◉初原子力発電
最初の原子力発電。
先んずれば人を制す
世界最初の原子力発電は200W電球4個を点灯したというアメリカの高速増殖炉EBR‐1だが、原子力発電所(原発)としては、いろいろと世界初があるらしい。『ニュークリア・エンジニアリング・インターナショナル』誌の1956年11月号に「英ソの応酬」を揶揄した記事があり、日本原子力産業会議の『原子力海外事情』57年1月号が次のように紹介していた。
1954年6月27日、まず当時のソ連のオブニンスク原発(5,000kW)が初の操業を発表した。56年5月23日にはイギリスのコールダーホール原発1号機(4.8万kW)が、9月28日にはフランスのG1炉(5,000kW)が、12月29日にはアメリカのシッピングポート原発(9万kW)が、相次いで発電開始を発表する。「英ソの応酬」とは、以下の如きものだ。英コールダーホール原発開所式でのソ連科学アカデミー会員トプチェフ氏のスピーチと英原子力公社ブラウデン卿の応答からの抜粋という。
トプチェフ氏「今日、創造的な目的のための原子力利用ということに対して、貴国が偉大なる前進をなされたことをお祝いできますことは、わたくしどもの衷心より喜びとするところであり、かつ、わがソ連におきまして世界最初の原子力発電所の完成をみまして後、今また貴国イギリスにおきまして、新しい巨大な原子力発電所の完成をみますことは、わたくしどものこの上ない喜びであります」。
ブラウデン卿「今日、世界最初の工業的規模の原子力発電所の始動に当りまして、かくも多くの諸外国の原子力計画の代表者の方々に列席して戴くことができましたことは、わたくしどもイギリス原子力公社の者一同の喜びであります」。
『ニュークリア・エンジニアリング・インターナショナル』誌は、記事をこう結んでいる。
「各国それぞれの誇を満足させるために、こんなのはどうかね……、
世界最初の原子力発電場(Nuclear Power House)(ソ連)
世界最初の原子力発電所(Nuclear Power Station)(イギリス)
世界最初の民間原子力発電所(Civilian Nuclear Station)(アメリカ)」。
フランスのG1炉は軍用炉で、原発とは言い難いな。この炉について日本原子力産業会議が1957年に発行した『原子力読本』は、「プルトニウム生産が主目的で、また温度が低いので、5千kWしか発電できないのに、原子炉自体で空気を循環するのに7千kW必要だから差引きマイナス2千kWだというわけである」なんて紹介してた。
◉半減期
放射性核種が放射線を出して別の核種に変わり、半分に減るまでの時間。半減期の2倍で4分の1、3倍で8分の1となる。10倍で約1000分の1である。別の核種に変わったものが放射性核種の場合は、さらに異なった半減期で放射線を出す。
この半減期(物理的半減期)と、排泄などで体内から半減する期間(生物学的半減期)の両方から、放射性核種が体内に入った場合に体内における放射能が半分になるまでの時間(実効半減期)が決まる。
ネバーエンディングストーリー
『群像』が2016年3月号で、「東日本大震災から35年、戦後101年の〈30年後〉を、作家はどう描くのか」と、「30年後の世界――作家の想像力」を特集、津島佑子が「半減期を祝って」を寄せ、絶筆となった。他2篇と合わせて講談社から単行本が刊行された際の表紙とカバーは、大きく「Cs」の文字。セシウムの元素記号だ。ちなみに、「3月のあの原発事故」の後の話として2013年に津島が上梓した『ヤマネコ・ドーム』(講談社)では、「太平洋の『核のひつぎ』」と呼ばれるエニウェトク環礁の「ルニット・ドーム」がカバーだった。
「半減期を祝って」は、「私たちにとって、すっかり親しくなったセシウム137が半減期を迎えたことをお祝いするのに、今年ほどふさわしい年はない」と「どこからともなく歌うような女性の声でアナウンスが流される」ところから、物語が動き出す。ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害の「水晶の夜」ならぬ「愛国少年(少女)団」によるトウホク人迫害の「翡翠の夜」が描かれるディストピア小説は、筆者如き文学音痴では歯が立たない。
そこで「読書メーター」というのを見つけて読んでいたら、小説そのものとは違う話だが、「鮎」という人がこんなコメントをしていた。「1つのチョコバーを永遠に食べ続ける方法、それは、常に半分だけを食べて残りを皿に取っておくこと。次もまた半分だけを食べ、残りは皿に。大島弓子『ロングロングケーキ』の冒頭だけれど、セシウムの半減期が報道でさかんに言われていた頃、私の頭にいつも浮かんでいたのはこれだった」
