◉日本原子力産業協会
ホームページには、こうある。「日本原子力産業協会は、原子力基本法が施行された1956年から続いている法人です。設立当時は、原子力の開発と平和利用を推進することを目的に、『社団法人 日本原子力産業会議』として、民間組織が結集し発足しました。
そして、創立50周年を迎えた2006年に改組し、自ら戦略的に行動する団体として『社団法人 日本原子力産業協会』と名称を変更しました」(現在は一般社団法人)。
不倶戴天
日本原子力産業会議(原産)設立の生みの親は、正力松太郎初代原子力委員長とされている。前年の総選挙で初当選した正力は「11月に第三次鳩山内閣に初入閣した。総理から防衛庁長官就任を打診されたが、『原子力担当大臣をやる』と主張した。『原子力って何だね?』と総理は怪訝な顔をした」と『原子力eye』2010年5月号で伊原義徳元原子力委員長代理が回顧している。日米原子力協定を誤訳した外務省も、原子力なんて知らなかったのかな。
興に乗って余計な説明をしちゃった。閑話休題で、原子力平和利用調査会発行の『原子力新聞』(原産発足後、『原子力産業新聞』として継承)1956年2月25日号によれば、同調査会の月例懇談会で橋本清之助常任理事が民間連絡会の設置について話すのを聞いて正力は「自分の考えていたことが、小型ではあるが既に存在していることを知り、構想実現に強い自信を得たことは事実のようである」ようで、さっそく原子力委員会会合に提案する。「正力構想」は、わずか1ヵ月で現実となった。その経緯を、『原子力委員会月報』1956年1月号から、ひんぱんに[中略]が入るのもウザいので明記せず飛ばして引用しよう。
「1月27日の第8回定例委員会において、正力委員長から次のごとき提案が行われた。すなわち原子力の平和利用開発は、挙国一致の形ですすめなげればならぬと考えるが、たとえば学界のごときは、日本学術会議というのがあって学界の意見というものがそこを通じて総合されて出てくるが、一方民間産業界の声をまとめて出してくる機関がないことは正しい発展を実施する上に不十分と思われる。そこで委員長が音頭とり役を買って出てひろく民間に原子力産業会議の設立を提唱したい。
この提案にたいして各委員から、それが民間産業の自発的機関であるべきであるとの意見が出され、原子力委員長としては原子力産業会議設立の提唱だけを行うにとどめられたいむねの発言があり了承された。その結果、2月3日総理大臣官邸に民間代表者数十名を招き席上正力委員長から声明書が発表された。
この正力声明にこたえて、民間産業界は直ちに設立準備小委員16氏を委嘱し、3月1日創立発起人総会を開催、社団法人日本原子力産業会議として発足することとなり、3月14日正式に設立が認可された」。
先の『原子力新聞』には「この構想はアメリカのアトミック・インダストリアル・ホーラム(原子力工業会議所)に相当する組織を日本にも結成し」云々とあるけど、なにより日本学術会議などの「核アレルギー」に対抗する思いが強そうだ。森一久原産専務理事が1988年3月18日の「原子力政策研究会」で語ったところによれば、原産が生き残っているとは設立時には考えられていなかったらしい。曰く「裏話になるんですが、原産っていうのがいつまで要るであろうかという議論もあったんです。その時幹部連の頭にあったのは、要するに簡単な言葉で言うと、核アレルギーの解消にどの位の時間が掛かるだろうか。あと10年もやればいいんじゃないかという感じがありまして、職員は10年くらいでやめてもらってもいいように、退職金だけはたくさん出すようにしとけとか言ったらしくて。(笑い)」。
善男善女にゃ無縁の話で御座います。
バスに乗ったら遠まわり
1956年3月1日に日本原子力産業会議が発足した年の年末時点の会員名簿が『原子力産業新聞』57年1月5日号に載っている。電力・メーカー・ゼネコンなどはもとより、朝日・毎日・読売といった新聞社、日本放送協会、民間放送、当時の国鉄や私鉄各社、東映・東宝・日活などの映画会社、新潮社・紀伊國屋・丸善のような出版社・書店、デパート、ビール会社、松竹、日本コロムビア、日本ビクター、後楽園遊園地、パイロット万年筆、資生堂、雪印乳業・日本製糖などの食品会社、製紙会社……と、あらゆる業種が並んでいる姿に、「バスに乗り遅れるな」との雰囲気がよくあらわれていた。
