◉動燃
動力炉・核燃料開発事業団の略称。「どうねん」とひらがな表記されることも多い。同事業団は、1998年に核燃料サイクル開発機構と名を改め、さらに後には2015年、日本原子力研究所と統合されて日本原子力研究開発機構となった。
水と油
特殊法人(法律により設立された法人)動力炉・核燃料開発事業団は1967年10月2日、ウラン探鉱や核燃料加工を業務とする特殊法人原子燃料公社を改組して設立された。特殊法人日本原子力研究所(原研)で労働組合の力が強かったのを嫌って、高速増殖炉などの新型動力炉や使用済み燃料再処理の研究開発を新組織に移すのが目的だった。改組による設立は、当時の内閣が特殊法人を増やさないという方針で、新設が無理だったための苦肉の策である。この時、原研から「動燃に移ったのは、安定な出世を望む人と従順な人50~60人で、大部分は原研に残った。あるいは残された」(西村肇東京大学名誉教授「原発の深層が見えた歴史の瞬間」――『現代化学』2013年1月号)。なるほど、さもありなん。
政府機関の名に「・」が入ったのは史上初だ、とこれは間違いない。『科学技術ジャーナル』1993年3月号「あの日あの時」で、動燃設立当時に科学技術庁原子力局長だった村田浩日本原子力文化振興財団理事長が説明している。「動力炉と核燃料をつなげてしまうと、従来の原燃[原子燃料公社]としての独自性が損なわれる恐れがあったので、内閣法制局とも相談して『・』をいれることにしたんですよ」。
動燃保有の高速増殖炉「もんじゅ」の事故を特集した、茨城県東海村の原子力関係者の同人誌『原子村』第18号で、元日本原子力研究所の職員だった石原健彦日本原子力産業会議ニュークサービス室編集顧問が言う。「動燃の名前には『・』があっても、両部門が実質上は対等であり全く同じように運営運用されておれば、今回のような事件はおそらく起こらず、また起こったとしてももっとスムーズに対処され解決されたのではないかと考えるものである」。
うーむ。
両部門の対等性は、けっこうむつかしい。瀬川正男動燃相談役(3代目理事長)の回想「『どうねん』の歩みと共に」(『エネルギーフォーラム』1984年6月号)によれば、「職員の人数は圧倒的に原子燃料公社から移ってきた職員が大部分だった」が、人事・労務担当の理事を務めていた「設立当初は、一つの関係する特殊法人を吸収したという程度の感覚しか持たなかった」という。職員の数にかかわりなく主業務は新型動力炉開発だと思ってたのね。
「私は、新型動力炉開発のスタッフを民間から誰を引っ張るかとか、その人をどういうふうに編成するか、最初の一年ぐらいは、これに一生懸命でした。従って、原子燃料公社出身の人たちが『おれたちを冷遇するな』と時々、私に文句を言う人もいました」。「しかし、原子燃料公社の業務を抱き合わせることが、実際には新型動力炉開発に絶対に必要であることは2、3年経てから実質的にわかってきたのです」と瀬川は、「それだけ私はスケールが小さいことになる」ことを反省している。
とはいえ、主業務は新型動力炉開発の考えに変わりはなしだけど。
武士は相身互い
1998年9月30日、動力炉・核燃料開発事業団は解団を迎えた。7月には『動燃三十年史』が刊行されたが、創立から31年目の10月2日には、もはや動燃は存在していなかった。「もんじゅ」のナトリウム火災事故、東海再処理工場のアスファルト固化体火災・爆発事故と、事故が、また、事故に伴う虚偽報告が相次いだことで批判を浴び、10月1日に核燃料サイクル開発機構に衣替えをしたからだ。同機構のカタカナ入り政府機関名も、初だった(これも本当)。
藤家洋一原子力委員会委員長代理が、『エネルギーフォーラム』1998年11月号で力説する。「画期的なことは、動燃が核燃料サイクル開発機構という新しい名前で再出発が決まったことです。これは相当画期的なものだと思って、私は感動を覚えています。こういう名前の法人が国会で議決されるような国は、日本のほかにはないと思う。ほかの国はいろんなオプションをとるのに、なぜ日本は核燃料サイクルをいつまでもやるのかといわれますが、そういうことが国会の場で議論され、大多数の政党が賛成して、これが実際に法人として10月1日からスタートした。日本は代表制民主主義の国ですから、日本人の将来の原子力に対する期待と大きな要求がそこにあるのだろうと思います。これを我々は重く受けとめなくてはいけない」。
不祥事での改名とは思えんな。
