◉原子力の日
10月26日は「原子力の日」とされている。1956年のこの日、国際原子力機関憲章の調印式があり、日本も調印した。そして7年後の63年、同じ10月26日に日本で初めての原子力発電が日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)の動力試験炉で行なわれたのを記念して命名されたものである。翌64年から毎年、政府や電力会社などが、この日を中心に原子力PRのキャンペーンをくりひろげてきた。これに対抗して同じ日を「反原子力の日」と呼び、反対のキャンペーンをすることも77年に始まった。
明かりをつけましょ
「原子力の日」も「反原子力の日」も、どんどん下火になっている。1992年10月19日付電気新聞の匿名コラム「原子力 知っているようで知らない話」によれば「総理府が数年前に行った2回の世論調査によると、成人の約1割が『原子力の日』を知っていると回答し」たそうだけど、今じゃ関係者以外誰も知らないよね。
さて、コラム「原子力 知っているようで知らない話」は1週間後の10月26日付で「きょうは『原子力の日』」を、こう書いている。「1963年の10月26日、茨城県東海村の日本原子力研究所では、動力試験炉(JPDR)の出力上昇試験が行われていた。タービン・発電機の回転数と周波数が合わされ、同調スイッチのボタンが押されたのは、午後4時59分だった。それが、原子力発電に成功し、発電が開始された瞬間である」。
もう少し引用を続けたい。
「その1時間後の6時から、原子力研究所から数百メートル離れたホテル東海クラブで、産業界の主催による記念パーティーが開かれた。会場には、東京電力の協力によって、原子力発電の電気が特別に送られた。
記念のあいさつが述べられた後、ホテルの電気がすべて消されて真っ暗となった。そして、花火を合図に、菊の花で飾られた電光パネルに、原子力の電気がともされたのである。このパネルには、600個の豆電球で『JPDR、発電開始記念』という文字や原子のマークが浮かび上がったという」。
ところが、これはしたり実はこの時が初発電ではなかったそうだ。当時は日本原子力研究所でJPDRの建設・運転に携わっていた石川迪夫北海道大学教授が『科学技術ジャーナル』1993年2月号の連載「あの日あの時」で語っている。「あの時は、新聞各紙とも初発電の記事を一面と社会面で大きく扱いました。オーバーな表現の記事が氾濫するのを見て。『こんなのウソだよ」なんて、皆とゲラゲラ笑いながら、さすがに嬉しかった』」。
そして「もう時効だから」として言う。「本当のことをバラしますと、実はホンの一瞬ですが、あの前日、タービンに蒸気を送って発電をしているのですよ」と。「失敗したら恥ずかしい。それで、リハーサルしたんですよ。確かに発電できるのを確認して、本番を迎えました」だって。
ついでに一言。各紙とも初発電の記事を一面と社会面で大きく扱ったなかで10月27日付読売新聞はいみじくも「まず原子力船への期待」と小見出しをつけていた。原発より原子力船のほうが期待されていたんだ。それが「むつ」の事故で挫折することになろうとは、夢だに思っていなかったんだろうね。
はい、残念!
夜明け前
「原子力の日」は10月26日だが、かつては4月に「原子力デー」があった。『原子力産業新聞』1961年4月15日号の「随想」欄に中曽根康弘衆議院議員が「原子力デーに思う」を書いている。「陽春4月は一般国民の科学技術への関心を深めるのには最もふさわしい時期であると、私はかねてから考えておりました。私がかつて科学技術庁長官在任中に、4月に科学技術週間を設定し、そのうちの1日を原子力デーと定めることとしたのも、この理由によってでありました」。
「かつて」というが科学技術週間が閣議了解されたのはわずか1年前の2月26日のことだ。この年は4月22日が「原子力デー」だった。「原子力デー」は3年間、日を変えておこなわれ、1964年には「とくに原子力デーは設けず、週間を通じて原子力に対する国民の関心と理解を深める努力をすることになっていたが、結果的には一般の印象を薄めて、予期した成果をみることができなかったようである」と、『原子力産業新聞』5月5日号にある。
けっきょくこの年、「原子力の日」にとってかわられたことになる。なお、科学技術週間は、毎年4月18日(発明の日)を含む月曜日から日曜日までの一週間とやや形を変えて今も残ってござる。
◉原子力ムラ
「原子力産業を推進している企業や官庁、学者や団体などを指し、いわゆるムラ社会になぞらえて表した語」とウェブの「新語時事用語辞典」にある。紙版の辞書・辞典には載っていない。
ムラに入りては
