◉多重防護
何重にも安全対策がなされていること。原子力発電所の安全確保の考え方も、多重防護を基本としている。
日本では、いつ誰が言い出したことかは不明だが、「ペレット」「燃料被覆管」「圧力容器」「格納容器」「建屋」の5つを「5重の壁」と呼ぶ。5重の壁すべてが崩れて放射性物質が環境に放出されることはないと、安全神話の基礎になっていた。
よく似た言葉に「深層防護」がある。国際原子力機関(IAEA)が1996年に安全基準として制定した「深層防護」では、防護レベルをレベル1からレベル5までの5層に設定している。レベル1はそもそも異常を生じさせない対策、レベル2はプラント運転中に起こりうる異常がおきても事故に発展させない対策、レベル3は設計上想定すべき事故が起きても炉心損傷等に至らせない対策、レベル4は設計上の想定を超える事故(シビアアクシデント)が起きても炉心損傷や格納容器破損を防止する対策、レベル5が放射性物質の放出による外部への影響を緩和するための対策とされる(田中俊一原子力規制委員会委員長=当時の説明が平易だったので、お借りした)。すなわちレベル4で「5重の壁」の損壊を想定している。
何も変わらない
福島原発での「事故発生当時は、原子力界全体として、深層防護への意識の不足や低下が著しく、事故以前から安全に対する慢心と想像力の欠如によって、発生頻度が極めて小さな事象の事故への進展に関しての研究や投資の意欲が減退していた」と日本学術会議総合工学委員会原子力安全に関する分科会報告案「我が国の原子力発電所の津波対策―東京電力福島第一原子力発電所事故前の津波対応から得られた課題」(2018年)は弁ずる。
その脚注には、日本原子力学会の「福島第一原子力発電所事故その全貌と明日に向けた提言: 学会事故調最終報告書」(丸善出版、2014年)所載の表「原子力安全白書での深層防護の記述の変遷」が、以下の説明付きで引用されていた。「我が国の深層防護への関心度を原子力安全白書の記述で振り返ってみると、[中略]全体が3期に分けられ、第1期(1961~1994 年)は深層防護の第3層までの記述があったが、第2期(1995~2002 年)では深層防護の説明が毎年変化しており、第3期(2005 以降)に至っては、深層防護の記述自体が消滅していた」。
第4層・第5層が初めて記載されるのは2000年になってから。ところが3年後には第3層までに逆戻りし、2005年以降は「深層防護の記述自体が消滅」してしまう。「深層防護への意識の不足や低下」なんてもんじゃないでしょ。
福島原発事故の後は「深層防護こそが大事」となってるって、マジ? 「5重の壁」は福島原発事故でもろくも崩れ去ってしまったはずなのに、いまなお電気事業連合会のホームページはじめ電力会社の安全対策資料などに生き残ってる。ゾンビだね。
それが一番大事
「5重の壁」はもとより「深層防護」も多重防護の本質から外れていると指摘するのは、『行動計量学』2017年1月号の木下富雄京都大学名誉教授だ。なお「多重防護というのは本来軍事的発想に基づくもの」だそうです。
「多重防護という言葉を使いながら、そこで述べられているのは異常事象の『概念的な流れ』が主であって、それを食い止める『機能的な壁』のモデルとなり得ていないのではないかと思うからである」。「多重防護という考え方の本質は、質を異にする複数の防衛線を壁として構築し、それらの壁が持つ個別防衛力の掛け算、つまり『積』の力で重要施設を守ろうというところにある。ところがこれまでに提案されたシステムは、数の上では複数の『層』が用意されているものの、それは互いに相関が高く独立ではない。[中略]『5重の壁』はその典型であろう」。
2021年3月18日、水戸地裁は、日本原子力発電を被告とする東海第二原発の運転差し止め請求訴訟で、同原発の「原子炉を運転してはならない」との判決を下した。控訴により判決は未確定だが、同原発の再稼働には大きな「待った」がかかった。判決は言う。「原子力災害指針に定める段階的避難等の防護措置が実現可能な避難計画及びこれを実行し得る体制が講じられておらず、深層防護の第5の防護レベルの安全対策に欠けるところがあり、人格権侵害の具体的危険が認められる」。
