◉中曽根札束予算
1954年3月3日の国会に54年度予算案の修正案として改進党・自由党・日本自由党3党により提案された、日本初の原子力予算。調査研究費としてウラン‐235にちなんで2億3500万円、鉱物資源探鉱費として1500万円である。4日に衆院を通過、参議院に送られたが同院では採決に至らず、衆院の議決優先で成立した。
毎日新聞が1955年1月12日から27日まで15回にわたって連載した「第三の火 日本の芽ばえ」第2回に「茅[誠司]日本学術会議会長は、提案者の中曽根[康弘]改進党(当時)議員との会見のくだりを『中曽根氏は学者がボヤボヤしているから、札束で頭をブン殴ってやるんだといった[後略]』と[原子核研究所の設立計画をまとめあげていた朝永振一郎東京教育大学教授に]報告した」という記事が載った。他にも報じられていたかどうかは未確認だが、この逸話に基づいて「中曽根札束予算」と名付けられた。
一つ穴の狸
中曽根は、自分ではなく同じ改進党の稲葉修衆院議員が言ったのだと弁解している。『原子力文化』1988年7月号での中曽根と伏見康治大阪大学教授の対談によれば、茅と日本学術会議第4部(理学)部長だった伏見が、予算に反対して中曽根のところに抗議に行ったときのこと。同席した稲葉が「学者の尻を札束で叩くんだ」と言い放ったんだという(頭じゃなくて尻なのね)。もちろん考え方に変わりのあろうはずはなく、『日本原子力学会誌』2003年1月号の巻頭言で中曽根は「学術の壁は時には政治の力を必要とする」なんて言い放ってた。
それはそれとして、二人の抗議について中曽根はこう漏らす。「非常に印象的なことは、抗議にきて帰るときに、茅さんが私につぶやいたんですよ。『できちまったら、仕方がない』と。そう言って帰ったんですよ。これは内心は通してくれということだな、私はそう読みましたね。茅さんはそういう大戦略家でしたよ」。伏見も「そうですね」と受けているから、その通りだったんだろうね。ばかばかしい。
前掲毎日新聞連載の第3回では稲葉が露骨に語っている。「予算提出の数日前、第一議員会館の中曽根君の部屋に茅会長を招いて相談した。もちろん予算を出すことも打明けた。みんなの前では立場上反対みたいな顔をしていても、茅氏はハラの中では賛成していた」。当たり前だけど茅は「語気をあららげて否定」した、と記事は書いている。
隠しておいた言葉がほろり
1954年3月4日の衆議院本会議で、改進党の小山(おやま)倉之助議員が3党修正案に賛成の演説を行なった。小山は、原子力予算の話の前に「国防政策についてでありますが政府は、日本の経済力に順応して漸増すると言うばかりであつて、依然消極的態度に出ております」と打つ。「MSA[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定]の援助に対して、米国の旧式な兵器を貸与されることを避けるがためにも、新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります」。
原子兵器を「使用する能力を持つ」って言ってるウ。それを言っちゃあおしまいよ。
続けて原子力予算だ。「わが党は、原子爐製造のために原子力関係の基礎調査研究費として2億3500万円、ウラニウム、チタニウム、ゲルマニウムの探鉱費、製錬費として1500万円を要求し、三派のいれるところとなつたのでありますが、米国の期待する原子力の平和的使用を目ざして、その熱心に推進しておる方針に従つて世界の40箇国が加盟しておるのでありまして、これは第三次産業革命に備えんとするものでありまするから、この現状にかんがみ、これまで無関係であつた日本として、将来原子力発電に参加する意図をもつて、優秀な若い学者を動員して研究調査せしめ、国家の大計を立てんとする趣旨に出たものであります」。
「原子爐製造のため」って言ってるウ。なるほど当初の構想では「原子炉築造予算」とか「原子炉製造費補助」などとされていたというが、それでは合意が得られず調査研究費に呼び変えられたんでしょ。
「米国の期待する原子力の平和的使用」って言ってるウ(「日米原子力協定」の項参照、ってカッコつけるほどのことじゃないけど)。
