◉再稼働
停止した原発を再び動かすのが、再稼働である。まず原子炉を再起動し、臨界(核分裂連鎖反応が一定の割合で継続するようになること)、発電、送電へと続く。再起動すなわち再稼働と、多くのマスメディアや市民は呼んでいる。一方、電力会社は、発電・送電を開始したとき、すなわち料金収入を得られるようになったときを再稼働としている。
雨夜の品定め
2012年6月、新たな規制機関が設置され、新たな規制基準がつくられるのを待たずに、大飯原発3、4号機の特例的再稼働が強行された。15年8月21日付電気新聞が、改めて高く評価している。「国が責任というなら最高責任者が会見で世界に示すべき。大飯原発再稼働時の首相は決然と立った」。野田佳彦首相である。『エネルギーフォーラム』18年10月号も「野田佳彦首相は、夏場の電力不足を回避すべく、関電の大飯原発を再稼働させるという英断を下した」と持ち上げている。決然、英断だぜい。
その裏側にあるのは、当時の安倍晋三首相への不満だ。2018年7月20日付電気新聞では「原子力ムラのドン」の異名をもつ原子力デコミッショニング研究会の石川迪夫会長いわく「福島事故後停止中の原発が、一部動いた。関西の電力不足を懸念しての野田元総理の措置で、今後の運転は明るいと喜んでいたら、安倍内閣で元の木阿弥となった」。
2018年1月9日付産経新聞の「社説」では「『知事リスク』と『司法リスク』の跋扈(ばっこ)は原発への安倍晋三政権の姿勢が定まらないことに起因する不安定事象に他ならない」とまで言われている。「知事リスク」は、再稼働に慎重な知事が当選すること、「司法リスク」は、後で出てくるのをお楽しみに。
その後も安倍憎しは続く。まだまだここからがいいところ。
「安倍晋三前首相。稲田朋美衆院議員が会長を務める、原子力のリプレース推進に向けた議員連盟の設立会合に出席し、顧問に就任した。[中略]その口ぶりは“原子力推進派”そのものだが、憲政史上最長となる首相在任期間を振り返ると、原子力を前に進めようとする熱意や姿勢は感じられない。[中略]電力業界や有識者らは、今回の安倍氏の動向にあきれた様子で、冷めた声が聞かれた。[中略]国際大学大学院の橘川武郎教授も、『安倍氏が日本の原子力を殺したと言っても過言ではない。何をいまさらという感じだ』と憤りを見せる」(2021年4月28日付電気新聞)。「そもそも安倍さん自身、首相時代に原子力政策の正常化を放置してきた張本人」(元国会議員――『エネルギーフォーラム』21年5月号)。
「経済産業省が[福島第一原発事故由来汚染水の]海洋放出を進める方針だったのにできなかったのは、安倍首相の意向が強く働き政策を止めたということになる。当時から、安倍首相は原子力をめぐる諸問題を先送りしていると批判されてきた。解決の機会があったのに、先送りをもたらしたなら、氏の責任は大きい。(『エネルギーフォーラム』オンラインコンテンツ2021年4月19日)。
さんざっぱらな言われようだ。かわいそうだから、このくらいにしておこう。翻って現岸田文雄首相の人気はどうか。
2022年7月14日の記者会見で「「経済産業大臣に対し、できる限り多くの原発、この冬で言えば、最大9基の稼働を進め」るよう指示したが、9基再稼働は電力会社の既存の計画。19日のエネルギーフォーラムオンラインコンテンツ「目安箱」では「岸田首相『覚醒』せず 原発再稼働表明のごまかし」と一蹴された。8月24日の第2回GX(グリーン・トランスフォーメーション)実行会議で「電力需給逼迫という足元の危機克服のため」として原発復古の号令をかけるのだが、原子力ムラの評価はなかなか定まらない。
「先送りで知られる岸田文雄首相が、原子力問題では珍しくやる気を出している。GXの活用のためとして、昨年から原子力発電所のリプレース、新型炉の研究の方針、再稼働推進を、政権の政策で打ち出した。しかし『笛吹けど踊らず』で、建設の具体的な話は進んでいない。(『エネルギーフォーラム』オンラインコンテンツ2023年1月24日)。
ロシアのウクライナ侵攻でエネルギー価格が高騰したのを好機到来と打って出て、マスメディアでは「原子力政策転換」が定着したかにみえるものの、具体的な進展はない。いずれ化けの皮は剝がれるって。
◉再処理工場
使用済み核燃料を化学処理して、燃え残りのウランやプルトニウムを回収する工場。
このミステリーがすごい!