この「新しい名前で再出発」を「動燃改革」と称して進めた科学技術庁(現・文部科学省)と動燃の一心同体ぶりたるや、1997年3月21日に開かれた会合で原子力局の林幸秀政策課長は、こう動燃を宥めていた。「事故で原子力開発推進の根幹が揺らいでいる。今は動燃だけが悪者になっているが、今後、科技庁まで非難されたら収拾がつかない。科技庁も当面、動燃を非難せざるを得ないだろうが、裏では動燃と連携した形での組織改革を進めたい。今は厳しいだろうが、耐えていただきたい」(11月30日付『東京新聞』)。
電力業界は、どう見ていたか。同年4月21日付電気新聞の「記者手帖」は、切って捨てる。「こんな組織に誰がした! 所管の科技庁自体の存廃は? 原子力体制総点検の時」。
蝸牛角上の争い
そんな動燃の実力たるや、以前には高速増殖炉開発の元締めたる科学技術庁動力炉開発課長を務めたりもした通商産業省(現・経済産業省)資源エネルギー庁の松田泰長官官房審議官(のち東北電力副社長)が『エネルギーフォーラム』1985年1月号の座談会で高速増殖炉の設計について「動燃が設計しますね。そうすると、『あの動燃の設計じゃ、どうかな?』というのがあるわけですよ」と公に批判することをためらわないありさま。1997年5月2日付読売新聞では東京電力の荒木浩社長が「動燃と、原発を安全運転しているわれわれ電気事業者が、一蓮托生に見られるのは正直言って耐えられない」と泣き言を漏らしていた。
少しだけ補足すると、動燃を所管していた科学技術庁と通産省・電力連合は元来仲が悪い(吉岡斉の言う「二元体制」ね)ようで、そのぶん言い方がきつくなっている側面は否定できないかなあ。
松田同様みなさん両省庁を渡り歩いてもいるけど、その時々の役職で発言しているのか。そう言えば笑い話みたいなエピソードがあったのを思い出した。あるお役人が原子力担当から石油担当に替わった。すると、それまで原発推進論をぶっていたのが途端に消極論になって「やたらに脱石油なんていうのはおかしい」なんて言い出した。新聞記者に矛盾を指摘されて曰く「野球選手だって球団を移れば新しい球団のために働くでしょう」! 情けないことに出典の記憶が飛んでます。
仲が悪い話に戻ると、資源エネルギー庁原子力発電課の岩本晃一技術係長が『電気とガス』1985年11月号で堂々と見得を切っていた。「役所はとかくケンカをするところである。特に通商産業省は行政対策をする範囲が広いことから何かしら他省庁とケンカを行う。原子力分野においても同様であり、通商産業省と科技庁間で所轄争いを行うことが多い」。
原子力委員を辞任するにあたってのあいさつ文(『原子力委員会月報』1985年4月号)で、島村武久は、委員を引き受けたときの目標のひとつが「当時批判の的となっていた省庁間の確執の解消」と明かしていた。川上幸一神奈川大学教授をインタビュアーとした『島村武久の原子力談義』(電力新報社、1987年)で「『両省庁間のみにくい縄張り争いみたいなことをやめさせようと思った』と原子力委員会月報に書いたら、事務局から『みにくいだけは消してくれませんか』と言ってきた」と漏らしている。「縄張り争い」も消えて、「各省庁間の確執」と大人しくなった。
いや、縄張り争いのトバッチリなんかじゃないと思うよ。やっぱ実力かな。日本原子力研究開発機構(JAEA)に変わっても、中身は変わったとみられていないのか、2022年9月21日の原子力規制委員会記者会見での、記者と更田豊志委員長のやりとりを引いてみよう。
○記者 革新炉の話、次世代原発ともいわれるのが盛り上がって、その司令塔機能として、JAEAという名前も何か上がってたりするのですけど、JAEAはそういう司令塔として、革新炉の研究推進するのに適しているとお考えでしょうか。
○更田委員長 それは、電気事業者にお尋ねになると、すぐ答えが戻ってくると思いますよ。
オシャレな答ですね。
◉特定重大事故等対処施設
「特定重大事故等対処施設(特重施設)」とはリアルにわからない名称で、マスメディアでは「テロ対策施設」と呼び変えている。大型航空機を故意に衝突させるなどのテロ行為で原子炉建屋が破壊され、使えなくなる場合に備えたバックアップ施設である。
備えあれば憂いあり
特重施設は、中央制御室に代わって原子炉をコントロールする緊急時制御室や、電力を供給する電源設備、原子炉を冷やすための注水設備などを有する。実はあまり知られていないが既存の原発にも、中央制御室がテロリストに占拠された時に別室で原子炉をコントロールする緊急時制御室は存在する。とはいえ原子炉建屋が破壊されることが前提だから、それだけでは役に立たないということだね。
