◉原子力船「むつ」放射線漏れ
1974年9月1日、太平洋上で試運転中の原子力船「むつ」で起きた事故。
おにぎり握りましょ
前夜までの漁船団による猛抗議が嵐のため終息した1974年8月26日未明に青森県むつ市の大湊港を出港した日本原子力船開発事業団(当時。のち日本原子力研究所に併合、さらに同研究所と核燃料サイクル開発機構が統合されて日本原子力研究開発機構)の原子力船「むつ」は28日、下北半島尻屋沖800kmの実験海域に到着、午前9時の運転開始宣言で原子炉の制御棒を引き抜き始めた。予定していた4本まで抜いても臨界に達しなかったが、さらに4本引き抜いたところで午前11時34分、核分裂反応が始まった。はじめから計算を間違えていたんだって。やくたいもない。
それから4日後の9月1日午後5時17分、出力を0.7%から1.4%に徐々に上げていく途中で、原子炉室上部甲板の放射線エリアモニターが警報を発した。高速中性子は直進するのでしゃへい板で防げるという事業団や原子炉メーカーの三菱重工の予想に反して漏れは起きた。
そこで、にわかに船内で飯炊きが始まる。約40キロの米が炊かれ、中性子を吸収するホウ素を混ぜたおにぎり(握ったというよりつぶしたので「お餅」とも)をつくり、ナイロンストッキングに詰めて間隙をふさぐ作戦が行なわれた。ドイツの原子力船「オットーハーン」でも試運転段階で同じような漏れがあり、小麦粉とホウ素を水でこねた「パン作戦」がとられたのだという。
もっとも「おにぎり(お餅)作戦」は、さして効果を発揮はしなかったらしい。中性子が高速なので、うまく吸収できないのである。そこで鉛しゃへいの上に「米飯しゃへい層」を置くと、格納容器頂部の中性子線量率はかなり減少した。ただしガンマ線量率はほとんど減らなかった。
事故を起こした「むつ」には、マスコミ代表取材として、地元青森の東奥日報とデーリー東北の2社、それに共同通信からと計3人の記者が乗船していた。この記者たちが乗っていなかったら、事故は隠されていたかもしれない。という以前に、原子力ムラでは「むつ」の放射線漏れに「事故」という言葉は使っていない。単に「放射線漏れ」と言う。まあ、いつものことさ。
それはさておき、デーリー東北の吉田徳寿記者が『月刊きたおうう』(「北奥羽」の変換漏れじゃないよ)1974年11月号に載せた記事をもとに、朝日新聞「原発とメディア」取材班『原発とメディア2』(朝日新聞出版)で隈元信一記者が当時の様子を伝えている。
「事故が起きたのは、9月1日午後5時17分。共同通信の高間徹は、制御室で放射線モニターを見ていた。警報のブザーが鳴り、45度くらいの角度で上がっていく。
『大丈夫ですか?』『この警報は当たり前。1メートル向こうは原子炉なんですから』
その夜、高間は帰港後の連載のために、甲板で技術部長を取材した。線量計を持った部下の動きがあわただしい。
『何か起きたんですか?』『いや別に、放射線量を測っているだけです』
その部長が翌朝、緊張した表情で3人を集めた。『実は、放射線が漏れました』
吉田の記憶によれば、『何か漏れたみたいだ』と最初に気づいたのは、東奥日報の和島善男だった。
和島は乗船時から記者をいやがるような『隠蔽体質』を感じた。『何かあったら隠さないように。隠すと後でかえって大変なことになる』。3人でそう申し入れた。
和島は言う。『もし私たちが乗っていなかったら、あの事故は隠蔽され、何年か後に分かることになったかもしれません』。
吉田は、原因究明にきた調査団からこんな言葉を聞いた。『怖いのは、放射線漏れより情報漏れ』。そのとき『記者が乗船していて良かった』と痛感したという」。
ですね! ですね! ですね!
やっちまったなあ!