なお、後身である日本原子力産業協会のホームページには最新の会員名簿があり、それを見ると先に名前をあげた各社は、みごとに皆、退会したみたい。さもありなん。
ここでオマケ。「バスに乗り遅れるな」との雰囲気を、当時の新聞記事から探ってみよう。
「原子力発電には火力発電の場合のように大工場を必要としない。大煙突も貯炭場もいらない。また毎日石炭を運び込み、たきがらを捨てるための鉄道もトラックもいらない。密閉式のガスタービンが利用できればボイラーの水さえいらないのである。もちろん水力発電所のように山間へき地を選ぶこともない。ビルディングの地下室が発電所ということになる」(毎日新聞1954.7.2)。
「もしも死の灰の出ない水爆エネルギーが使えるようになったら、原子力で山をくずし、運河を掘り、湖や海をつくることさえ可能になる。台風をたたきつぶすことも、もはや夢ではなくなろう。かくて、自然改造が進むにつれて地球はより多くの人口に住み心地のよい住み場を与えるようになる。
いまでこそ戦争のための原子力潜水“艦”だが、そのうちに原子力潜水“船”ができる。強力なプラスチックの出現で、透明な潜水船に乗り、龍宮見物しながら太平洋を渡るのも悪くはない。[中略]
原子力飛行機もさることながら、大陸間の旅行には大気圏外を飛ぶ原子力ロケットが全盛となる。東京・ニューヨーク間2時間半。通勤にはまだちょっと遠いが、東京・大阪間を日航機で飛ぶくらいの気安さ。地球がえらく狭くなって国境の観念が薄れる。国際結婚も盛んとなり、戦争などバカらしくて……と世界人的感覚が生れて来る」(朝日新聞1955.8.17)。
読売新聞は1954年元旦から2月9日まで全31回に亙って「ついに太陽をとらえた」を連載、4月には全面的に改稿、出版した。電気料金が2000分の1になるといった話も載っている。少年誌には「宇宙船で修学旅行」とか「原子力で動く自家用自動車」とか「原子力ロケット」で海外の学校に毎日通学とか………。「連載科学小説」と銘打った海野十三の「原子力少年」(未完)をはじめとして、いくつもの少年向け小説に原子力発電所が登場したりしていた。「原子力はハツカネズミをウサギに出来ないかしら」と、北畠八穂の童話「チョンミーと原子力」にまで原子力が顔を出す。
「少年落語 原子力時代」なんてのも『少年クラブ』1950年5月号にあった。『讀切倶楽部』55年新春増刊号には、並木一路・内海突破の新作漫才「原子力時代」が採録されている。読んでみたけど、もとより他愛のないもの。それでも早々と落語や漫才が生まれているのが、まさしく「原子力時代」なんだろうな。ワロタ。
とはいえ「中曽根札束予算」の項で引用した毎日新聞連載のように、かなり辛口の記事がなかったわけでもないぜ。
◉日本原子力発電
日本で唯一の原子力発電専業会社。
生まれる前の話
1956年1月に原子力基本法など原子力3法が施行され、原子力委員会が発足するが、この当時の基本方針は、必ずしもすぐに商用原発の建設をというものではなかったはず。ところが、初代そして、すぐにまた第三代の原子力委員長に就任した正力松太郎国務大臣は、1年前までは考えも及ばなかったと言われる「実用発電炉の早期導入」を唱え、あっさりと基本方針を転換してしまう。その時点ではイギリスでもまだ運転を開始していないコールダーホール炉を実用炉だとして、導入しようというのである。56年10月17日にコールダーホール炉の開所式があり、石川一郎原子力委員長代理・前経団連会長を団長とする調査団が開所式出席を兼ねてイギリス、アメリカに派遣された。調査団は、まず導入するとすればイギリスからだと報告書をまとめる。原子力施設デコミッショニング協会の『RANDECニュース』第18号(1993年7月刊)で、英国日本国大使館初代科学アタッシェに赴任のため調査団と共に日本を出発したという同協会の村田浩理事長が述懐する。
「石川さんの表現によれば、イギリスの娘さんもアメリカの娘さんもいづれ見目良い美人だ。まだ若いけれど非常に美しくなっていくでしょう。ただ今の時点で見ると、アメリカのほうは未だ若いと、だから嫁入りするのには早い。嫁入らすのならばイギリスだという表現を使われた」。
とんでもはっぷん歩いて10分。石川よ、お前もか。セクハラなんて言葉はなかった時代とはいえ、女性が聞いたらさぞ不快だったことだろう。
