◉ビキニ事件
1954年3月1日から5月14日にかけてアメリカは、6回にわたる一連の水爆実験を23の島嶼からなる太平洋ビキニ環礁で、島民を退去させ無人にして行った。3月1日、米核実験史上最大の「ブラボー(喝采!)ショット」で太平洋の広い範囲に「死の灰」が降り、日本のマグロ漁船「第五福龍丸」をはじめ約1,500隻の漁船も浴びて、「第五福龍丸」の久保山愛吉無線長が半年後の9月23日に死亡したことから、「ビキニ事件」と呼ばれている。
なお、「第五福龍丸」は、東京都立「第五福竜丸展示館」を管理運営している「第五福竜丸平和協会」など、「第五福竜丸」と表示されることが多い。
生みの苦しみ
「核爆弾の爆発や原子炉内の核分裂によって生じた、放射性微粒子の俗称」(デジタル大辞泉)として広く使われる「死の灰」という言葉の生みの親は、ビキニ事件当時の読売新聞記者、村尾淸一だとされる。『日本記者クラブ会報』1994年4月号に村尾が書いている。
「『死の灰』という言葉が初めて人々の目に触れたのは、1954(昭和29)年3月16日、火曜日の読売新聞朝刊だった。
この日の社会面(1面でない)トップには、『邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇、23名が原子病』、さらに『水爆か』『死の灰つけ遊び回る』といった見出し」。
「遊び回る」ってどういうこと?と思うよね。ミクロネシア議会の『ロンゲラップ、ウトリック両環礁に関する合同特別委員会報告書』(1973年2月)によれば、子どもたちは確かに遊び回ったらしいけど。
第五福竜丸展示館の『福竜丸だより』2004年3月号に、ビキニ水爆被災50周年記念特別展のオープニング式典に参加した村尾のスピーチが紹介されている。「3月15日、月曜日の夜たまたま遊軍記者で泊まりだった。夜8時ごろに静岡から5行ほどの記事で第五福竜丸がビクニック環礁で原爆を浴びたらしい。ピクニックとはなんだろう、静岡の安部記者がビキニとエニウエトクを併せてビクニック環礁といった」。
ピクニックから遊び回るになったのかしらん。『日本記者クラブ会報』の寄稿を村尾は「“死の灰”を乗務員がつけて遊び回る、というのが見出しでは気の毒だった」と結んだ。
なおスクープに至るまでのドタバタ(そんな書きっぷりです)は『文藝春秋』1954年9月号に村尾が「“死の灰”スクープまで-世界の特種をつかんだ男-」と題して詳しく(詳しすぎる!)書いている。一足早く『新聞研究』5月号に載った「アメリカを驚かせたスクープ “死の灰”をとらえるまで」もよく似た記述で、読売新聞社社会部とあるが村尾の筆だね。
村尾には、ちょっぴりならず「いちびり」感がある。一方、「死の灰」という言葉に対しては恨めしく思うお方もいるようで、「新鮮で近代的なイメージを与えていた放射線がよくないイメージを与えるようになった。原因はマスコミの影響が大きいと思う」と、電子科学研究所の『ESI-News』2006年5月号に同研究所の辻本忠専務理事が恨み言を記している。「昭和29年(1954)米国はビキニ環礁で核実験を行った。近海を航行中であった漁船に、放射性降下物が降り注ぎ漁民が放射線障害を受けた。この時マスコミは放射線降下物を『死の灰』と言う新しい名前を付け、放射性物質を『放射能』という言葉に変えて報道を行った」。
ちなみに、「原子病」の名付け親は、放射線治療の研究に伴う被曝で白血病発病後、長崎原爆で被爆した永井隆長崎医科大学助教授(当時)だろう。著書に『生命の河(原子病の話)』(日比谷出版社、1948年)がある。
魚が食べたい
読売新聞の第一報が出た1954年3月16日早朝、築地市場に第五福龍丸から水揚げされたマグロやサメの一部約2トンが届き、朝日新聞は夕刊で「放射能測定器で測定したところ、1ミリグラムのラジウムが持つ放射能と同程度の放射能が記録された。この放射能は相当強いもので、30センチ以内に長くいると放射能の害を受けるし、またもちろん食べれば危険がある」と報じた。水産庁は18日、築地、焼津、三崎、清水、塩釜の5港を「遠洋漁業陸揚港」に指定、ビキニ海域を通過した漁船は5港のいずれかに入稿して放射能検査を受けることを義務付けた。また大阪の中央市場では、大阪府・大阪市の判断でマグロの放射能検査をおこなった。連日、マグロなど大量の魚が廃棄処分されたが、12月になると政府は安全宣言をして55年以降の放射能調査を中止してしまう。
