◉電源開発
「電源開発」とは発電所をつくることだが、社名にもなっている。電源開発促進法により1952年9月16日に、主として大規模水力開発のために設立された電源開発株式会社である。資本構成は99%を国、1%を9電力会社が出資する「特殊会社」だった。その後の政府保有株の9電力会社への移譲により、66.7%と33.3%にまで差は縮まる。特殊法人合理化の中で2003年に電源開発促進法が廃止され、04年10月6日に東京証券取引所第1部に上場、完全民営化となった。合わせて愛称(コミュニケーションネーム)を「でんぱつ」から「J-POWER」に変更している。
迷い道くねくね
電源開発(社名かどうかわかりづらいから、以下、変更前も含めてJ-POWERにしよう。引用ではさすがに変えられないか)はいま、青森県大間町で大間原発を建設中だが、はじめから導入すべき炉を定め、時間をかけて準備してきたものではない。すでに廃炉となった日本最初の東海原発の導入主体として1957年2月、いちはやく手を挙げたのがJ-POWERだった。しかしけっきょく同原発の建設主体は、電力各社等が共同出資した日本原子力発電(J-POWERも当初20%出資。現在は5.4%)に取られてしまう。その後、75年にはGA(ゼネラルアトミック)社の高温ガス炉導に飛びついて岩手県田老町(現・宮古市)に7月、建設を申し入れたものの11月には中断、翌76 年夏の段階で 見送りとものにならず、ようやく1978年、当時の通商産業省(現・経済産業省)と組んでカナダ型重水炉CANDUの開発に名乗りをあげた。このとき候補地とされたのが、大間町である。
ライバルは、当時の動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)が開発してきた新型転換炉ATR。当時の通商産業省(現・経済産業省)が推しのCANDU対科学技術庁(現・文部科学省)推しのATRという、いわゆる「ATR‐CANDU論争」だ。1979年8月、原子力委員会が「CANDU炉を憩入することについての積極的な理由を現段階において見出すのは難しい」とCANDU導入の見送りを決定した。
4年後の1983年3月、J-POWERは電気事業連合会社長会で、皮肉にもかつてのライバル炉ATR実証炉の建設主体に決定される。同連合会の内部では「ATR実証炉は電源開発にはやらせない」との強い意向があったというんだが、通産省と科技庁の手打ちでJ-POWERに決まったとか。ところが1995年7月、電気事業連合会は突如、ATR計画の見直しをJ-POWERや通産省、科技庁などに申し入れた。発電単価が軽水炉の約3倍と見込まれ、「受電できる範囲を大幅に超えている」というのが理由である。ATR実証炉計画の中止の代わりに、全炉心にMOX燃料の装荷が可能なフルMOXのABWR(改良型沸騰水型軽水炉)が提案された。
フルMOXとしたのは、プルトニウム利用計画からATR実証炉が抜けることの穴埋め(プルトニウム使用量はATR実証炉の約2倍)と同時に、電源開発の「勢力拡大の野望」を警戒する電力業界と政府との間で、J-POWERは軽水炉には手を出さず「技術開発的性格を有する原子力発電を開発する」との合意(1969年1月木川田一隆電気事業連合会会長・大平正芳通商産業大臣会談)があったからだ。高温ガス炉、CANDU、新型転換炉と迷走したのも、そのためだ。7月の提案を原子力委員会が8月に了承・決定して、J-POWERは晴れて?軽水炉の、商用原発の建設主体となった。
もうやめにしよっか
大間原発は2008年4月23日に原子炉設置が許可された。同月16日に経済産業大臣がイギリスの投資ファンド「ザ・チルドレンズ・インベストメント・マスター・ファンド(TCI)」にJ-POWER株の追加取得を中止するよう勧告、TCIが25日に応諾拒否を表明するという間のことだ。経済産業大臣は5月13日には株の買い増し禁止を命令し、TCIが従ったことでとりあえずの決着をみた。
そうした時期に経済産業大臣が大間原発の原子炉設置許可をばたばたと行なったのは、電力設備などの資産を圧縮し資本効率を改善して株主の利益を向上させるよう求める「TCIの要求を通したら、大間原発建設や送電線運営が危ない」(『エネルギー・フォーラム』2008年6月号)と大間原発建設の既成事実化を急いだのだそうな。