「新語時事用語辞典」には、「原子力ムラという表現は、NPO法人の代表者である飯田哲也氏が名づけたと言われている」と書かれていた。『論座』1997年2月号に寄せた「原発行政は敗戦末期の様相・模索する原子力ムラの人々」で飯田は「戦後末期に似てきた原子力村の様相」の小見出しに注を付け、「『原子力村』という呼び名は筆者によるもので、全体が利益共同体であり、かつその内部が意志決定中心のない『ムラ社会』であることによる」としていた。ネット上に「オリジナル原稿」として掲載されているものでは表題が「原子力村の解体と市民社会の再構築」とされていて、「原子力ムラ」としたのは編集部らしい。とすると、カタカナ書きの「原子力ムラ」の名付け親は『論座』編集部か。
茨城県東海村を「原子力村」と呼ぶ例は古くからあるが、「ムラ社会」の意味での「原子力村」の初出は飯田ではなく、『原子力工業』1980年2月号の連載記事の長-い見出し「CANDU炉は、原子力村からの発想ではなく広くエネルギー戦略の一環として考えて欲しい」だと思う。翌81年5月号から82年3月号にかけて連載された米カリフォルニア大学のKenneth T. Suzukiによる「“原子力村”に、議論よ、興れ!」に使われたのも同誌編集部の考えだろう。
2008年6月、日本原子力学会の会長に岡芳明東京大学大学院原子力工学研究施設教授が就任した。『日本原子力学会誌』8月号で「『原子力村』からの脱却も目標です」と、インタビューに答えている。「原子力を取り巻く現状のイメージは、赤い日の丸の旗のようなもので、真ん中の赤い部分が原子力村で、外側の白い部分が一般社会。それで原子力村の人たちは,この赤い中でだけ話をしがちです。ほとんどの委員会や,さまざまな会合もそうですが,その中にいるとわりに心地がいい。原子力推進者が多いから。だから外の状況がわかっていない。だから日の丸の赤いところから白いところへ向かって放射状にいろんな光が出るようなイメージで,外へ向かっていろんなことをいろんな方法でアプローチするということを意識しています」って、それが「『原子力村』からの脱却」なのかしら。
脱却に失敗した福島第一原発事故の後には俄然「原子力ムラ」表記が主流となった。
◉原子力ルネサンス
低迷の時機を脱し、再び原子力発電への追い風の流れとなること。
幻を愛した
原子力安全システム研究所の木村逸郎元京都大学原子炉実験所教授が『日本原子力学会誌』2006年10月号でBrian WilsonとWilliam J. Nuttallの共著『Nuclear Renaissance : Technologies and Policies for the Future of Nuclear Power』を紹介している。それによれば「そもそも原子力ルネッサンスという言葉は、1990年に米国の雑誌に初登場したもののあまり注目されず、99年に別の雑誌に再登場してから少しずつ用いられるようになった」とか。その1990年初登場より一足早く、日本原子力産業会議発行の『原子力調査時報』第56号(89年10月)は「米国原子力発電のルネッサンスはくるか」と題する記事を載せていた。
米国、日本も含めて世界各国で原子力ルネサンスが語られるのは2000年代半ばからだ。『週刊エコノミスト』2008年6月24日号には「世界150基新設の巨大市場 東芝、三菱重工、日立三つ巴の世界受注戦争」と題した宋敦司『エンジニアリング・ビジネス』編集長の記事があったりした。もっとも記事の末尾は「リスク要因も存在する」と結ばれている。その予言通り、06年にウェスチングハウス社を買収して倒けた東芝を筆頭に三菱重工も日立も見事に当てが外れ、今に至るも主契約者としての原発輸出は1基もない。
翌2009年には、早くもルネサンス終焉を告げる記事が原子力ムラの愛読誌『エネルギー』や『エネルギーフォーラム』などに次々と姿を現す。せいぜい数年間のうたかたの夢だった。
福島第一原発事故後の2012年3月10日付日本経済新聞電子版にジェフ・イメルトGE会長の言葉が載っている。「『原子力ルネサンス』というものは、事故の前からそもそも存在していなかった」。そういえば、ルネサンスが語られ始めた2005年5月13日付の電気新聞も「笛ふけど踊らず──。政府と業界のそんな関係が浮かび上がってくる」と書いていたっけ。
岸田首相の鶴の一声で「原発回帰」ムードが高まって見えるが、マスメディアのはしゃぎぶりと裏腹に原子力ムラの中では冷めた見方が多いのは、原子力ルネサンスの苦い記憶のせいだろう。
[© Baku Nishio]
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