ともあれこの事件は、漁業者・鮮魚商らに甚大な打撃を与えた。「浅草の魚商連合会では、魚屋殺すにゃ三日もいらぬビキニ灰降りゃお陀仏だ、という歌を歌っておる」と、1954年5月20日の衆議院水産委員会で赤路友藏議員が質問に立って発言している。浅草漁商連合会のビラ「魚屋の損害をどうしてくれる」は、「『土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい』と昔は歌われたが」と始まり、その替え歌を結語としていた。鮮魚商らは4月2日に築地中央市場で「買出人水爆対策市場大会」を開催、水爆実験反対の声明書(原爆禁止、水爆実験をやめて下さい)を決議、署名運動が始まって全国的な原水爆禁止運動に瞬く間に広がっていったことはよく知られているとおり。
廃棄されたマグロは、「水爆マグロ」ではなく「原爆マグロ」などと呼ばれた。前出読売新聞の第一報大見出しが「ビキニ原爆実験に遭遇」だったこともあってだろうか。というより日本にとっては「水爆」より「原爆」のほうが馴染みがあったということかな。
逆に「水爆実験から命名された」と時に誤って報じられるのは、水着のビキニ。1946年7月1日のビキニ環礁での原爆実験の直後、フランスのファッションデザイナー、ルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえて(”like the bomb, the bikini is small and devastating”)、ビキニと命名してこの水着を発表した、とウィキペディアにある。水爆実験は8年後だ。
映画『ゴジラ』は1954年11月3日に封切られた。これがビキニ事件から生まれたのはホントウ。
裏には裏がある
日本の原子力発電がビキニ事件から始まったと説くのは、第五福龍丸の甲板員だった大石又七著『これだけは伝えておきたい ビキニ事件の表と裏』(かもがわ出版、2007年)。つまみ食い的に引用しよう。
「アメリカは、極東地域で反共の砦となるべき日本との関係が、ビキニ水爆実験によって悪化していくことを特に恐れた」。
「一方、日本側は、このビキニ事件を原子力技術と原子炉を早急に導入するための格好の取引材料として使ったふしがある」。
「ビキニ事件をわずか9か月で決着させ、同年[1955年]6月21日、日米原子力協定がワシントンで仮調印され、翌年、1956年には、原子炉が茨城県東海村に送られてくるという早さだった。
日本の原子力発電はそこから始まる。つまり、ビキニの被災者たちは、日本の原子力発電の人柱にされたのだ」。
元になった論考は、山ほどある。興味があれば調べてみてね。
◉避難
災難を避けること。災難を避けて他の所へ逃れること。
東海第二原発の運転差し止めを求めた訴訟で2021年3月18日、水戸地方裁判所は、避難計画の不備を理由に運転を差し止める判決を下した。
アンダーコントロール
2024年1月1日から続く能登半島の地震は、地盤隆起などの地殻変動、津波と津波火災を伴い、甚大な被害をもたらした。また、そのことは改めて「原発震災」の問題を想起させた。「原発震災」とは、石橋克彦神戸大学教授が、『科学』1997年10月号に寄せた「原発震災―破滅を避けるために」で「東海地震が突然浜岡原発を襲った場合を例に、原発が大地震に直撃されるとどんなことがおこるかを考えてみよう」とした中で命名したものだ。
「東海地震による“通常震災”は、静岡県を中心に阪神大震災より一桁大きい巨大災害になると予想されるが、 原発災害が併発すれば被災地の救援・復旧は不可能になる。いっぽう震災時には、原発の事故処理や住民の放射能からの避難も、平時にくらべて極度に困難だろう。 つまり、大地震によって通常震災と原発災害が複合する“原発震災’’が発生し、しかも地靈動を感じなかった遠方にまで何世代にもわたって深刻な被害を及ぼすのである」。
