんな厚かましいことを勝手に決める権利があるんだ。自分が生きている間に処理しきれるだけしか、そんなものを残す資格はない。自分が受益したものでないと、ゴミだって、ちゃんと管理できないよ。自分の排便だから流せるけど、便所開けて人のが残ってりゃ……(笑)」。

     黒川は『岩場の上から』(新潮社)という反戦と高レベル放射性廃棄物地層処分反対が交差する小説を2017年に上梓していて、そこにこんな一節もあった。「ひそかに建設されつつある使用済み核燃料の『最終処分場』には、福島で放置が続く膨大な汚染土壌のいくらかも、どさくさまぎれに押し付けたいという思惑が働きはじめているのではないか?」。同じ年、恩田陸のSF『錆びた太陽』(朝日新聞出版)には、「もうこの土地は駄目だ。だったらいっそゴミ捨て場にすればよい。どうせ再び人が住める可能性はゼロに等しいのだから、世界で処理に困っている核のゴミを集めれば、手っ取り早く現金になる」なんてセリフもあったっけ。トイレがないと、かくも没義道な考えになるのか。

     本題?に戻って『反原発新聞』(現・『はんげんぱつ新聞』)1980年4月号のコラム「風車」では、高木仁三郎編集長がこう書いてた。

     「ルイス・キャロルの有名な『不思議の国のアリス』に、『猫のない笑い』というくだりがある。木の上の猫の姿が消え失せて、笑いだけが残った場面は、テニエルの絵で有名だ。『笑いのない猫』をもじった、キャロル一流の遊びだというようなことを読んだ記憶もある。

     このあいだもキャロルを読んでいて思った。彼の流儀で言えば、原子力は『マンションのないトイレ』なのではないかと。『トイレのないマンション』かと思っていたら、実はトイレだけだった、ということにならないか。もっとも、そう言ったらすぐに、下水道もないからトイレにもならんよ、という声もあったが」。

     

    ◉東海再処理施設

     茨城県東海村に動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)が設置した使用済み燃料再処理施設。1977年9月にホット運転を開始し、核不拡散強化政策のもとストップをかけるアメリカとの厳しい交渉の末、81年1月にようやく本格運転に入った。耐震補強工事のため2007年5月で運転を停止。福島原発事故後の新規制基準対応に資金的目途が立たずに17年6月、廃止措置計画の認可申請を行い、翌18年6月に認可を受けている。廃止措置の完了までには約70年を要する見通しという(遅延必至)。

     

    安物買いの銭乞食

     東海再処理工場の「計画は、その当初においては約177億円の建設投資と平準年度210トンの操業費コストを再処理料金収入をもってコストを回収し、耐用年限のほぼ15年間で償却するという商業運転をベースとしたものであった」(『動燃十年史』、1978年)。もっとも、「当初」の前のもともとでは、原子力委員会は全額政府出資としていた。それを大蔵省(現・財務省)が、「『原子力発電が商用であるから、それに関連する再処理も商用である』との、実態と全くかけ離れた理由」を主張し、借入金でまかない再処理収入でこれを返すことを求めた、と中島健太郎元東海再処理施設建設所長は「東海再処理物語」(『日本原子力学会誌』2012年5月号)で恨み言をぶつけている。

     「しかし、その後」と『動燃十年史』に戻ると、「諸種の要因によって建設費が増嵩し、コスト低減化への配慮と相まって高レベル固体廃棄物貯蔵庫、安全管理施設などの政策要因による建設費増は、国庫の出資補助を充当することにした。同時に、発注者の電力各社から合計10億円の出資協力を得ることにした。また一方、電力側からは発注者の便益のためウラン製品貯蔵庫をはじめとする諸関連施設設置の要望があった。これらの所要建設費は、原因者負担の観点から電力側民間出資による支弁を図ることとして今日に至っている」。

     実際の建設投資は1500億円を超えて600億円超の政府支出を余儀なくされた。最大でも90トンの操業しかできず、毎年、料金収入を上回る施設操業費が注ぎ込まれてきた。2018年に廃止されるまでの操業費6400億円余のうち約700億円が政府支出ともされる。

