◉量子工学
大津元一・荒川泰彦ほか編『量子工学ハンドブック(普及版)』(朝倉書店、1999年)の編者代表二人による「序」には、「量子論を基礎とする工学」とある。量子とは何か。大阪大学の研究専用ポータルサイトResOUが、こう説明している。「量子は『粒子』と『波』の性質をあわせ持った、微少な物質やエネルギーの単位のこと。物質を形成する原子や、原子を作る電子・中性子・陽子、光の粒である光子や、ニュートリノなどに代表される素粒子が、量子に含まれる」。
看板の架け替えリニューアル
東京大学工学部の「原子力工学科」が1993年4月から「システム量子工学科」と変更したことで、それまでなかったわけではないが「量子力学」に比して馴染みのない「量子工学」なる言葉が、装いを変え(『量子工学ハンドブック(普及版)』は1000ページ近い大著だけど、原子力も放射能も出てこない)「原子力工学」の隠し詞として浮上した。なお2000年4月からは他学科と統合され「システム創成学科」となって「量子工学」は消えている。
1993年という年を、文部科学省研究開発局原子力課は2024年7月5日、「科学技術・学術審議会研究計画・評価分科会原子力科学技術委員会原子力研究開発・基盤・人材作業部会」という長たらしい会合に提案した「今後の原子力科学技術に関する政策の方向性(中間まとめ(案)概要)」で、こう書いていた。「平成5年頃から、原子力関連学科等への入学者数の減少が顕著となり、原子力学科・専攻の改組・名称の変更が相次ぐ状況」と。
日本原子力産業会議の人的資源確保委員会が1992年3月にまとめた中間報告書「長期的な人材確保への原子力界の課題」には、いまの学生は「反原子力」でなくても「厭原子力」だとあった。1年後の東大原子力工学科改名を報じた1992年6月21日付読売新聞は「人気がなくなった『原子力』の看板を降ろし、優秀な学生を確保することが最大の狙い」と報じていたけど、改名したものの効果はなかったということらしい。
むろんのこと、東京大学はそんな狙いでないと言い張る。『エネルギーレビュー』1993年4月号で近藤駿介教授の言い分を聞こう。ちなみに近藤は原子力工学科の1期生だった。
「東京大学工学部原子力工学科は、この4月よりその名称をシステム量子工学科に変えようとしている。その理由を一口で言うと、原子力発電がわが国において電力供給の面で基軸エネルギー群の座を占めるに至った今日、原子力発電と放射線応用のための総合科学技術として発達してきた原子力工学の中で『エネルギー量子工学』、すなわち量子レベルのミクロな現象の理解の上にエネルギー、情報、物質の創製と応用を研究する分野と、「システム設計工学」すなわち大規模な工学システムの設計、建設、運転に係わる核、熱、流体、構造材料力学等の学問分野の知見の総合にもとづく設計とシミュレーションの科学、安全確保の科学、人と機械のよりよい関係をめざす科学などから構成される分野が発展しつつあるので、これらを総合して『システム量子工学』と呼び、これを次世代の原子力工学として育てていきたいと考え、その決意を明らかにするためである」。
これが一口? 大きな口だなあ。さっぱりわからん。
◉劣化ウラン
原子力百科事典「ATOMICA」には「濃縮ウランを製造すると、U‐235の割合が0.2%程度のウランが残る。このウランを劣化ウランという」とある。ところが、「減損ウラン」の項にも「ウラン濃縮施設で発生するウラン235濃度が0.2〜0.3%の廃棄濃度ウランをいう」と出てくる。ただし、「あるいは、原子炉内で燃焼することにより、ウラン235濃度が使用前に比べて低下したウランをいう」と続きがある。ところがさらに「どちらも劣化ウランとも呼ばれ、用語としては区別せずに用いられている」と続くからややこしい。その先まで読むと、「米国では軽水炉の使用済燃料は直接処分し、再処理・ウラン回収を行わない政策を採用していることもあり、depleted uraniumは専らウラン濃縮施設で発生する廃棄濃度ウランを指している。日本では減損ウランと劣化ウランの用法に区別はないが、再処理施設で分離されたウランについては、減損ウラン又は劣化ウランの呼称を用いず、回収ウランと呼ぶことが多い」。
塵も積もれば
さっぱりわからん。