福島原発事故で、現に起きたことだ。そして、その記憶が薄れていることに強い警鐘を鳴らしたのが、屋内退避・避難の困難さをより鮮明に示した能登半島地震です。
「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団」の副団長を務める盛本芳久石川県議会議員が『はんげんぱつ新聞』2024年2月号で言う。「誰もが分かりました。地震で志賀原発に事故が起これば、道が壊れ車は通れず、港も壊れ船が出せず、雪や風で空路も絶たれ逃げ遅れることは間違いありません。家が壊れ屋内退避はできず、どこへ逃げるか情報もなく、被ばくは必至です。防災・避難計画の破綻は明らかです」。
陸海空ルートの機能不全は、事故収束に向けた人の移動や電源車や機器類の搬入や被災支援の活動や物資の搬入やにも支障をきたす。なにより原発事故によって放出された放射能の存在が、さらにそうした活動にブレーキをかける。もとより屋内退避も成り立たない。
柄にもなく力が入ってしまった。
だというのに、2024年1月17日の記者会見で原子力規制委員会の山中伸介委員長は、こう宣うた。「自然災害に対する備えということに関して言いますと、もうこれまでの原災指針[原子力災害対策指針]あるいは、防災計画と防災基本計画の中で対応ができることだろうと思っておりますし、既にいろいろな原子力発電所が稼働しているそういうところでは、地域防災計画というのがきちっと立てられて、しかもその施設整備も進んでいるという、そういう状況にございます」。ははノンキだね~。で済むか!
元から断たなきゃダメ!
『新聞研究』1979年7月号で、読売新聞解説部の中村政雄が書いていた。長めの引用。
「『あんたら本当に避難対策がいると思ってんのかね。本当に避難訓練をしなければいかんのか、どうか、聞かしてほしい』
米スリーマイル島原子力発電所事故が起きて間もなく、『エネルギーを考える会』(代表幹事・三島良績東大教授)例会でのことである。会員の永谷良夫さん(福井県地方労働委員・前大飯町長)が、食いつくような目つきで私の顔をのぞき込んだ。
『ある方がいいんじゃあないですか、避難訓練くらい。万一ってこともあるし』
『ほう、万一ね。じゃあ避難しなければならんような事故が、起きることがあるってわけやね。わたしら、そうは聞いとらんのやね。原子力発電所が事故を起こしても、避難するようなことにはならんと聞いていた。だから同意したんや。避難しなければならんのなら、話は初めからやり直しですたい。第一どこに逃げますか、え、中村さん』[中略]
『あんたらは地域のことが全然わかっとらん。だからそんなことをいうんじゃ。いいですか。大飯町は昔から大雨で家が水に浸ったり、山が崩れて家がつぶれたり、集中豪雨では何度もひどい目にあってきたとこですよ。家が水に浸って命が危なくなるとわかっていても、みんな逃げずに家を守る。そういうとこですたい、地域社会というのは。その土地を離れたら生きていけんのです。だから、どんなことがあっても土地を離れない。地域社会の感情は海みたいに、ふかーいものなんです。もし避難しなければならんのなら、その深い海の底を揺さぶる大問題だね』」。
福島原発事故の後で、書き写すのがつらい。
一方で、お役人のほうはクールだ。児玉勝臣通商産業省資源エネルギー庁審議官が宣告する。「放射能で汚染された人があちこち歩き回られても困りますし、どこかで何か割り切った判断というものが必要になってくると思います」(日本原子力情報センター編著刊『TMI事故の影響分析と今後の検討課題』、1979年)。あちゃー。
そういえば『反原発』1990年11月号にR‐DANネットワーク敦賀の田代牧夫が書いていた。「敦賀から外へ向かう主要道路を見おろす“交通遮断機”は、『あゝ、事故の時はここで避難をとめられるのだなあ』と語りかけているようだ」と。「仲間と金を出しあって放射線検知器“R‐DAN”を買い、ネットワークをすすめている」田代らの活動は、「この遮断機の下りる前に何とか異常をキャッチして逃げ出せないものか、とはじまった」。