     料金収入も結構あったんだからまあまあか。否。1兆円と試算されている廃止措置費(増額必至)は、全額が政府支出になるんだよね。

     森一久編著『原産半世紀のカレンダー』(日本原子力産業会議刊、2002年)で森が執筆している「秘話」が、建設費を抑えようとした1965年頃の苦労話を残している。

     「その頃の今井[美材(よしき)原子燃料公社]副理事長らの苦悩は痛々しいものだったが、何度かの折衝の最終局面のこと、橋本[清之助日本原子力産業会議代表常任理事]の『鬘をまた簪を、そして下着を減らしても、お嫁にはいける。着物を脱いでは行けないが』の言葉に皆の表情も和らいだ。かくてコスト削減のため外した設備には、予備の溶解槽など、化学工場として稼働率を保つための致命的なものが多く、後に臍を噛む思いをするのであった」。

     溶解槽は、設計当初 3 基を設ける予定だったのにコスト削減の観点から2 基となった。2基とも腐食で穴があいて遠隔補修のため長期に亙り停止、やはり新たな溶解槽が必要となったのだ。

     それにしても、電源三法の項の資源エネルギー庁幹部にせよ、この橋本にせよ、そろいもそろって譬えが下品なのはなぜだ、なんでだろう。

     

    ◉東京電力

     1951年に設立された東京電力株式会社は、今は無い。電力の小売り全面自由化に対応するため、2016年4月1日に持株会社体制へ移行したのだ。グループ各社の株式を100%保有する持株会社である東京電力ホールディングス株式会社を中心に、燃料・火力発電事業の東京電力フュエル&パワー株式会社、送配電事業の東京電力パワーグリッド株式会社、電気やガスの小売りをおこなう東京電力エナジーパートナー株式会社、再生可能エネルギー発電事業等の東京電力リニューアブルパワー株式会社が、東京電力グループを構成している。

     原子力発電事業や、福島第一原発事故の復旧および損害賠償は、東京電力ホールディングス株式会社が自らおこなっている。復旧・損害賠償のために、政府による公的資金が注入され、実質的に国の機関である「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」が議決権の過半数超を有する大株主となっていて、東京電力ホールディングス株式会社は同機構を介して半国有化され、政府の管理下にある。

     なお、この「極私的原子力用語辞典」では便宜上、東京電力ホールディングス株式会社となった後も単に「東京電力」としていることを、今更ながらお断りしておく。

     

    ざっと昔あったと

     東京電力は、もともと原発を建てたくなかったというと、驚かれるか、「ふざけるな」と叱られるか。東京電力と原発のそもそもの出会いの不幸さを、田原総一朗著『生存への契約』(文藝春秋、1981年)は、次のように記述している。

     1954年。日本で初の原子力予算案が提案・可決された年に、東京電力の副社長だった木川田一隆は、原子力発電の開発に着手すべきだと説く成田浩企画課長(当時)に対し、「原子力はダメだ。絶対にいかん。原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と答えた、と。

     「暗がりの中で、木川田がまるで自分自身にいって聞かせるように、『原子力はいかん』と、何度もつぶやいているのを聞いて、成田は、あきらめざるを得ないと思った」そうだ。

     木川田の師である「電力の鬼」松永安佐エ門も原発の導入に慎重だった。初の原子力予算が成立した1954年暮れに欧米の原子力視察をした松永は、「必要な原子力への努力」と言う一方、「気の早い原子力発電」と冷徹に実情を見ていた。「何と言っても、現在のところ原子力発電は採算が取れない」からだ。「これを産業に用いるとなると何といっても『ソロバン』に合わねばならない。したがってわが国でも、最近しきりに原子力発電問題で騒ぎ立てているが、これはいってみれば好事家の手なぐさみというところである」(松永著『八十青年の欧米視察録』経済往来社、1956年)。

     とはいえ1955年11月1日、高井亮太郎社長が社長室(のち技術部)に原子力発電課を新設する。当初は「原子力課」で稟申されたのに、木川田副社長が「発電」を加えたのだとか。竹林旬『青の群像 原子力発電草創のころ』(日本電気協会新聞部、2001年)は、「新設の課にあえて『発電』を冠したあたりに、木川田らしいこだわりがある」と記している。