「高間は」と名前が出てくる共同通信の高間徹記者も、『科学行政週報』1983年9月6日号でほぼ同じことを書いていた。
その話に続けて、高間記者が愚痴る。
「私も船上から『むつが放射線漏れ事故起こす』という原稿を送ったのだが、いくつかの新聞社が見出しで『むつ放射能漏れ事故』とやってしまった。“線”が“能”に変わって新聞社のデスクがこの違いを知らなかったのか。この教授[「某東大教授」だとさ。だーれだ?]はここぞとばかり、私を攻撃してきた。講演や雑誌に『むつに乗っている記者は原子力を全く知らない“無能記者”だ』と決めつけ、マスコミはこうした間違った報道をして原子力を危険なものにしている、と宣伝した」。
43年後の2017年11月27日付電気新聞に、原子力デコミッショニング研究会の石川迪夫会長が、いまだに間違いを書きつらねている。「むつは日本初の原子力船だ。試運転での不具合は当然ある。遮蔽欠陥から漏れ出た『放射線』を、『放射能』と特派員が間違えて報じたから大変だ。原子炉から放射性物質が漏れ出たと受け止めた地元はパニックに陥った。試運転での不具合は一転して事故となり、帰港を拒否されたむつは50日間の洋上漂流を強いられた」。
見出しに「放射能漏れ」と報じた新聞を確と見てみよう。他ならぬ電気新聞と読売新聞、それに日本経済新聞だ。面白いでしょ。この事実、消しゴムマジックじゃ消せないぜ。
いずれも本文では高間記者の原稿通りに「放射線漏れ」と書いている。「失敗知識データベース‐失敗百選」(https://www.shippai.org/fkd/lis/hyaku_lis.html)に入っている「原子力船むつの放射能漏れ」で東京大学大学院工学系研究科総合研究機構の中尾政之教授は「マスコミが『放射能漏れ』と報道したため『むつ』が『放射能を撒き散らす船』のような印象を与え、その後の開発プロジェクトの進捗に大きく影響を与えた」ともっともらしく述べているが、不見識も甚だしい。「失敗知識」とは、よくぞ言った。そんなものが、あたかも学問的成果のごとくに引用されたりしているんだから呆れ蛙の頬かむりだぜ。世も末ですな。
間違いも放射線安全フォーラムの加藤和明理事長に至っては、ホームページの「理事長コラム」で2011年6月13日、「『むつ』の“放射線漏れ事故”など、最初の1ヵ月、日本を代表する新聞でさえ『放射能漏れ事故』と言い続けていた」なんて、そんなことあるはずがないってわからないのかしら。不束者めが。
もちろん「原子炉から放射性物質が漏れ出たと受け止めた地元はパニックに陥った」りもしていない。洋上漂流を招いたのは、事故前の推進者たちの言動である。
日本原子力船開発事業団の西堀栄三郎理事は、1967年9月28日づけの東奥日報夕刊で「原子力の平和利用を恐ろしいものだ、危険なものだと思っている人は、文明から置きざりにされた原子アレルギー患者」「“原子”の字のついたものは何でも恐ろしいものだと宣伝しているのは火を恐れる野獣の類」と決めつけた。森山欣司科学技術庁長官も74年6月5日のむつ現地視察で「反対は科学に対する挑戦。原子力を恐れるのは火におびえる獣だ」となぞってみせていた。
青森県の竹内俊吉知事や、むつ市の菊池渙治市長が出港延期や中止を要請したのを振り切り、強行出航したとたんの事故だから、漁民をはじめとする青森県民の怒りが「むつ」の帰港を許さず洋上漂流させたのを「パニック」と呼ぶなんて、げろげろのげーだ。
誇り高き男たち
1974年10月14日、大湊入港後6ヵ月以内に新母港を決定し、2年半以内に撤去を完了することを目途として11月1日から大湊母港の撤去作業を開始するとの条件を政府が受け入れたことで国・県・市・県漁連の四者協定が締結される。翌15日に「むつ」は、ようやく45日間の“洋上漂流”を終えた。
「むつ」の荒稲蔵船長は、「国の強い指示とはいえ、強行出航せざるをえなかった。漁民にとってショックだったと思う」などと政府の姿勢に抗議の色をにじませつつ、辞意を表明した。強行出航の時は「同じ海の男として漁船を蹴散らして出るわけにいかない」と、そうしなくてよい時機を待っていたという。刺さるよね。