不適切にもほどがある
「原子力安全・保安院:保安院長『寝た子を起こすな』」。2017年3月17日付毎日新聞記事の見出しだ。ちょっとお旧い話で、原子力安全・保安院も原子力安全委員会も、当時の原子力規制組織である。
記事から引用する。「保安院は06年5月24日、原子力政策について意見交換する昼食会を安全委員長室で開催。保安院側は広瀬[研吉院長]氏や前院長の寺坂信昭次長(当時)ら、安全委側は安全委員5人らが出席した。出席した久住静代委員によると、広瀬氏は、安全委が06年3月に放射性物質が大量放出される重大事故に対応するため、国の原子力防災指針の見直しに着手したことについて、『臨界事故(茨城県東海村、99年)を受けてせっかく防災体制がまとまった。なぜ寝た子を起こすんだ』と厳しい口調で批判したという」。
各マスメディアがこぞって報じたことから、原子力安全委員会は「防災指針改訂に関する保安院との打合せ経緯(メモ)」や関連資料を公開した。広瀬院長の「寝た子を起こすな」に劣らず、保安院側の高姿勢に驚かされる。保安院原子力防災課から安全委員会事務局管理環境課に宛てた「防災指針の検討に対する意見」には、こんな物言いがある。「当院の認識を十分確認せず、防災指針の見直しについてワーキンググループにおいて検討を始めたことに対し、改めて抗議するとともに、貴課の対応に懸念を述べるものである」。
言葉に絶えたる驕りの骨頂。それって安全委員会の委員たちをしっかり「虜」にしとかなかったってこと? ま、委員諸氏も、避難に消極的なことでは原子力安全・保安院と大同小異だったんだけど。
◉被曝
放射線や化学物質にさらされること。「被ばく」と書かれることも多い。1字違いの「被爆」は原水爆などによって被害(光線、熱線、爆風の影響を含む)を受けることで、「被ばく」と表記されることはない。放射線被曝と原水爆被爆を包括した言葉としては、「ヒバク」が使われている。
臍で茶を沸かす
「被曝という言葉があるが、これは実に下らない言葉だ。爆弾の被爆を連想させるだけではない。意味がはっきりしない」と宣うのは大神正元日本原子力発電副社長の「原子力発電草創の記⑬」(1990年1月31日付電気新聞)。
「発電に使った蒸気を海水で冷やし水に戻すが、この冷却水を原子力では温排水という。火力ではただ冷却水だ。
また逆に原子炉内の水は一次冷却水というが、その名称の発想は、もともと核燃料を冷やすという意味合いで、爆弾をつくるのが目的なら、その水は冷却後捨ててしまえばいい。文字通り冷却水だ。だが発電はその水、蒸気を使うのが目的なんだ。それを爆弾づくりと同じように冷却水というのは、ずいぶんアホな話だと思う。
こういうことは、原発反対に足がかりをつくってやるようなもので、だからもっと適切な日本語に直すことが必要だと、しょっちゅう言っていたんだが、実現しなかった」と憤る。
火力でもふつうに「温排水」と言うけどね。ともかく爆弾と結びつくのがマズイと思ってるんだろうな。
大神とおそらく同じ考えを、はるかにもっともらしく展開しているのが、多賀谷昭長野県看護大学名誉教授の随想「被曝という言葉とその表記について」(『日本放射線看護学会誌』2018年1月号)だ。まず、「被曝」は中国語では通用しないと指摘する。なるほど中日辞典にも載っていないようだ。その上で「影響を受ける部内者の立場から現象をとらえている」とか「否定的イメージを伴い、肯定的な内容を表現するのは難しい」とかと理由を述べて「この語を科学的研究や議論に使うには勇気がいるだろう」とおっしゃる。さらに「『被曝』は1)音が『被爆』と同じで、2)字形も『被爆』と紛らわしく、3)漢語としては通用せず、4」意味は曖昧で否定的な趣がある。どう考えても学術用語には向いていない」と。
あ、そう。はばかりながら葉ばかりで実のないお話だねえ。
爆弾の被曝を連想させるのを排したいという背景には、「原爆・原発一字の違い」の現実がある。どだい切り離すことなんてできない相談さ。
[© Baku Nishio]
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