中曽根原子力予算って、そういう予算だったのね。
◉2次冷却系
加圧水型原発では、炉心から蒸気発生器の伝熱管の内側までを1次冷却系と呼び、伝熱管の外側から蒸気タービンまでを2次冷却系と名付けている。沸騰水型原発ではタービン、復水器を通って炉心に戻るまでのすべてが1次冷却系となる。
無理算段の無理無体
2次冷却系の配管が破断し、11人が死傷する事故が2004年8月9日、関西電力美浜原発3号機で起きている。冷却水は約140度の高温で、10気圧近い圧力をかけて気化しないようにしている。噴出すると蒸気になって、近くで働いていた下請け会社の社員11人に襲いかかった。4人が即死、重火傷の1人が25日に死亡した。他にも6人が火傷を負い、4人は04年10月までに退院したが、1人は2005年1月、もう1人は06年3月にようやく退院することができた。退院後も通院、自宅療養が続いた。
事故のあった建物(タービン建屋)では、5日後から予定されていた定期検査を前に、準備作業が行なわれていた。運転中は無人の場所に人がいたことが、被害を大きくしたと言える。以前は、原子炉の運転を止めてからタービン建屋に入り、作業を開始していた。ところが、少しでも定期検査の期間を短くして設備利用率を高め、コスト競争に対処するために、さまざまな無理を重ねている。そのひとつが、まだ原子炉が動いているうちに準備作業を行なうことだった。作業の無理は、すべて下請け労働者に強いられた。
「『あの配管破裂は、末端業者の不満が爆発した象徴じゃないか…』。美浜原発死傷事故後、関西電力の下請け業者の間で、こんな話がささやかれている」。2004年9月19日づけ福井新聞の記事だ。連載「安全崩壊 蒸気噴出 美浜原発死傷事故」の第8回「下請けの叫び」である。
蒸気を浴びた人は、たまたま11人で済んだとも言える。3時からの休憩時間で、現場を離れていた人がもっと大勢いたのだ。11人は、混雑を避け、人のいない時を有効につかおうと仕事をしていて、不幸な事故にあった。あんまりひどいげんじつなのだ。
死者・負傷者が属していた「木内計測」は、関西電力によれば「協力会社」のひとつ。よくつかわれる言葉で言えば「下請け会社」だった。元請け会社である関電興業(関西電力の子会社)の下で、原発の計器類のメンテナンスを請け負っていた。事故を起こした当時、美浜原発3号機の定期検査には400もの会社が作業を請け負っていた。元請けが数社、元請けに連なる下請けが三十数社、その下に孫受けなど何層もの請負業者が連なっていたという。事故発生時にタービン建屋内にいた関西電力の職員はたった1人。下請け労働者については数すら正確に把握していなかったため、救出活動に支障をきたした。
なんのこっちゃ。
愛が足りない
事故の背景には、相変わらずの2次系軽視とともに、運転・保守部門の軽視があるようだ。電力会社の原子力部門の中に設計・建設部門を優位とし、運転・保守部門を軽視する風潮があるのでは――美浜事故に絡めて、電気新聞の藤森礼一郎論説主幹が問いを発した。答えるのは、日本原子力産業会議の宅間正夫副会長・元東京電力取締役。「確かにそのような傾向は否定できないと思います。[中略]事実、試運転を終えて営業運転に入ると、設備の完成を目指した攻めの職場である建設所が保守という一見守りの職場である発電所に変わる。あるいは建設部門から発電所保守部門へ配転になる。そうすると職場の活力や従業員の意識が微妙に低下するということを、経験しています」(2004年9月21日付電気新聞)。
さいですか。
宅間副会長は「発電所の運転・保守は電気事業者にとって生命線の技術であり中核の技術ですよ」と力説するが、それだけ現実には運転・保守の軽視が幅を利かせているんだろう。「原子力の場合は、保守は最初から外部委託でしたから火力発電以上にマイプラント意識が希薄だったという気がします」とも言う。また、『エネルギーフォーラム』2004年10月号で宅間は、「電力会社の技術者は、現場を見るのも請負会社を通じて見ることになり、すると当然、プラントに対する愛情も薄くなる。加えて最近はコンピューターを通して現場を見る、現場のバーチャル化が進んでいる。そうすると、現場を見てそこから何かを感じ、つかみ出すセンスも薄れてしまう」とも指摘していた。うーむ、郁子なるかな。