プルトニウムを取り出す再処理は軍事直結施設として、もともと国家管理の考えだった。川上幸一神奈川大学教授を共著者(聴き手)とする『島村武久の原子力談義』(電力新報社、1987年)で島村武久元原子力委員は「どこか一ヵ所だけぎゅっと押さえるというその対象に再処理があった」と言う。
ところが1977年3月、民間にも再処理事業の枠を広げる原子炉等規制法一部改正案が国会に提出され、78年6月に成立をみた。「民間からの要望があったからというのが表面的な理由になっていますが、それはどうも不思議なような気もするんですね」と島村。確かに「民間からの要望」はあった。さはさりながら元原子力業界誌『原通』編集長の伊原辰郎著『原子力王国の黄昏』(日本評論社、1984年)には、こんな引用がある。「『あの当時、田中直治郎(東電副社長)さんが原産会議を通じて政府に法改正の陳情を繰り返していた。しかし電力は心のなかで、そうかんたんに法改正が実現するものか、とタカをくくっていたんですがネ』(電力業界筋)」。
田原総一朗『生存への契約』(文藝春秋、1981年)は「電力会社が先手を打って主導権を握ることに成功したのだ」と書いているが、はばかりさま。伊原は否定する。
「原子力界にも『電力がやりたい、やりたいというから民間でやらせることになった』とする通説が流布されてきた。しかしそれは、あくまで表向きの、すでに決着のついたあとの公式見解にすぎない。それ以前に電力のノドの奥から『やりたい』というひとことを吐かせたのは、ほかならぬ政府の原発許認可権限という法律を握っている官僚たちであった。それを『電力がみずから再処理事業をやりたいといってきた』というのは、一種の歴史の偽造とさえいえる」と力が入ってるねえ。
だが、その官僚たちがなぜ国家管理の考えから変わったのか。島村は「謎」というだけ。伊原は電力サイドからしか見ていない。吉岡斉「核燃料サイクル事業の展開(中山茂・後藤邦夫・吉岡斉編『「通史」日本の科学技術第4巻』学陽書房、1995年)は「民営化は原子力開発があまりにも巨大化し、政府だけでは予算を負担し切れなくなった状況下で考案された、国策的プロジェクトの拡大再生産のための切り札であった」と説く。そうかなあ。
どっこい緋鯉の初恋
『島村武久の原子力談義』を読んだとき、六ヶ所再処理工場の建設主体である日本原燃サービスに国の予算が注ぎ込まれているというのに戸惑った記憶がある。島村は言う。「通産省経由で、毎年数十億の金があそこに流れていて、合計すればもう百億をはるかに超えてますよ。あの会社は資本金百億ですから、それを超える金が国から流れている」。
読んだときというのは出版からだいぶ経ってのことだったろう。日本原燃サービスも、ウラン濃縮工場と低レベル放射性廃棄物埋設施設の建設主体として発足した日本原燃産業と合併して、現在の日本原燃になっていた。通産省から変わった経済産業省の予算を見ても、高レベル廃液ガラス固化技術の基盤研究委託費くらいしか見当たらない。それでも数億円と決して少なくない額だけど、と思っていた。民間企業なんだから国からそんなに予算がつくはずないよね、と。
ところがマジに調べてみたら、あったんですね、これが。1980年代前半には確かに「第二再処理工場[六ヶ所再処理工場のこと]技術確証調査委託費」が毎年数十億円。それが、当時原子力委員だった島村のクレームを受けてなくなったと思ったら、島村の離職後、額は減ったものの「再処理技術高度化調査委託費」に引き継がれ、別に「使用済核燃料再処理事業推進費補助金」が毎年数十億円。その後もいろんな名目でざっと見ても合計500億円は下らない。
いやあ知らなかったなあ。アイムソーリー緋鯉の赤面。
水心あれば魚心されど
はっきりしてるのは青森県六ヶ所村で建設が始まった後も電力会社としては「実はやりたくない」ことに変わりはないということや。ちゃうちゃう、経済産業省もや。
2013年2月2日から8日にかけて『毎日新聞』に連載された「虚構の環 第1部 再処理撤退阻む壁」が、以前から業界紙誌などで小出しにされていた2002~03年当時のやりとりをやや詳しく報じている。
「東電首脳が振り返る。『このころ、村田成二・経産事務次官が「六ヶ所から撤退できないか」と提案してきた。電力から「撤退したい」と言えという。冗談じゃない。国から言い出し国が責任をとるべきだと考えた』」。