日本原子力船開発事業団の中で一人だけ強行出航に反対していた吉本利典むつ事業所海務部長も9月28日、「政府は現地の事態を無視してすべてを頭越しに決定、ゴリ押しする」と理事長に辞表を提出していた。
ほんのちょこっとなんだけど
原子力船「むつ」というが、正式に原子力船とされたのは進水式から22年が経った1991年2月14日のことだ。原子力問題情報センター発行の『原子力ニュース』108号(1990年4月)で、中島篤之助中央大学教授が「『むつ』は実は船ではない」という話を書いていた。
「当時の安全審査会の会長は、現在の原子力安全委員会の委員長である内田秀雄氏であったが、氏は、『原子炉の安全審査は基本設計についてのみ行なうものであって、原子力発電所などの場合には詳細設計に関する部分は通産省の発電技術顧問会で行なう。この場合安全審査会のメンバーと顧問会のメンバーが重複しているので、一貫した審査が行なえる体制になっているのだが、原子力船の場合にはそうなっていなかったのが放射線漏れの原因だ』と述べ、安全審査は正しかったのだと主張して責任をいわば運輸省に押しつけたのであった。この発言にかんかんに怒ったのが運輸省であって、そういうことを言うなら『むつ』は試運転に失敗したのだから、従って『むつ』には船舶証明を与えないということになって、『むつ』は船ではなくなってしまったのである」。
内田の言う「一貫した審査」のお手盛り賛美にもびっくりぽんや。でも、それは別の話。ともあれ1991年2月14日、科学技術庁から原子炉の使用前検査合格証、運輸省から船舶検査証書が交付される。20日に竣工式。25日から3月11日までの第1次実験航海以後、同年12月11日まで4次の実験航海を行ない、92年2月14日で実験終了が宣言された。
1993年5月から7月にかけて使用済み燃料を取り出し、95年6月22日には原子炉室が撤去されて、陸上の保管施設へと移される。翌23日付のデーリー東北は、「進水以来困難続きの26年間」の軌道を追い、「原子力実験船として歴史に幕を閉じた」と報じた。
進水からの航海日数は、1ヵ月半の“漂流”やら修理のための回航やらを含めて、わずか240日。うち原子力による航海は150日足らず、100%出力換算で95日にもならない。そんな実験航海がともかくも終わった91年12月11日、日本原子力研究所の下邨昭三理事長は「これで『むつ』の性能は見事に実証された。得られたデータは将来に大きく貢献するものと確信している」と述べ、聴く者をして大いにしらけさせた。
そうした「しらけた」コメントで責任を回避しようとすることこそが国家プロジェクトに共通した弊害で、計画を途中で変更も中止もできなかった――と、95年6月23日づけの東奥日報の社説は指摘している。
『原子力白書』を見ても、1994年版からは、もはや原子力船についての記述は消えている。さもありなん。総費用1200億円を150日で割り算して1日8億円也のコストをかけて得られたデータが貢献すべき先は、見当たらないのが実情だ。「原子力船時代」は、片鱗すら見せることはなかった。
あとは野となれ、ごみ山となれ
無用の長物どころではない。前掲の1995年6月23日付デーリー東北に「『核のゴミ』地元に置き去り」の記事がある。原子炉室の陸上保管施設は、96年7月20日、むつ科学技術館としてオープンした。原子炉を鉛ガラス越しに見学させている。「展示館は原子炉冷却のための一時保管施設、というわけだ。しかし、肝心のどこで解体し最終処分するのかは、まだ決まっていない」。
原子炉の運転に伴って発生した各種の放射性廃棄物は、科学技術館に隣接した施設で保管されている。最終処分の行方は何ら決まっていない。原子炉から取り出された使用済み燃料は、科学技術館から道路を隔てた建物に保管されていたが、2001年6月から11月にかけて茨城県東海村の日本原子力研究所ホット試験施設に運ばれた。核燃料サイクル開発機構の再処理施設で再処理するため、同施設の受け入れ条件に適合するよう解体・再組立てが行なわれたが、同施設は2017年に廃止が決まり、海外委託の可能性を探るという。日本原子力船開発事業団が紆余曲折の末に吸収された日本原子力研究開発機構の原子力科学研究所燃料試験施設にずっと保管されたままである。