2004年10月18日付電気新聞の匿名コラム「観測点」には、「ある発電所長に聞くと、現場に行かないサイトの職員が増えているという。これは委託作業の重層化が進んでいるためだ」とあった。難儀やなあ。
◉日米原子力協定
日本とアメリカとの間で結ばれた原子力分野の協力協定。何度か結ばれていて、現行の協定のフル名称は次の通り。「原子力の平和的利用に関する協力のための日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」。
誤訳天国
最初の協定は1955年11月14日にワシントンで署名、国会承認を経て12月27日に公布された「原子力の非軍事的利用に関する協力のための日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」だ。「非軍事的利用」であって、「平和利用」じゃない。そんなぞろっぺいな言葉は、まだ法令用語としては使えなかったんだろう。
この協定を受け入れることは、それによって自主的研究が阻害され、公開、自主、民主の「平和利用3原則」が冒される、原子力を通ずるアメリカの世界政策に巻き込まれる(「米国の期待する原子力の平和的使用」)、と日本学術会議の学者やジャーナリストなどからは反対の声が上がった。
が、そんな硬い話は措いといて。
正式署名の前、1955年の6月21日にワシントンで仮調印された協定全の日本文を7月6日付朝日新聞が掲載したことで誤訳騒動が勃発した。
10日付同紙1面の見出しを拾ってみよう。「原子力協定に食違い/数ヵ所に重大な“誤訳”/実在せぬ物質の返還など」。「実在せぬ物質」とは「放射能を失った燃料要素」で、英文ではirradiated fuel elements、「放射能を失った」どころか放射能まみれだ。門脇外務次官は「まだ仮訳で正文ではないのだから、正式調印までに訂正することはできる」と弁明、12月に交付された正文では「照射を受けた燃料要素」と訂正された。よかった、よかった。
「それ以来原子力には全て『仮訳』がついている」と、「原子力政策研究会」で1988年3月18日、田中好雄元科学技術庁原子力局次長は言う。でもね、原子力に限らず今も外務省のホームページは「仮訳」のオンパレードだ。いや、外務省に限った話でもない。となると、田中説の「それ以来」はどこまで信頼できるか。
森[一久日本原子力産業会議専務理事]:そうか、それから「仮訳」が始まったんだ。
田中:そうなんです。こわくて翻訳なんてできやしない。
と続くんすけど。
それにしてもマヌケな誤訳だねえ。森は「あの時は本当に使用済み燃料が問題だという感覚なかったから」って、それはないんじゃない。森川澄夫「米原子力法123条と日米原子力協定」(『ジュリスト』1955年11月号)は、きっちりと批判している。「この誤訳問題は単に外務省の単なるミスを意味するだけでなく、このことにより外務省がこの協力協定の交渉に当ってはその内容についての十分な理解に欠けていたこと、原子力の専門家ならずとも一般の物理学者にとっては常識程度の知識すらなく協定の交渉を行ったこと、極端に云えば何のことやら分らずに仮調印したのではないかの感なしとしないこと等が暴露されるという重大な問題となったのである」。
ここで経済産業省の「暫定仮訳」も見てみよう。2023年4月16日に発表されたG7気候・エネルギー・環境大臣会合コミュニケの「福島第一原子力発電所の事故対応」の項に、こうある。「我々は、同発電所の廃炉及び福島の復興に不可欠である多核種除去システム(ALPS)処理水の放出が、IAEA 安全基準及び国際法に整合的に実施され、人体や環境にいかなる害も及ぼさないことを確保するための IAEA による独立したレビューを支持する」。
でも英語の原文では「同発電所の廃炉及び福島の復興に不可欠である」は「多核種除去システム(ALPS)処理水の放出」じゃなくて「人体や環境にいかなる害も及ぼさないこと」に掛ってるんだ。これってマヌケな誤訳のはずはないよね。
[© Baku Nishio]
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