とはいうものの撤退したいとの思いでは一致していたので協議がつづいたとか。さればとて、いかんせん己の責任にしたくないのは誰も同じ。けっく「『ばば抜き』の構図からなかなか抜け出せなかった」というお粗末。
業を煮やした若手の官僚たちは「19兆円の請求書」と題したペーパーをつくって国会議員らに配り、口説いて回った。『週刊朝日』2004年5月21日号で「『上質な怪文書』が訴える『核燃料サイクル阻止』」と紹介されて話題になったよ。さらに、原発推進の論客として知られる櫻井よしこまでもが、「電力会社と政府のご都合主義を捨てて思いとどまるべき核燃料再処理工場」(『週刊ダイヤモンド』2004年9月4日号)、「再処理工場の稼働は見合わせ、後世に恥じない賢い判断をすることだ」(『週刊新潮』04年9月16日号)などと勇ましく論陣を張る。実のところは「電力会社と政府のご都合」に沿ってのことだったのだろう。それでも止めることはかなわなかった。
『毎日新聞』の記事にある「自民党商工族で大臣経験もある重鎮」が若手官僚らに示した協力拒否理由がもったいらしい。「君らの主張は分かる。でもね。サイクルは神話なんだ。神話がなくなると、核のごみの問題が噴き出し、原発そのものが動かなくなる。六ヶ所は確かになかなか動かないだろう。でもずっと試験中でいいんだ。『あそこが壊れた、そこが壊れた、今直しています』でいい。これはモラトリアムなんだ」。
ふん、しゃらくせえ。
結果として、電力会社も日本原燃も経済産業省も、誰も計画中止の責任をとれる者がいないという情けない理由からモラトリアム(棚上げ)が続行されている。延期を繰り返すこと27回。いまのところ2024年上期竣工とされているけど、しゃっちょこ立ちしたってできっこないさ。
◉JCO(じぇーしーおー)臨界事故
1999年9月30日、茨城県東海村にある核燃料加工会社ジェー・シー・オーの東海事業所で起きた日本初の大規模な臨界事故。原子炉の中では臨界はふつうに起こっていることだが、原子炉以外の場所で臨界が起こると事故になる。日本で初めて半径350メートル以内の住民265人に避難要請が行われた。
ようこそ原子力ムラ
茨城県東海村。幹線道路沿いに立てられている看板には「ようこそ 原子力の街 東海村へ」の文字があった。1985年に開かれたつくば科学万博を機に、国道や県道沿いの4ヵ所に設置されたものだ。JCO事故後の1999年11月5日から7日にかけて、「原子力の街」の文字が外された。
村役場の正面玄関の横には「東海村民憲章」の碑がある。村発足30周年を記念して1985年3月に制定された村民憲章は「わたくしたちは ゆかしい歴史と 原子の火に生きる 東海の村民です」とある。看板と違って、あっさり「原子の火に生きる」をけずるわけにもいかないのだろう。そのまま残っている。村の紋章も、そのままだ。「とうかい」の「と」と、原子力を意味するつもりのγ(ガンマ)線の「γ」と太平洋の波を模様化して、1963年4月1日に制定された。
福島県双葉町中心部の道路をまたぐように掲げられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の大看板は、小学校6年生の時に標語を考案した大沼勇治が「原発事故の悲惨さと教訓を後世に伝えるためにも残すべきだ」と2011年の福島第一原発事故の後、撤去反対を町に申し入れていたが、15年12月に撤去され、会津若松市の福島県立博物館で保管された。
その後、2020年9月に双葉町に開館した「東日本大震災・原子力災害伝承館」に移る。スペースがないとして写真の展示にとどまっていたが、実物展示を求める声は強く21年3月から屋外に展示されることになった。ただ、劣化する恐れがあると8月にはレプリカに変更されている。
尻腰のねエ。撤去前は風雨にさらされてたんだぜ。
明けまして
事故の翌2000年、原子力関係者の年賀状が、茨城県東海村の原子力関係者の同人誌『原子力村』29号に載っていた。個人の感想です。
八島俊章(東北電力社長)「原子力で悲鳴を上げています」
望月恵一(元動力炉・核燃料開発事業団理事)「原子力は評判悪く滅入ります」
吉川秀夫(元日本原子力研究所総務部長)「本当に新しいスタートがきれるんでしょうか?」
[© Baku Nishio]
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