言い換えると、大間原発の建設は株主の利益を損なうものであり、建設が決まってしまえば手を出しにくくなると考えられていることになる。前述のように大間では1995年夏に新型転換炉の実証炉からフルMOXのABWRへと建設予定の原子炉の変更があったのだが、その際、7月12日付の日本経済新聞で辻教雄編集委員は、次のように結論づけていた。「電発は原子力への悲願を追い続けるよりも、IPP[独立発電事業者]に徹して一段と安くて良質な電気を供給することの方が、産業界や一般消費者に歓迎されるし、それが民営化されつつある同社の取るべき進路といえる」。
実はJパワー買収の動きは、この時が初めてではない。『エネルギー・レビュー』2005年3月号で、エネルギージャーナリストの新井光雄(元読売新聞編集委員)は、こう書いていた。「自由化で電源開発が外資に買収されるのでは、というウワサが流れた。具体的にはエンロンが電源開発を買うのではないかというのだ。だが、同社は大間があっては買えないと判断したという。また、昨年の上場の際、株価について、大間がなければ株価は倍というような冗談がささやかれた。それだけ大間は重荷というのが世間の見方ということだ」。
のちに不正取引きで破綻した米エネルギー企業エンロンについては、四国電力を買収しようとして伊方原発の存在が障害となり、やはり断念したとの記述が『WEDGE』2001年4月号にあった。「四国電力買収で原発を抱え込むことのリスクをエンロンは忌避し、買収計画を撤回、この動きは関係者の間だけで受理された」という。
またレールが外れた。『エネルギー・レビュー』2005年3月号に戻ると、この号は民営化した「自由化時代の新生Jパワー」を特集していて、引用した新井光雄の「国策意識強い電発マン」もそのうちの1本だ。同じく2005年2月号の『エネルギーフォーラム』も「Jパワー研究-その期待と脅威」を特集していた。冒頭に置かれた「覆面座談会」で、「本誌」すなわち編集部が水を向ける。「電発が対電力への卸を中心に据えるならば、大間原発も意味があると思うが、大間は電発にとって重荷になるのか、フルMOXというのは9電力に対してひとつの防波堤にはなると思うが」。
電力業界人のZが答える。「大間原発が建つことによって9社の仲間として相互扶助しながらやらなきゃいけないんっだというゲーム構造を電発がつくろうとするという意味では象徴的なプランではある」。続けてもZ、というのはおかしいのでどちらかがX(アナリスト)の誤植だろう。ともあれ引用すると、「電発の売り上げや負債からいって、でかすぎる」と一言。続いてジャーナリストのY。「電発は手を引くべきだと思うのは、たかが1基の原発のために会社の中に原子力部を設置してやってること自体、これから先、大変な重荷になってくると思うからだ」。
それでもJ-POWERは大間原発の建設を放棄しない。J-POWER設立50年の『エネルギーフォーラム』2002月号の特集では、「辛口ホンネ座談会」でジャーナリストのCが「どうして電発があれだけ大間原発にこだわるのかわからない」と首を傾げ、金融界のBが[現子力を持たないと一人前の電力会社ではないという既成概念がまだ残っている]と説明していた。
それがJ-POWERの「悲願」だとはいえ、正気の沙汰じゃないな。
◉電源三法
1974年6月6日、いわゆる電源三法が公布され、10月から施行された。電源三法とは、そのときにつくられた法律の名称で言うと、電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法という3つの法律である。電源開発促進税法で電力会社から(つまりは電気料金から)販売電力量に応じて税を徴収し、徴収した税金を歳入とする電源開発促進対策特別会計法(現・特別会計に関する法律)によって発電所立地地域に種々の交付金等を交付、発電用施設周辺地域整備法に基づき同地域の整備振興を講ずるとされる。
なお電源開発促進税はその後、創設時の趣旨から大きく食み出し、本来なら一般会計で支出するべき研究開発費(廃止された「もんじゅ」の維持管理費にも)や安全規制対策費にも使えるものに拡大された。
角さんの鼻歌が聞こえる