原子炉室が撤去された「むつ」の船体のほうは、所有者を海洋科学技術センターに移して、関根浜港を母港とする海洋観測研究船「みらい」に改造された。1997年に前青森県副知事の山内善郎が佐藤秀樹の聞き手構成で出版した『回想 県政50年』(北の街社)は言う。「『むつ』に協力した青森県への見返りが『みらい』だった。正確には、国策に振り回された青森県側が土壇場でようやく国から勝ち取った“代償”だ」。
1985年4月に六ヶ所核燃料サイクル施設の受け入れを決めた当時の北村正哉青森県知事は、95年6月23日付のデーリー東北で「『むつ』によって下北半島が原子力開発のメッカとして狙われた感じがあるな」と無責任に述懐しているけど、残されたものは余りに大きい。
ドグマチックが止まらない
「むつ」の開発当事者らは、「むつ」は失敗でないと言い続けた。しかし世間では、だれもが「失敗」と見ている。何か失敗事例があるたびに「『むつ』の二の舞い」という言葉が用いられた。最も多い用例は、高速増殖原型炉「もんじゅ」に関してのものだ。そこで、「むつ」と「もんじゅ」をめぐっては、めっちゃ笑かす「論争」もあった。『原子村』という茨城県東海村の原子力関係者の同人誌の1996年春季号でのことだ。
日本原子力研究所(原研)から動力炉・核燃料開発事業団(動燃)に移り、高速増殖炉開発本部主任研究員、理事を経て退任した望月恵一が「正月、多くの方々から頂いた年賀状で、『もんじゅ』は『むつ』の『二の舞』の如きだと指摘された意見が有りました。確かに、ここまでの所はその様に思われても仕方ありません。しかし私の考えでは、『もんじゅ』は『むつ』と違って、わが国原子力開発の“根幹”に触れる問題と考えます」と書いたのに対して、掲載前の原稿を読んだ元原研理事の吉田節生が同じ号で噛み付く。
「大兄は、もしかしたら一部マスコミが未だに口にするように『むつ』は廃船になったと認識しておられるのではないでしょうか。だから『もんじゅの問題は、むつと違って……』と強調し、『もんじゅ』を廃炉にしてはならないとの考えに基づいて述べているようにもとれます。
若しそうなら、これは大変な誤解です。私は計らずも当時原研にいて修理を終えた『むつ』を組織ぐるみ引取る任務に携わっていました。
『むつ』は、自民党一党支配の時代に、党内の有力な廃船論に対し、原子力委員会始め関係者は辞表を懐に存続論を展開し、存続決定後は修理をし、8次にわたる[?]厳しい実験航海を終え、自主技術のみで所期の成果を挙げたのでした。その成果は、よりコンパクトで効率的な舶用炉の研究開発へと引き継がれ、解役(廃船ではなく)後の船体は今後海洋観測船としての活躍が期待されています。
だから『もんじゅ』の存続を願い、高速増殖炉の研究開発を継続すべきという立場をとるとしたら『むつと違って』などというべきではなく、『むつ同様に』とか、あるいは『それ以上に』というべきです。高速増殖炉といえば他の研究開発と異なって最優先、肩で風を切れるとの思い込みは、これも動燃の体質の中の積弊の一つです」。
その後の原子力船開発の末路を考えるなら、やはり「むつと違って」に分があると言えそうだ。しかし「もんじゅ」は、「むつ同様に」形ばかり動かし、「所期の成果を挙げた」と強弁して幕を閉じるという「二の舞い」すら舞えなかった。より惨めに「むつと違って」しまった。
残念! でした。
長すぎる
ルナールの「蛇」じゃないけれど、「むつ」についてだけ他とバランスの悪い記述になってしまった。それでも、まだまだ残しておきたいエピソードが山ほどある。拙著『原発事故!』(七つ森書館)で、もう少し長く書いている。興味のある方はどうぞ。
[© Baku Nishio]
※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。