理屈じゃねえんだよ
さて1957年2月、電力会社9社がコールダーホール炉は自分たちでやると言い出すと、電源開発株式会社(電発)が受け入れの名乗りをあげた。ただし、民間電力は「国営反対だという意味で、一生懸命になっておられたんで。原子力発電を一生懸命やるというお気持ちは、どうも無かったように思うんです」と1990年1月11日の「原子力政策研究会」で島村武久は言う。当時は科学技術庁原子力政策課長。森一久元日本原子力産業会議副会長の『森一久オーラルヒストリー』(近代日本史研究会、2008年)には、こうある。「松根宗一[経済団体連合会エネルギー対策委員長、日本原子力産業会議副会長]が言っていました。『森君、やっぱりあのときは「電発にやらせてもいいのか」と言ったのが成功したね』と、亡くなる少し前に僕に言っていましたよ。『やっぱり、そうですか』と言ったら、『そう言って脅さなければ原子力には手を出さなかっただろう』と言っていました」。やっぱ、そうなんや。
政府出資が67パーセントの国策会社である電発は、イギリス側の売り込みのコストは鵜呑みにはできず、国の資金を投入する必要があると主張する。5月には日本原子力研究所(原研)が、国家的事業である原発受け入れは同研究所が最適との考えを示し、他方、電力会社9社は、民間出資の原子力発電振興会社をつくる方針を打ち出した。このうち原研は、アメリカからの動力試験炉の導入が決まって手を引き、民間VS電発の主導権争いは、正力委員長VS河野一郎経済企画庁長官の争いにエスカレートする。
すったもんだのあげく1957年9月3日、電発が20%、民間が80%、うち電力9社が40%の出資で日本原子力発電株式会社(日本原電)を設立するという閣議決定にいたるのだが、その裏側では………。
田原総一朗『生存への契約―誰がエネルギーを制するか』(文藝春秋、1981年)から引こう。「『河野、正力―夏の陣』は、秋風とともに終焉するのだが、“戦い”が終ったのは、原子力論争の末に、ある合意点に達したためではなく、当時自民党幹事長だった川島正二郎が間に入って“手打ち”となったので、その決め手となったのは“金”だった。
河合武は、前出の本[河合武『不思議な国の原子力』角川新書、1961年]の中で、ある電力会社の幹部が、しかるべき“届け物”を持って、『猫の首に鈴をつけにいった』という表現をしており、松根宗一は、もっと端的に『これで決着をつけたのだよ。もっとも、やったのはオレじゃないがね」と、親指と人さし指とでマルをつくってみせた』」。
ともあれ日本原電は、あたふたと世話人会、設立準備委員会などを開き、57年11月には創立株主総会にこぎつける。「このように創立手続を急速に進めたのは、年内にも新会社から英国に調査団を派遣したいというスケジュールに合わせたため」(日本原子力産業会議『原子力開発十年史』、1965年)だった。
日本原電が刊行した『敦賀発電所の建設』(1973年)で、当時をふりかえって一本松珠璣会長は言う。「会社設立後直ちに購入に旅立った。当時としては、それ以外に調査を進める方法がなかった事情もあるが、超高圧火力発電位に思っていた。建設費や工期にしても、メーカーが言って来るものは、その通りいくものと思っていた。仕様書に火力と同じようなことを書き受注者も平気で引き受けた」。おいおい。
嗚呼、不思議の国の原子力
英国調査団に関しては、同時並行の日英貿易協定交渉を巡って国会でも論議を呼んだ「サケ・マス缶と原子炉のバーター」が有名だ。1959年4月27日の衆議院外務委員会で社会党の森島守人議員が、こう質問したのが嚆矢らしい。「私が最近入手しました確実なる情報によりますと、政府は原子炉の買い入れとサケ、マスのカン詰百万ポンドの[輸出]増額とを引きかえに動力協定を結んで、そうしてコールダーホール型の原子炉を買い取るという方針を決定しておるということは、私はほぼ確実と思われるのでございますが、この点について外務大臣の御所見を承わりたいと思います」。