判決を疑問視する立場からさえ3月19日付電気新聞のコラム「焦点」には「司法は避難計画の実効性という重い宿題を突き付けた」とあった。『エネルギーフォーラム』のホームページでは3月20日、井関晶編集部長が「原発理解派の関係者からも『科学的知見には踏み込まず、防災計画の不備を理由にあげてきた意味では妥当な司法判断』などと評価する声が聞こえている」と書いていた。面白いでしょ。
間違いだらけの世界の中で、この判決こそ多重防護の本質に即したものじゃなかろうかってね。
◉脱原発
原発のある社会から抜け出すこと。1986年のチェルノブイリ原発事故の後で、原子力資料情報室の代表だった高木仁三郎が、原発から「降りる(aussteigen)」というドイツで使われていた言い方から、日本の運動に導入した。
答は1つじゃない
「脱原発」か「反原発」か。福島原発事故の前には、「反」よりも「脱」のほうが世に受け入れられるような風潮があったが、事故以降、にわかに「反原発」派が台頭してきた。筆者が編集にあたっている『はんげんぱつ新聞』にしても、事故前には「脱原発新聞に改称すべき」などの提案が多くあったのが、事故後は「『脱』でなく『反』を貫いてほしい」と注文がついている。でも、それじゃあ「脱」がかわいそうだ。
『脱原子力国家への道』(岩波書店、2012年)で吉岡斉九州大学大学院教授は、「私は『脱原発』という言葉に出会ったとき、『反原発』よりもはるかに幅広い人々を集めることができる魅力的な言葉であるように思えた」と言い、「脱原発」には「原子力発電が社会の中で一定の役割を果たしており、すぐにそれを廃止することは困難であるという現状を認めた上で、一定の時間をかけて原子力発電からの脱却を図っていくという意味が込められている」と定義づけている。
ちょっとちょっと、「脱原発」にそうした意味を込めるのが正しいとは思えないな。福島原発事故後に生まれた「卒原発」ならそれでいいかもしれんけど……。余談の余談ながら事故後には他にも「縮原発」「廃原発」「非原発」「超原発」「脱原発依存」など新語ラッシュで、一時的ながら百花繚乱の様相だった。
しばしば誤解されているのが悔しい。多くの人に受け入れられやすいようにと、対立型の「反原発」から転換したわけじゃあ決してないぜ。たとえば反原発集会88実行委員会編『脱原発へ歩み出す』(七つ森書館、1989年)の「まえがき」で実行委員会の高木仁三郎事務局長はこう書いている。「原発が有無を言わせず押しつけられる状況に対する反対から、私たちの手でどう原発のない社会をつくっていくのかという、脱原発社会をつくる運動に向かっての新しいスタートである」と。
一方、元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章は、根っからの「反原発」派だ。「私はただ反対しているんです。反対した結果、どんな社会ができるとか、そんなことには、私は関心がない」(小出裕章・中嶌哲演・槌田劭著『原発事故後の日本を生きるということ』農文協ブックレット、2012年)。ちなみに筆者はといえば、「脱原発」は現にある原発をなくすことだから「反原発」よりずっと強く厳しい運動が求められていると説明してきた。
「脱原発とは、すなわち原発が現にあることを前提としている。が、しかし、現にある原発を容認しているのではなく、現に原発社会のなかに身を置かれてしまっているからこそ必死に、だからこそ現実的に、そこから抜け出そうとするのである」(西尾漠『脱!プルトニウム社会』七つ森書館、1993年「あとがき」)。