劣化ウランも減損ウランも和英辞書でどちらもdepleted uranium。日本では区別がないというが、濃縮後の廃棄濃度ウランを劣化ウラン、再処理後の回収ウランを回収ウランあるいは減損ウランと呼ぶことが多いようだ。しかし古い資料を見ると、逆になっている。ムズイすね。日本原子力研究開発機構では今も、濃縮後の廃棄濃度ウランを減損ウランと呼んでいる、と書いていて気付いた。そう呼んでいるのは、日本原子力研究開発機構の中でも旧濃縮施設の人形峠環境技術センターだけなのか。わざわざ「『劣化ウラン』とも、呼ばれます」とエラそうに註をつけたりしてら。イヤですねえ、もう。
廃棄濃度と書いたけど、「ATOMICA」は「劣化ウランは、高速増殖炉の燃料の親物質として使用できるので、廃棄物になるわけではない」という。回収ウランあるいは減損ウランも再濃縮して使用できるといわれる。ただし、どちらも現実にはほとんど使用されていないけど。
劣化ウランの使用先としてよく知られているのは、劣化ウラン弾や戦車の装甲だ(矛にも盾にもってか)。航空機の重りにも使われ、1985年8月の日本航空123便墜落事故で広く知られるようになった。最近ではレドックスフリー電池(電解液を循環させて充電、放電するしくみの蓄電池だそうです)への使用が取り沙汰されている。核燃料物質であり放射性物質なんだけど。
それだけ溜まり続ける劣化ウラン・減損ウランの山を恨めしく見てるんだろうな。
◉六ヶ所核燃料サイクル施設
青森県六ヶ所村に日本原燃が保有する核燃料サイクル関連の複合施設。未操業の再処理施設、MOX燃料加工施設は、運営主体が使用済燃料再処理機構に変更され、日本原燃が委託を受けて操業を目指す形に変わった。ウラン濃縮、低レベル放射性廃棄物埋設、英仏の再処理工場から返還されたガラス固化体の貯蔵は従来どおり日本原燃が運営主体。
武陵桃源
1984年4月20日、電気事業連合会の平岩外四会長らが青森県に北村正哉(「哉」の字は戸籍上はノが付かないものだとか)知事を訪れ、核燃料サイクル施設の県内立地に協力を要請した。7月27日には六ヶ所村への集中立地と決定し、県と村に正式に申し入れている。そのときの会長は、6月から替わった小林庄一郎関西電力社長だった。小林は「六ヶ所村のむつ小川原の荒涼たる風景は関西ではちょっと見られない。やっぱりわれわれの核燃料サイクル三点セットがまず進出しなければ、開けるところではないとの認識を持ちました。日本の国とは思えないくらいで、よく住み着いて来られたと思いますね。いい地点が本土にも残っていたな、との感じを持ちました」と語ってた(1984年9月3日付朝日新聞青森県版)。
1970年1月3日の朝日新聞に「原子力コンビナート造り 通産省・産業界」と見出しの付いた記事が載った。「製鉄を中核に推進 下北半島が最有力」だと。製鉄とは、高温ガス炉を使ってのものを言う。現地を見た稲山嘉寛新日鉄社長も小林と同様の感慨を覚えたようだ。「むつ小川原地域は初めてみたが、まったく驚いた。まるで人工的に埋め立てでもしたように広大な工場適地が広がっているように思えた。このような地域をバラバラな構想で開発するのは好ましくない」(鎌田慧『六ヶ所村の記録 下』岩波書店、1991年より再引用)。この構想の頓挫については「高温ガス炉」の項で触れた。
六ヶ所村への核燃料サイクル施設集中立地に落ち着くまでは、実に複雑怪奇な動きが交錯していてすっきり理解しがたい。最もよく説明してくれているのは、江波戸宏デーリー東北編集委員兼論説委員の著『検証 むつ小川原の30年』(デーリー東北新聞社、2002年)で間違いない。もともとの出発点は、青森県の委託を受けて日本工業立地センターがまとめた「むつ湾小川原湖大規模工業開発調査報告書」(1969年3月)だそうな。そこには、こう書かれていた。「わが国で初めての原子力船母港の建設を契機として原子力産業のメッカとなり得るべき条件をもっていることである。当地域は原子力発電所の立地因子として重要なファクターである地盤および低人口地帯という条件を満足させる地点をもち、将来、大規模発電施設、核燃料の濃縮、成型加工、再処理等の一連の原子力産業地帯として十分な敷地の余力がある」。
当時の中曽根康弘首相が1983年12月に衆院選の遊説先の青森市で記者会見をした際「下北を日本の原発のメッカにしたら、地元の開発にもなると思う」とのたもうたというのは、この報告書のパクリか。