     竹林は「技術畑出身の高井社長は、原子力発電に早くから前向きだったといわれる」と言う。それでも高井は、1958年に東京電力がまとめた『原子力発電ABC』に寄せた「わが国の原子力発電 開発上の問題点」で「導入時期が意外に切迫しており、基礎的研究、実験および建設・運転移管する訓練を同時に行わなくてはならない事情にあります」としながらも、経済性、安全性、燃料確保、技術員養成の各課題をしっかり指摘していた。

     ところが7年後、1962年9月21日の常務会で、前年に社長となった木川田は、福島第一原発の建設を宣言する。「当社も、いよいよ原子力発電所を建設します。原子炉のタイプは軽水炉。ゼネラル・エレクトリック社の沸騰水型。第1号炉は出力40万キロワットの予定。福島県双葉郡大熊町です」。

     「基礎的研究、実験」もすっ飛ばしてのこの豹変は、当時の通商産業省が導入の主導権を取ろうと動き出していたことに対抗してのもの、というのが『生存への契約』の主眼だ。1962年7月31日付電気新聞が、当時の通商産業省による日本原子力発電(当時、特殊会社の電源開発が20%出資)の特殊法人化案を報じた。通産省の狙いを田原は「日本原子力発電を特殊法人化して、通産官僚の第二の砦[第一の砦は電源開発]とし、アメリカ製軽水炉の受け皿にすることで、原子力開発の主導権を握ろうという思惑だったのである」と説いている。けっきょくこの思惑は引っ込めざるをえなかったが、「木川田は、その気配をいちはやく察知し、だからこそ、先手をうって通産官僚たちの企図をつぶすために、予定を速めてあわただしく軽水炉導入を決めたわけだ」と。

     他方で田原は、木川田と同郷・同業(医師)の家系に育った木村守江との関係が福島第一原発の建設に至ったことも記している。1958年ころ、衆議院議員として大熊町、双葉町を票田にしていた木村(のち福島県知事)から、貧しい地元を何とかできないかと相談された木川田は、「即座に、『原子力発電所がよいのではないか』と答えた」という(誘致の経緯については、福島県のお偉い方々がそれぞれ手柄話をしていて諸説入り乱れている。ここでは割愛)。

     「ところが木川田は、『原子力発電所がよい』と勧めておきながら、木村が『ぜひ誘致したい』と頼むと、にわかに態度が曖昧になった」。「そして3年たった。1961年の夏だった。木川田が『用地をそちらでまとめてほしい』と木村に頼んできた」。木川田が、「原子力発電に着手する」と発表する、ほぼ1年前だ。そのころ、通産省の動きをつかんだものか。

     さて、「木川田は、福島に続いて、1967年9月、新潟県柏崎市荒浜地区にも原子力発電所を誘致すると発表した」。さらに福島第二原発、青森県東通村での立地計画も発表する。「原子炉の大型化、集中化、そして何よりも建設のスピードアップ、と木川田は、先へ先へと突走り、とにかく既成事実をつくることで通産官僚たちの追撃をかわそうとしたのだ」とさ。

     むかしこっぷり。

     それにしても、ツケは余りに大きかった。

     

     

    [© Baku Nishio]

     

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    連載記事

    第1回 「まえがき」「IAEA」

    第2回 「Atoms for Peace」「安全性」

    第3回 「SMR」「エネルギー基本計画」

    第4回 「核管理社会」「核セキュリティ」

    第5回 「核燃料」「核燃料サイクル」

    第6回 「核武装」「核融合」

    第7回 「規制の虜」「クリアランス」「計画被曝」

    第8回 「原子力安全委員会」「原子力委員会」「原子力規制委員会」

    第9回 「原子力基本法」「原子力資料情報室」

    第10回 「原子力船「むつ」放射線漏れ」

    第11回 「原子力の日」「原子力ムラ」「原子力ルネサンス」

    第12回 「原子炉」「原子炉立地審査指針」

    第13回 「高温ガス炉」「高速増殖炉」

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    第17回 「事故隠し」「司法リスク」「使用済み燃料」

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    第36回 「量子工学」「劣化ウラン」「六ヶ所核燃料サイクル施設」