電源三法がつくられた背景には、各地の原発反対運動で新規原発の建設が難しくなっていたことがある。電力会社まかせでは埒があかないと考えた政府は、原発を受け入れた自治体に多額の交付金を投下することで同意取り付けを図った。それが、田中角栄首相が発案したという電源三法だ。『原子力工業』1978年2月号で当時の科学技術庁長官である熊谷太三郎国務大臣がこう息巻いていた。「反対派と抗する上で物質[物心の誤植だね]両面の犠牲がおこる、そういうことに対するみかえりとして三法でメリットを与えるということです」。
なるほど。
さて、2011年10月26日、11月2日、9日と『環境新聞』に連載された「電源開発促進税を巡る『政官業』癒着の軌跡」で、小峰純記者は、こう書いている。
「『電源立地を円滑化するために発電所税を創設する』
1973年12月22日の臨時閣議で田中角栄首相(当時)は反対運動で難航する原子力発電所の建設を促進するため『発電所税』を創設し、これを財源として原発周辺地域の振興を図るよう関係閣僚に指示した。まさにツルの一声で方針が決定されてから、電源三法の法案が国会に提出されるまで、わずか3ヵ月だった」。
発電所税ないし発電税の構想は、1973年12月13日の参議院予算委員会で原子力発電についての取り組みを問われた田中首相が「発電所が設置されるところに発電税というものをやらなければいかぬ」と答弁したのが初出のようだ。
発電税構想と同時に、田中首相は「これだけ問題を起こしてやっとやっても、使う電力はよそに持って行かれるんだということでありますから、少なくとも地元で融通電力として使う場合には、送電ロスぐらいの分は安くできないか」と地元には安い電力を供給する案にも言及していたが、これには「需要家に対する公平の原則に反する」として、電力業界は強く反対した。やや先の話になるが、この案は、1980年4月の電気料金改訂を機に再浮上する。東北電力の料金が東京電力を上回り、原発のある新潟や福島での料金のほうが消費地東京より高くなってしまったからね。
このときの資源エネルギー庁幹部の言葉が、前掲『環境新聞』に載っていた。「電気料金という良家の子女の貞操を守るために、電促税というRAAを提供しましょう」と。恥ずっ。
「貞操」とは「公平の原則」を指す。RAAは、『環境新聞』の説明を借りると「終戦直後、米軍兵士相手に設置した慰安所を運営する特殊慰安施設協会の英名の略称」だそうです。電気料金はそのままに、1981年から「原子力立地交付金」を交付した(実質的な電気料金値引き)のがRAAというわけ。それにしても官僚の品性をよく示すものと言うべきセリフだねえ。
オマケに一言。「立地が相次いで、開発が進むというのも善しあしです。開発はその地域の地縁血縁をズタズタにすることもあるんです」とは、1985年5月29日付東京新聞に載った小牧正二郎東京電力常務の言葉。もう一言。「真に地域に根ざした、地域住民のための地域開発は何か、この点を抜きにして、原発誘致を先行させてしまったツケは大きい」。電源三法の効用を検証した『原子力工業』編集部の福島現地ルポだ(同誌1980年4月号)。
原子力ムラでも早くからわかっていたことなのにね。
さらに別のオマケ。新潟県西蒲原郡巻町(現・新潟市)に原発建設計画が進められていたころのお話が、『はんげんぱつ新聞』2013年1月号の座談会で笹口孝明元町長から紹介されている。「当時の西蒲原郡の町村会で浜岡原発に視察に行ったことがあるんです。町に入ったら横断幕が張られていて、『5号機をつくって町を活性化しよう』と書かれていました。巻町の推進派の人たちは、1号機をつくって活性化しようと思っているのに4基つくってまだ活性化していないのか、と驚きました」。
「電源三法交付金で町を豊かに」って、なんのこっちゃ。
◉天然ウラン
天然に産出するウラン。核分裂しにくいウラン238が99・3%、よく核分裂をするウラン235が0・7%の割合である。ウランを含む鉱石を採掘し、その鉱石から取り出す。採掘に際してはウラン含有率の低い「ウラン残土」が大量に放置され、ウランを取り出した後の鉱石(鉱滓〔こうさい〕)も、やはり大量に捨てられる。ウラン以外の放射性核種は鉱滓に残るため、高い放射線レベルとなる。
天然ウランを軽水炉の燃料とするためには、ウラン235の割合を3~5%ほどにまで高める濃縮の必要がある。
夢のあとさき