藤山愛一郎外務大臣の答弁が、言いよどむところなんざ、つい嬉しくなっちゃうけど、当然ながら否定するわな。「直接の関係は何もございません。むろん日本がイギリスから何かよけい物を買いますれば、こちらも売る物が有利になるということは一般的には言えます。しかし、こういう非常に危険なもの[言っちゃったー!]——危険でもないのかもしれませんけれども、こういうものの安全性、それをただ貿易協定のために無視して買う、これは全く原子力委員会の決定することでありまして、われわれにはこのコールダーホールがいいとか悪いとか決定できる知識もございませんし、権能もございません。従って直接の関係は何もございません」。
以後、12月2日の衆議院決算委員会までやり取りが続くことに、栗原東洋編『現代日本産業発達史Ⅲ 電力』(現代日本産業発達史研究会、1963年)は、こう評した。「原子炉の安全審査も行なわれていない時期に、日本政府が英国政府に原子炉購入について言質を与えていたとすれば、その軽率さは避難さるべきであろう。また、このことは、東海発電所の安全審査等の設置許可手続に当って、政府のとった強引な態度をある程度裏付けるものといえよう」。
からくり事始
経済ジャーナリスト重道武司による「日本原子力発電は“ぼったくりバー”?」という記事が、2023年5月25日公開の「日刊ゲンダイDIGITAL」に載っていた。「『原子力ムラのぼったくりバー』。電力業界関係者らの間ではこんな皮肉も飛び交う。日本原子力発電──原電のことだ。[中略]どちらの原発も[東海第二と敦賀]2011年の東日本大震災による東京電力福島第1原発の過酷事故以降、稼働停止中だ。要するに現時点では売り物となる商品が何もない。にもかかわらず、この会社は毎期1000億円前後の売上高を着実に計上し、しかも黒字を維持し続けているのである」。
「その“からくり”が『基本料金』と呼ばれる料金体系」であることは、よく知られている。電力の卸売りをしていない年でも「基本料金」として原発の維持管理費用が電力各社から日本原子力発電に支払われているのだ。東海・東海第二原発の費用は東京電力と東北電力が8:2という受電契約量に応じて、敦賀原発の費用は関西電力、中部電力、北陸電力が5:4:1という受電契約量に応じて。維持管理費用どころか廃止措置費用までもが支払われている! おまけに、日本原電の経営がそれでも苦しくなるたびに、料金の前払いや債務保証などさまざまな形で支援を受けてもいるとよ。
なおかつ株主への配当は、創業以来一度も行なわれていない。不思議な国の不思議な会社。見返りでというか、最大株主である東京電力の勝俣恒久会長が福島原発事故の責任を取ったとして退任すると、すぐさま社外取締役に迎え入れたりしてるけど。
2020年度版以降は有価証券報告書の開示もやめ、会社概況書に変更。電力各社からどれだけの金が支払われているかを隠しちまった。
「基本料金」という仕組みをつくったのは、当時日本原電の取締役の一人として料金交渉に当った大神正らしい。1990年1月9日から4月20日まで電気新聞に連載された「原子力発電 草創の記」で大神は書いている。
「交渉で最初に問題になったのは、料金を基本料金と電力量料金の二本立てにするか、電力量料金一本にするかという問題だった。引き取り保証があるのだから一本だという意見が相当強く、原電内部にもそう主張する向きが多かった。
とくに技術屋さんにそういう傾向があり、それほど安全運転に自信があるということだったろうが、私はそれはダメだと言って猛反対した。電気料金原価は固定費と可変費の両立てというのが原価主義の基本思想だ。発電所は運転しようとしまいと、かかる費用というものがある。設備費の償却はもちろん、人件費などもそうで、運転しないからといって人をクビにはできない。コスト構成要素の70%を占める建設費の償却は確実にかかってくる。[中略]」
受電側の東電でも、料金の専門家の中に強力な電力量一本料金者がいた。ただし、原電内部のそうした主張と結論は同じだが、理由はちょうど反対であって、東電としても安定運転に少なからず危惧を持っていたということだろう。
私は、一本料金では経営が成り立たないという危機感があったので、必死だった。何が何でも日本立てだといって、そのかわり発電量が一定の基準に達しない場合はペナルティーを払うということで、何とか納得してもらった」。
東京電力の危惧と大神の危機感が、ともに現実となって今に至る。でも、ペナルティーはどこへ消えたんだろう。
[© Baku Nishio]
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