わかっちゃいるけど
2001年8月27日付電気新聞の匿名コラム「観測点」に新波人なる筆者が、こう書いていた。
「日本原燃の現在の経営ルールは『原子力長期計画にうたわれているスケジュールにできる限り従って商業用再処理施設を完成させ、運転を開始すること』である。しかし、これは企業として本来あるべき経営ルールではない。
原子力関係者の誰もが、現在六ヶ所村に建設中の再処理施設とそれに続くMOX燃料加工工場では、ウラン燃料や他のエネルギー源との競争環境下で、利益を出すことが不可能なことを暗黙の内に理解している。
企業が衰退しない前に、今わが国に必要なのは企業(産業)なのか、それともエネルギーとしてのプルトニウム利用技術なのか再検討する必要があるのではなかろうか。残された時間は多くない」。
それから4半世紀近く、残されていた時間を無駄に費やしてる。
元をただせば
再処理工場が青森県六ヶ所村に建設されることになる以前に、さまざまな候補地の名前があがっていた。列挙してみよう。北海道利尻島、奥尻島、青森県東通村、風間浦村、市浦村、むつ市、秋田県本荘市、岩手県釜石市、山口県上関町、長崎県平戸市、鹿児島県徳之島、西之表市、内之浦町、加計呂麻島、沖縄県西表島、沖大東島……。
このうちかなり具体的に話が煮詰まっていたのは奥尻島で、森一久編著『原産半世紀のカレンダー』(日本原子力産業協会、2002年)で森が書いている「秘話」によれば、「いよいよ日本原燃サービス社も腹をかため、時機をみて正式に奥尻島に立地を申し入れようとした」という。1983年のこと。「具体的には、直近の北海道知事選挙の『翌日にでも島に出向きたい』と考えていたのであった。ところが、同知事選挙の結果は、大方の予想に反し、現職知事の後継者が敗れて、社会党の横路氏が当選、政治情勢は一変してしまった。このために原燃サービスは急遽青森県へのアプローチを急ぎ、2年後に六ヶ所村が『三点セット』の敷地に決まった」そうな(三点セットとは、再処理工場、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設施設の3つ。当時は高レベル放射性廃棄物管理施設は再処理工場の付属施設とされていた、っていうか実質はその通りです)。
なお、電力会社の本音としては、六ヶ所村は本命ではなかったらしい。『検証 むつ小川原の30年』は言う。「再処理工場の本命はあくまでも隣接の東通村だった。と言うのも、同村では東京・東北両電力の原発用地として、約900ヘクタールに及ぶ広大な面積が確保済みとなっていた」。そんな広大な面積を手に入れはしたものの持て余してたんだろうね。東通村の村長が、ことあるごとに「東電は本当に原発を建ててくれるのだろうか」と漏らしていたことは、「福島第一原発事故」の項に書いたっけ。
例によって脱線する。森一久の「秘話」のひとつに、「東通原子力発電所のルーツ」があった。全文はややこいんで、一部を抜き出してつなげる形で引用しよう。
「創立[1956年]10年目の頃、ある大手不動産会社のトップE氏等が来訪され、意外な提案を受けた。『青森県下北半島に数千万坪の遊休地がある。これを原産が買収しておいて、しばらく保有しておき、将来原子力等の需要がでたら売却して、運営の安定資金にすることを考えたらどうか』
『とにかく現地を目で見なければ」というわけで、松根宗一・橋本清之助両常任理事らが視察に出かけた。ちょうど5月。最も良いシーズンだったためか、『原子力には勿体ない位の素晴らしい場所』というのが第一印象であった。青森県の大幹部にはやはり原子力関係施設の誘致の意向が極めて強いことともわかってきた。
この件は、橋本常任理事から東京電力の木川田一隆氏に相談、とりあえずその土地の一部2000万坪程度を取得してもらって、将来の原子力発電の立地にあててもらえないものか、と要請した。その頃は、原子力発電の立地はそれほど行き詰まっていなかったが、大局的見地で協力してもらうことが出来た。木川田氏は東北電力と相談し、両社それぞれ約1000万坪を買収することとなった」。そのツケがまわったのね。
これで全部、伏線回収。
[© Baku Nishio]
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