日本でのウラン鉱石の採掘は、1945年4月から終戦の8月まで福島県石川町で旧制私立石川中学校(現・石川高校)の中学生を強制的に勤労動員しておこなわれたのが始まりらしい。陸軍の原爆開発研究「ニ号研究」(ニは仁科芳雄の頭文字という)のためだったが、採掘できた量はわずかでウラン含有率も少なかったという。
戦後は、1954年の原子力初予算で1500万円のウラン資源調査費がつき(併せて計上された原子炉基礎調査・研究の助成金2億3500万円は、ウラン235にちなんで金額が決められた)、工業技術院地質調査所が調査に当たった。56年8月に原子燃料公社が発足して以降は、地質調査所の調査を受けて同公社が精査・企業化探鉱を受け持つことになる。
石川一郎原子力委員(前経済団体連合会会長)の講演録(『有機合成化学』1958年4月号)が、当時の探鉱の様子をこう述べていた。「はじめのうちは聞きとりですね。福島県の石川山にあったとか何とかいうんで、そこへ行って調べるというようなことをやっていたが、それじゃ間に合わん。それで飛行機にガイガー計数管をつけて飛んでガーッと鳴ったのを記録しておいて、その強いところをジープにガイガー管を乗っけて歩いて探すという方法でやっているのです」。
そんなことで見つけられるのかなと思うけど、1955年11月に岡山・鳥取県境で堆積岩中のウラン露頭を発見できたのも、その方法によるものだった。「人形峠ウラン鉱」と名付けられたので、その後旧来の「打札越」が「人形峠」と呼ばれるようになったとか。発見地点には現在「ウラン鉱床露頭発見の地」の碑が設置されている。57年には世界でそれまでに見つかっていない黒色ウラン鉱物が発見され、Ningyoite(人形石)と命名された。
1957年12月には岐阜県南東部の東濃地域で、推定資源量国内最大のウラン鉱床が発見される。北海道から鹿児島まで全国100ヵ所を超える鉱床が見つかり、「そのうち有望なものは人形峠鉱山ほか数ヵ所にすぎず、他は今後の探鉱の進展にまつところが多い」(日本原子力産業会議『原子力国内事情』1961年6月号)とされたが、けっきょく質量ともに日本国内では原発の燃料に使われるウランは算出されなかった。1967年を最後に探鉱活動は終了している。
なお東濃地域より人形峠のほうが有名で、現に上の引用でも「人形峠鉱山ほか」とされている。どちらも、もう過去のことだけど。
◉天然原子炉
「原子力百科事典ATOMICA」によれば、「17億年前に西アフリカに存在していたと推定される天然の原子炉。地名[ガボン共和国オクロ]を付してオクロ炉とも呼ばれる。詳細な調査の結果、17億年前のオクロ鉱山のウランの235U[ウラン‐235]濃度は、現在の軽水炉燃料とほぼ同じ3%程度であったことが分かった。この鉱床に雨水が流れ込むなどして、核分裂連鎖反応が自然に起こったと推定されている。現在のウラン鉱山ではこのような現象は起こりえない」。
「思いこみ」の心理
「現在のウラン鉱山ではこのような現象は起こりえない」って、それはそうだろうけど、1956年に黒田和夫アーカンソー大学助教授の論文「On the nuclear physical stability of the uranium minerals」が『Journal of Chemical Phisics』に掲載された時も、人類史上初の原子炉をようやく完成させたシカゴ大学の研究者らは「天然原子炉は起こりえない」とし、1972年のオクロ炉の出現で一躍ヒーローとなるまで黒田説は黙殺されつづけたんだよ。なお、天然原子炉が存在したという説自体は黒田のオリジナルではない。講談社ブルーバックス『17億年前の原子炉』(1988年)に黒田が「これを想像した科学者は私のほかに何人かあった。しかし天然原子炉がいつ、どのようにして作動したかということをはっきりさせた人はなかった」と書いている。
この話を教訓として、東京大学大学院理学研究科付属地殻化学実験施設の羽場麻希子助教と小島稔東京大学名誉教授は「福島第一原子力発電所事故:再臨界の可能性は?」を『科学』2012年12月号に書いている。「本来の制御を失った溶融燃料において、再びウランが核分裂連鎖反応を開始するようなことは本当にないのだろうか?」
言うまでもなく、あらゆる問いに共通の教訓だ。
[© Baku Nishio]
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