特定重大事故等対処施設は役に立つのか。2019年6月11日付電気新聞に、エネルギー戦略研究会の金子熊夫会長(初代外務省原子力課長)のご意見が載った。
「テロ攻撃を未然に防ぐのは電力会社や警察、海上保安庁では無理で、軍隊(日本では自衛隊)の力を借りる以外にない。具体的には、原発施設の近傍に短距離地対空ミサイル(パトリオット・ミサイル等)や高射砲を配備し、事前に襲撃を食い止めることだ。それが抑止力にもなる。
ということは、自衛隊を動かせば、事前に襲撃を食い止めることは今すぐにも実施できるし、大規模な土木工事を伴う特重施設の建設よりも、未然防止の観点で費用対効果がはるかに高い」。
おきやがれ、べらぼうめ。短距離地対空ミサイルや高射砲でも確実に防げる保証なんぞない。となれば、原子炉のコントロールができず暴走するかもしれない。電源を失って安全装置が働かないかもしれない。冷却水を循環させられなくなったりするかもしれない。それ以前に、施設の破壊によって対処の遑もなく放射能が放出されるかもしれない。
いや、問題はそこじゃない。そんな事態が現実に起きることを覚悟してまで原発を動かすのかだ。寝言は寝て言え。原発さえなければ、特重施設も要らないっしょ。もち、費用対効果ははるかに高い。
◉トリチウム
三重水素。陽子1つだけのふつうの水素に中性子が2つ加わったもの。半減期は12.32年。
ちょっと思い出しただけ
トリチウム汚染水の海洋放出ですっかり嫌われ者になったが、重水素と三重水素の反応による核融合開発を進めたい方々にとっては、喉から手が出るくらい欲しい物らしい。2023年10月19日付日刊工業新聞では小林健人記者が「トリチウムは核融合発電に必須でありながら、供給が一部地域に限定される。今後は供給量が減っていくことが予想されており対策が求められる」と、「究極のエネルギー『核融合』実用化へ壁、燃料『トリチウム』に供給懸念」を報じていた。
だからして、一時期は多額の政府予算が投じられていた核融合研究に伴って、核融合炉で大量に扱われることになるトリチウム影響研究についても潤沢な予算がついてた。しかしブームが去ると、研究の課題は、とりわけ低線量・低線量率の影響についてはほとんど未解明のまま、発表される論文は下火になっているように見える。いま再びの核融合ブームで少しは研究が進むのだろうか。それとも海洋放出に障りのないよう知らん顔の半兵衛を決め込むか。
オマケ。放射線医学総合研究所でプルトニウムの影響研究に従事していた松岡理(おさむ)元同研究所内部被曝研究部長は著書『プルトニウム物語』(テレメディア、1990年)で、プルトニウムは危険でないと強調したいがためにこんなことをお書きになっておられました。プルトニウムの利点として曰く「無傷の皮膚からは吸収されません。これは放射線防護上ではたいへん有利なことです。3H〔トリチウム〕は無傷の皮膚からも吸収されます」。
◉トリップ
Tripには「旅行」と「躓き」の2つの意味がある。AIに訊いたら「英語には同じ単語でも複数の意味がある場合があります。 ただし、この2つの意味は全く異なるため、文脈によってどちらの意味で使われているかを判断する必要があります」と、役に立たない回答が届いた。
原子力の世界では後者の意から「異常時に原子炉を緊急停止させること」を指すようになった。動詞にも名詞にも使われる。原子炉は運転条件の限界を超える信号が検出されると自動で停止するようになっているが、手動で緊急停止させることも「トリップ」と言う。
一筋縄ではいかない
同意語に「スクラム」がある。「最近では[っていつのこと?]『トリップ』と言うほうがふつうだ」とする説明も聞くが、日本では沸騰水型炉では「スクラム」、加圧水型炉では「トリップ」と使い分けられているようだ。文部科学省の「原子力防災基礎用語集」の「原子炉緊急停止(スクラム)」の項には「加圧水型原子炉(PWR)では原子炉トリップということもある」と記されている。あとで出てくるオークリッジ米国立研究所のH.E.ハンガーフォードは、「トリップ」は上から下への垂直の動作を含んでいるため、制御棒を下から入れる沸騰水型炉(BWR)にはそぐわないと説明していた。