『高木仁三郎著作集』(七つ森書館)が完結した際の『図書新聞』2004年7月24日号では「高木さんの場合には、原発がなくなった後のことをちゃんと考えたいという思いがあったのだと思います。未来の希望を含めた視点での脱原発だったと思いますね。私なんかは単純に、目の前にある原発をなくすことだと考えていて、高木さんの定義だと私は反原発のままなんでしょう」とインタビューに答えていた。
『反原発新聞』1990年11月号では、原子力発電に反対する福井県民会議の小木曽美和子事務局長が「脱原発とは、核のゴミを生み出す私たちの生き方を問い直すこと」と述べていた。けだし名言だよね。いずれにせよ、決まった定義はありません。思い思いに自分なりの「反原発」「脱原発」でいいんじゃない。
◉脱炭素電源法案
GX脱炭素電源法案と頭にGXが付く。GXはグリーン・トランスフォーメーションの略で岸田内閣の造語らしい。GX脱炭素電源法という法律があるわけではなく、原子力基本法、原子炉等規制法、電気事業法、再処理法、再エネ特措法の改正案5つを1つにした束ね法案である。2023年5月31日の参院本会議で可決・成立した。
世界で一番醜い法律
束ねられた各法案をざっと見ておこう。
原発の寿命規制を原子炉等規制法から電気事業法に移す。その際に、審査基準の変更などに対応するため停止した期間や行政指導に従って停止した期間、仮処分命令によって命令取り消しまで停止した期間などは運転期間から外すことで、事実上60年をも超える運転を認めるものだ。原子力基本法には原子力利用の価値として電力の安定供給や脱炭素に貢献することを書き込み、推進を「国の責務」とする。再処理法では、廃炉の費用を電力会社に拠出させ、使用済燃料再処理機構に管理させる。それだけだと露骨な原発推進法案なので、強引なくせに臆病な政権は、再エネ特措法改正で再生可能エネルギーの導入拡大を謳うことで脱炭素社会実現に向けた法案だと世論にアピールするわけ。
60年をも超える運転を認めるといっても、世界中見渡しても60年運転できた原発はゼロ。それはともかく寿命規制を原子力規制委員会所管の原子炉等規制法から経済産業省所管の電気事業法に移すことで、今後は同省が自由に「改正」できることになるのだから、あっさり明け渡した原子力規制委員会の罪は重いと言わざるを得まい。
と、ついつい鹿爪らしくなっちゃうなあ。ひときわ無残なのが原子力基本法の改悪である、なんちゃって。
1955年の制定時には、法の目的を述べた第一条、基本方針を示す第二条を合わせた文字数が200字もなかった。1978年に、いわゆる「平和利用の三原則(民主・自主・公開)」を謳った第二条に「安全の確保を旨として」が加わり10字増えたがシンプルなまま。2012年に「我が国の安全保障に資する」との文言を盛り込む改悪で第二条に第2項ができて形が崩れても300字足らず。ところが今回の改悪案では、驚かずんばあらず2500字近くになる。第二条に第3項が足され、さらに第二条の二、第二条の三、第二条の四と続くのだ。
いったいどうしたわけで、そんなに膨れ上がったのか。第一条では、法の目的に「地球温暖化の防止」を加える。現実には何の貢献も期待できないにもかかわらず推進の口実として原子力優遇を合理化しようとするものだ。一方、第二条第3項では、福島事故を防げなかった反省をいまさらのように書いている。
その上で第二条の二で、「国の責務」として電気の安定供給の確保、非化石エネルギー源の利用促進を謳い、さらには「安全性を確保することを前提として、原子力事故による災害の防止に関し万全の措置を講じつつ、原子力施設が立地する地域の住民をはじめとする国民の原子力発電に対する信頼を確保し、その理解を得るために必要な取組及び地域振興その他の原子力施設が立地する地域の課題の解決に向けた取組を推進するに資することができるよう、必要な措置を講ずる」としている。