半減期が何回廻っても、ゼロにはならないのだよ。
◉『はんげんぱつ新聞』
『はんげんぱつ新聞』は、1978年3月に見本となる第0号(ひらがな書きの命名者は、及部克人武蔵野美術大学教授)を発行、全国各地の有志が4月に大阪で1泊2日の集まりをもって発行主体の反原発運動全国連絡会を結成することでスタートした。第1号の5月号からは、漢字の『反原発新聞』(題字は赤瀬川原平=尾辻克彦)となる。ひらがなの『はんげんぱつ新聞』に戻るのは1993年10月の第187号から。15年ほど時代を先取りしていたことになる。
移れば変わる世の習い
スタート当時の代表(現在は4人の世話人体制)だった女川原発反対三町期成同盟会の阿部宗悦会長が「発刊にあたって」で言う。
「現在、各地の原発で原子炉中枢部のひび割れ事故、放射能もれ、労働者の被曝死、被曝者の増大等、予想を超えた危険性が国民の前に露呈してきました。が、これも十数年に亘る根強い反原発闘争によって暴露されたものであり、今や、反原発闘争は海や農地を守る闘いから人類の生存をかけた闘いとして、漁民、農民、労働者、消費者等、広範な闘いが構築されつつあります。
しかし、これまで私たちの運動は、報道分野において分断されていました。私たちはこの事実を認識し、全国各地の反原発を闘う人々が一堂に会してそれぞれの闘いを学び合い、闘いを連帯から結合へと飛躍、発展させることを願って、ここに『反原発新聞』を発刊することになりました」(1978年5月号)。
ここで強調された「報道分野において分断され」ることによる壁は、いまではインターネットで、全国どころか世界各地のニュースまで即座に知ることも、リアルタイムで情報を交換し合うことも簡単にできるようになり、いとも軽やかに乗り越えられた。その意味では、創刊時の目的には変化が生じている。月刊では、新聞というより「旧聞」だ。「まだ紙で出してるの」と呆れられたりもする。
とはいえ、そのスローさが、新たな強みになっているのかもしれない。ある人は、「遅れて情報量の小さな新聞が届くから、かえって頭の整理になる」と言ってくれた。恐悦至極。スローさが、ひとりよがりな訴えとなることを防いでくれることもあるようだ、と自画自賛。
アカイアカイアサヒ
「反原発新聞を買わない」という見出しを2021年6月10日付電気新聞で目にして、我が『はんげんぱつ新聞』のことかと思ったら、そうじゃなかった。中村政雄元読売新聞論説委員が呼びかける。「全国の新聞の半分が反原発で実情を伝えない。陰でブツブツ言う代わりに、原子力支持の人は反原発新聞を買わないでほしい」。
へえ、全国の新聞の半分が反原発新聞なんだ。ウレシイな。
原子力ムラは反原発新聞が好きなのかな。検索するといろいろ出てくる。産経新聞が「反原発新聞の社会面を開くと」と言っていたのは朝日、東京、毎日の各紙。エネルギー問題に発言する会は「反原発新聞である朝日、毎日、東京新聞」と明記している。日本の将来を考える会は「朝日新聞の様な反原発新聞」と言い、原子力国民会議によれば朝日新聞は「反原発新聞の旗手」だそうな。
ただ、反原発派からは、とりわけ福島原発事故以前、朝日新聞は原発推進新聞と見られていた。推進ぶりは、上丸洋一『原発とメディア-新聞ジャーナリズム2度目の敗北-』(朝日新聞出版、2012年)を読まれたい。何がさて、下品シリーズでも最悪の見本をひとつだけ載せておこうか。
「まるで、生娘が何かを失うときのような騒ぎである。
『危ない! 汚れる! 貝の値が下がる』
と漁民が叫べば、総評[日本労働組合総評議会]は『廃船処分だ』といきり立つ。[中略]
原子炉の持つ潜在的な危険性を、だれが分担するかは、国民的な問題である。
都会地の人たちは、すでに、さまざまな危険性を分担している。工場の爆発、亜硫酸ガス、光化学スモッグ、悪臭、汚水、騒音、交通事故……。
そのような危険を負担しながら、都会の人たちはテレビを作り、衣類を作り、自動車、電球、電気がまなどを作り出している。その製品は、いなかの人たちも使っている。つまり、いなかの人たちは、都会の人たちの危険負担のもとに、工業製品の恩恵にあずかっているわけだ。
都会地に、このうえ、潜在的な危険性を加重したのでは、不公平と批判されるべきだろう。いなかの人たちにも、ありえないほどの微小な危険性を分担してもらおう、という考えは、不当だろうか。(木村繁朝日新聞科学部長――『週刊朝日』1974年10月11日号)。
[© Baku Nishio]
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