話題としては「スクラム」の語源のほうが面白い。そっちを見出し語にしたほうがよかったかな。「スクラム」の語源は、大きく二つある。どちらも、1942年12月に米シカゴ大学でエンリコ・フェルミらが初の核分裂連鎖反応実験に成功した原子炉シカゴ・パイルに由来する。
逃げるが勝ち
一つは、「逃げろ!」という意味のスラング(スクランブルの略)から。動力炉・核燃料開発事業団東海事業所の河田東海夫再処理技術開発部長が、『日本原子力学会誌』1995年6月号に「斧と原子炉の安全性:『スクラム』の語源について」を詳細に書いていて、そこで実験参加者の一人ウォーレン・ナイヤーの説が紹介されている。
「ウィルソンらの計装グループは、制御棒と安全棒[制御棒の一種。緊急時用]を緊急作動させる大きな押しボタンを取付けることにした。このボタンを何と呼ぶか思案した。誰かが『このボタンを押した後はどうするのか?』と尋ねた。ウィルソンが『急いで逃げろ!』(Scram out of here)と答えた。『オーケイ、それならここにスクラム(SCRAM)と名前を付けよう』とグループの一員ビル・オーバーベックが言った」と。
別の一員ヒュー・バートンは、ウィルソンは「北のゲートから急いで逃げろ(Scram out of there)と言った」と、ナイヤー宛の私信に書いてきたという。「私は誰がSCRAMというラベルを作ってそのボタンに貼り付けたかは知らない。その名前は確かにそこについていたと思う」。
ところが、もう一つ、違った説があって、「Safety Control Rod Axe Man」(「Safety Cut Rope Axe Man」とも)の頭文字をとったのだそうだ。河田論考によれば、こちらのほうが先に発表されていて、「逃げろ!」説はその反論だったとか。最初の臨界実験の際の安全棒は電気駆動でなく、原子炉の上に吊られたものを緊急時に斧でロープを切って炉内に重力で挿入させる仕組みだったらしく、その斧を持たされたノーマン・ヒルベリが、後に友人から「ミスター・スクラム」と呼ばれたとされる。「1942年12月2日の午後、私がバルコニーに昇ると、手すりの所に連れていかれ、『もし制御棒の挿入に失敗したらこのロープを切ってくれ』と言われた」と私信に残してもいるから事実のようだが、自身が「ミスター・スクラム」だとは友人に呼ばれるまで「何年もの間自分では知らなかった」とか。
マジでおもろい説やけど、どうも後からこじつけた感があるかな。
付言すればシカゴ・パイルの緊急時対策はそれだけではなくて、1957年8月27日付朝日新聞の「社説」に次のように書かれている。「炉のまわりには“火消し”バケツをかかえた“自殺部隊”が立ち並ぶといった緊迫感があった。“火消し”といっても水は役に立たないから、決死隊のバケツの中には、分裂反応の主役、中性子を吸い取る濃いカドミウムの溶液が満たされていた」。河田論考中のヒルベリの話によると、ロープ切断は、この自殺部隊も失敗した時の最後の手段だった。「黒鉛パイルの後方上部の仮設昇降台の上の『決死隊』(suicide crew)で、カドミウム溶液の入ったたぬき瓶を用意し、もし青い光が見えたらそれらを黒鉛パイルの上に投げつけられるように指示されていた」という。「自殺部隊」はsuicide crewの訳語だったんだね。
と、これで終わりにしようと思っていたら、日本保全学会が発行している『フォーラム保全学』第1巻第3号(2003年4月)に原電事業の織田滿之常務が「SCRAMとTRIPの語源」を載せていて、上述の論争の一部を翻訳・紹介しているのを見つけた。ウォーレン・ナイヤー説のボタンについて、オークリッジ国立研究所の黒鉛炉X-10の実験に携わったH.E.ハンガーフォードがこう言う。「赤い色のボタンはSCRAMボタンと呼ばれ、駆動機構が作動することをパイルをSCRAMMINGするといっていました。私は当時、SCRAMはSudden Control Rod Activating Mechanism(突然の制御棒動作)を意味するのだと聞いていました。もし赤いボタンを押したなら、Sudden Control Activating Motion(ただちに次の行動をとる。飛んで退げろ=英俗語のSCRAM)となります」。
よくわかるところもあるけど、余計にややこくなるところもある。詮索建てはここまででやめとこうっと。
[© Baku Nishio]
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