かてて加えて「必要な措置」なるものまで、第二条の三で列挙される。人材の育成確保、産業基盤の維持強化、関係者相互の連携、国際的な連携強化、研究開発の推進と円滑な実用化、電気事業改革状況における事業環境整備、再処理、使用済燃料貯蔵能力増加、廃止措置の円滑かつ着実な実施、最終処分に関する国民の理解促進、計画的な実施に向けた主体的な働き掛け、理解と関心を有する地方公共団体その他の関係者に対する関係府省の連携による支援、国際的な連携……
こんな「基本法」がどこの世界にある? 推進は推進でも短くてすっきりした条文だったのに、めちゃくちゃに着ぶくれをしちまった。単なる原子力推進法に堕したというしかないやね。
無理が通れば
その悪用が、さっそく始まった。2023年7月26日の総合資源エネルギー調査会原子力小委員会に事務局の資源エネルギー庁が提出した資料の中に、こんな記述があった。「今般のGX電源法の成立を受けて、既設原発の安全対策投資に関して、投資回収の予見可能性を確保する観点から、長期脱炭素電源オークションの対象とすることについて、電力・ガス基本政策小委員会における長期脱炭素電源オークションの設計の中で検討いただく必要がある」。
脱炭素電源(原子力も含む!)の新規投資を拡大するための制度だという「長期脱炭素電源オークション」の対象としては、再生可能エネルギー、原子力、水素混焼LNG火力(3年間に限り、 LNG専焼火力も)、水素専焼火力、蓄電池の新設・リプレースと、既設の火力電源を水素混焼、アンモニア混焼、バイオマス専焼にするための改修が挙げられていた。そこに原発再稼働の安全対策費を加えようというのだ。
これは、既存原発の再稼働のために投じた巨額の安全対策費を、電気料金を通じて消費者から回収できるようにするもの。国の認可法人の電力広域的運営推進機関が電力小売事業者から拠出金を集めてオークションを開き、原発を持つ電力会社が落札して資金を得る。それにより、運転開始から20年間の収入が保証され、投資を促すという仕組みである。電力・ガス基本政策小委員会で原発再稼働の安全対策費を加える案が実現すれば、再生可能エネルギー由来の電力を売る新電力も拠出金が義務付けられるため、そうした新電力と契約する消費者も含めて原発の再稼働を支えることになる。
「今般のGX電源法の成立を受けて」とあるように、こんな無茶が堂々と主張されるようになったのは、「原子力利用に関する基本的施策」の一つに「原子力事業者が原子力施設の安全性を確保するために必要な投資を行うことその他の安定的にその事業を行うことができる事業環境を整備するための施策」が書き込まれたからだろう。着ぶくれ条文は深慮遠謀の結果なのかな。
それにしたって筋が通らない。『エネルギーフォーラム』2023年9月号の「永田町便り」で福島伸享衆議院議員も言う。
「本来この制度は本年2月に閣議決定された『GX実現に向けた基本方針』における『新たな安全メカニズムを組み込んだ次世代革新炉の開発・建設』や『廃炉を決定した原発の敷地内での次世代革新炉への建て替え』に資するものとならなければならない。
しかし、既存原発の安全対策費をこの制度の対象とすれば、逆にそれを阻害するものとなってしまうだろう。既存原発の安全対策は予見不可能なリスクのある巨額の投資ではなく、本来原子力事業者の経営責任の範囲内で行うべきものである。[中略]むしろ、既存原発への巨額の安全対策費を回避するために、リスクのある次世代革新炉の建設やリプレースへの挑戦に誘導する制度こそが、今必要な政策なのではないか」。
基本的な主張にはとうてい賛同できないが、既存原発の安全対策は本来原子力事業者の経営責任の範囲内で行うべきものというのは的を射ている。
「岸田政権になり、政権の原子力に対する姿勢が追い風になったからといって、体系的な原子力政策の再構築を行うことなく、原子力事業者の目先の小さな利益を実現するための弥縫策にダボハゼのように食いついていけば、また再び原子力政策の大失敗の道を歩むこととなろう」と、なかなか手厳しい。
[© Baku Nishio]
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